『敗者の想像力』をめぐって(5) | 私、BABYMETALの味方です。

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★今日のベビメタ

本日5月31日は、過去BABYMETAL関連では大きなイベントのなかった日DEATH。

 

小学2年生のとき、団地の、不要物を燃やす穴に落ちて全身火傷を負い、1か月ほど入院していた。そのときから本を読むことを覚えた。最初に好きになったのは北杜夫だった。

半年しかいなかった東京の中学1年の同級生に井上光晴の娘さんがいて、一度家に遊びに行って書斎を覗かせてもらったことがあった。それで、千葉へ引っ越した後、文庫になった『地の群れ/虚構のクレーン』『海へ行く駅』を読んだ。考えてみれば、その同級生というのが直木賞作家の井上荒野氏である。彼女は忘れていると思うが、ぼくの苗字は日本人としてはレアなので、当時はお互い「変な名前」と言い合っていた。!(^^)!

イジメられていた時期、ぼくは本を読みふけることに唯一の楽しみを見出していた。

小遣いをつぎ込んで文庫本を買いあさり、本棚は作家ごとに異なる色の背表紙で埋まっていった。当時のお気に入りは、安倍公房(水色)と大江健三郎(茶色)と筒井康隆(赤)だった。

さて、加藤典弘の『敗者の想像力』の最終回、「第七章 大江健三郎の晩年」と、「終わりに 水死の方へ」である。

正直、気が重い。

最初に言っておくと、ぼくが人生の最初の頃、夢中になって読んでいたのが大江健三郎であって、『空の怪物アグイー』と『我らの狂気を生き延びる道を教えよ』に出てくる激辛ソースをつけた一口カツ、排骨タンメンとコーラは未だに好物である。

少なくとも1980年代まで、新刊が出るたびに買って読んでいたが、1984年の『河馬に噛まれる』、1985年の『いかに木を殺すか』あたりから急激に興味を失い、1993年の『燃えあがる緑の木』と2000年の『取り換え子(チェンジリング)』が最後に買った大江の本だった。

だから1994年にノーベル文学賞を受賞した際も、ファンとして、あるいは日本人として、「やったー‼」という感じには全然ならなかった。初期作品に見られたシュールな状況コントのような文体と世界観がどんどん薄まり、こんがらがった“概念”を人格化したような登場人物が、思わせぶりな会話を繰り広げ、いとも簡単に死んだり、行方不明になったりする世界についていけなくなっていた。

1980年代の反核運動「核戦争の危機を訴える文学者の声明」や、1990年代に表面化した拉致問題を契機として1960年代に大江が行った北朝鮮を礼賛する声明が話題になったこと、1994年のノーベル賞受賞後の政治活動(2003年自衛隊イラク派兵への反対声明、2004年「九条の会」の結成、2006年南京大虐殺記念館への訪問、2012年尖閣諸島と竹島は日本が侵略したものだという言明など)を見るにつけ、ぼくには、大江健三郎は、もはや現実の不条理な状況を鋭く切り取る小説家ではなく、歴史的な事実に立脚しようとしない、頑迷で陳腐な戦後民主主義=サヨクの「広告塔」としか見えなくなった。

『敗者の想像力』で、加藤典弘が取り上げた2005年からの『沖縄ノート』(1970年)をめぐる元守備隊長とその遺族による名誉棄損訴訟は、高名なノーベル賞受賞者でありながら、サヨクの「広告塔」としてふるまう大江健三郎の政治活動をけん制することが目的だった。

小説家の内面を抉り出すことが目的なのではなく、社会的影響力のあるサヨク活動家に対する政治闘争なのだ。茶番に決まっている。

しかし加藤典弘は、そこに触れず、2011年に原告敗訴が確定した裁判と、その前後に書かれた『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』(新潮社、2007年)と『水死』(講談社、2009年)についての論評に終始する。それによって、小説家としての大江を擁護しようとする。気持ちはわからないでもないが、大間違いでしたな。

Black Jaytcモードに突入する。

大江は、一貫して現実社会の不条理をシュールでシニカルな文体で小説として表現しつつ、同時に「戦後民主主義者」として「ヒロシマノート」(1965年)、「沖縄ノート」(1970年)、「核時代の想像力」(1970年)のようなルポを通じて、現実社会に政治的にアンガージュした。北朝鮮礼賛に見られるように、そこには時代の制約からくる大きな誤謬があった。だが、小説家としては、それらの“向こう傷”をも内面化して小説を書き続けるしかない。その作家の内面の動きを評価するのは、作品そのものの評価とは別に必要なことだ。

しかし、それでは、政治活動家としての、サヨクの「広告塔」としての大江健三郎は、その誤謬について、頬被りをしていていいのか。そんなことはない。

1958年、芥川賞を受賞した大江健三郎は、毎日新聞のコラムで「ここで十分に政治的な立場を意識してこれをいうのだが、ぼくは、防衛大学校生をぼくらの世代の若い日本人の弱み、一つの恥辱だと思っている。そして、ぼくは、防衛大学の志願者がすっかりなくなる方向へ働きかけたいと考えている」と述べた。これに対し、当時複数のメディアから、防衛大学校の学生や卒業生を差別し、傷つけたとして批判された。

1965年、大江は「北朝鮮に帰国した青年」が金日成と握手している写真を「感動的」と評した。これによって北朝鮮=地上の楽園というプロパガンダが広まり、多くの在日朝鮮人が北朝鮮へ帰国し、悲惨な生活を送らねばならなかった。

それどころか、1970年代には、日本各地から日本人の子どもや若者が拉致され、1990年代になるまで社会問題化しなかった。日本社会党(現社民党)は、小泉訪朝で金正日が認めるまで「拉致事件は一部メディアによるねつ造だ」とする論文を公式HPに掲載していた。

大江は、北朝鮮による犯罪について、現在に至るまで、自らの責任について発言していない。

2009年、「九条の会」の講演において、大江は「核保有国と非核保有国との間に信頼関係がなければ、核廃絶は始まらない。私たちが不戦の憲法を守り通す態度を貫くなら、北朝鮮との間に信頼を作り出す大きな条件となるのではないか」と述べた。だが、その後、北朝鮮は何度も核実験を行い、日本を射程距離に収めるミサイルを毎週打ち上げ続けている。

このように、政治活動家としての大江、ノーベル賞作家として世論に影響を与える大江の政治性は危うい。

明らかに間違った言論の影響による被害者が存在するのに、それについて謝罪なり、記述の訂正をしない。そこがまずもって問題のポイントである。

2005年の「沖縄ノート」をめぐる名誉棄損訴訟の被告となったのは、法人としての岩波書店と、生身の人間としては年老いた大江健三郎一人だった。そのことについて、加藤典弘は「お気の毒」「狙い撃ち」「受難」と言っているが、大江は、芥川賞作家、ノーベル賞作家という地位を利用して、社会に主体的にコミットし続けた政治活動家なのだ。現に被害者がいるのだから、矢面に立たされるのは当然である。老大家だからこそ、責任は免除されない。

裁判の顛末は、以下のとおりである。

大江は1970年に出版された「沖縄ノート」において、1945年の沖縄県渡嘉敷島で、米軍が迫る中、島民に強制的な集団自決を命じたとして、日本軍の守備隊長に「罪の巨塊」「屠殺者」等の言葉を使った。原告はその元守備隊長とその遺族であり、命令は出しておらず、集団自決は島民の国に殉じる美しい心からなされたとして、出版の差し止めと賠償を求めた。2008年の一審大阪地裁判決では、「自決命令それ自体まで認定することには躊躇を禁じ得ない 」としながら、1970年当時発行されていた沖縄タイムズ刊の沖縄戦資料集『鉄の暴風』の記述に自決は強制だったとあることなどから、大江被告が当時「(自決命令を出したことを)真実と信じるに相当の理由はあった」と判断し、原告の元守備隊長とその遺族の請求を棄却した。2008年大阪高裁控訴棄却、2011年最高裁上告棄却により結審した。

つまり、「沖縄ノート」を書いた大江は、時代状況を考えれば、罪に問えないということである。

問題は、それを大江の作家心理に引きつけて分析する加藤典弘の論評にある。

まず、裁判を経て上梓された『水死』のプロットを紹介するところ。

エキセントリックな登場人物の「ウナイコ」は、17歳のときに、伯父である「小河」に“強姦”されたという。「小河」は地元出身のエリートで、文部科学省を退官して、今は保守系団体主催者となっている。

妻子持ちだった「小河」は「ウナイコ」の身内に詫びを入れ、一筆をとって堕胎させ、問題は解決済みになっていたはずだった。しかし、35歳になった「ウナイコ」は、18年前の事件、すなわち「小河」の“強姦”を告発するアングラ劇を地元で主催しようとしている。「小河」は、それを差し止めるために右翼の活動家「大黄さん」を使って、「ウナイコ」と大江の分身である「古義人(コギト=我)」と妹を監禁し、台本を修正させようとする。

芝居に「強姦の際の証拠物品」を出すことについて、「小河」は“和姦”だったと主張し、削除を要求すると「ウナイコ」は、“思いがけず”あっさりと伯父の言い分を認め、「ここは削除して良い」という。

ここだ。この部分について、加藤典弘は、見逃すことのできない論評を行う。

「彼女は、作者の大江と同様、この強姦=集団強制死をめぐる「名誉棄損」の訴訟において、核心をなすのは、事実問題である以上に、信念問題だと、考える。そのことを明らかにするために、重要ではあるけれども、もっと重要であるものを前面に押し出すべく、事実問題はナシとしてよい、とするのである。」(P.253)

「事実問題はナシとしてよい」?そんな訴訟があるか?

このプロットは、渡嘉敷島での集団自決をめぐる裁判を想定しているかもしれないが、それ以上に「慰安婦問題」に近い気がする。

17歳のときに「すでに解決済み」なのに、35歳になった「ウナイコ」が再度問題にし、告発の芝居を上演するというのは、いわゆる「ゴールポストを動かす」ことである。

そして「慰安婦問題」のポイントは、すでにねつ造だと判明し、朝日新聞が謝罪した「吉田証言」のように、事実に基づかないことに最大のアポリアがあるのだ。

事実を争わず、「信念問題」化することは、単純な対立点を糊塗し泥沼化する手法である。

例えばこういうことだ。

ぼくが腕時計をもっているとする。友だちが「その時計は俺のだ」と言う。

「いやいやこれはぼくのだ。」と言うと、「それは俺が机の上に置いたものだ、君は間違えてぼくの時計を奪ったのだ」と言う。

ぼくが、「この時計が君ので、机の上に置いたという証拠があるのか」と聞く。するとその友だちは、「そんな証拠はどうでもいい。俺がそれを机の上に置いたことは間違いない。それは俺の信念だ。君は友だちである俺の信念を疑うのか」と言い募る…。

「事実問題である以上に、信念問題だと考える」というのは、「核心」ではなく欺瞞である。

なぜ、加藤典弘はそこをきちんと指摘しないのだろう?

裁判でも歴史認識でも、争われるべきは「信念」ではなく、まずは「事実」であるべきであり、その意味で、1945年当時の状況は事実認定できないが、1970年当時の状況から大江が「沖縄ノート」を書いたことの罪は問えないとして、原告の訴えを棄却した裁判所の判断こそが正しい。

もし、そこに付け加えて文学者としての大江を語るとすれば、「神格化された老小説家の受難」としてではなく、1970年に書いた『沖縄ノート』と、裁判後に書かれた『水死』が、文学としてどれだけの射程距離をもっているかを論評することである。

ここで決定的なのは、加藤が「彼は、彼の戦後民主主義的な信念を自虐的な「非国民」のたわごとと非難するウルトラ右翼の批判の、その内奥深くまで彼のメスの切っ先を沈める。もし島民の集団の中にこのとき10歳の自分が身を置いていたら、やはり「天皇陛下万歳!」と叫んで死ぬということもあり得た!そう名誉棄損の被告の席で彼は感じるのだ。」(P.232)

と書いていることだ。

大江自身、「私自身、戦争中は軍国主義時代の絶対天皇崇拝の少年ですよ。戦争に行って死ぬことを夢見ていた。それが、戦後民主主義の社会に心から入れ込んでしまう」(大江健三郎『作家自身を語る』)と述べている。

ぼくはここに強烈な違和感を覚える。

なぜ、「戦時中は天皇崇拝の少年だった」「天皇陛下万歳!と叫んで死ぬということもあり得た!」と「裁判中に感じる」ことが、「あの集団自決は強制だった」という判断の根拠になるのだろう?

ぼくは、右でも左でも、学校でも会社でも、全体主義的な集団指導や、個人の神格化みたいなのは生理的に受け付けない。BABYMETALは強制されたわけじゃないからね!(^^)!

○○のために死ねと言われても、イヤなものは嫌だ。

皇民教育を受けたとしても、大江のように「天皇陛下万歳!」と叫んで死ぬことはできない。

もし自死しなければならないとしたら、圧力に屈してではなく、状況を自分で判断して諦め、なんらかの「理屈」をつけないと死ねない。そしてその「理屈」に殉じて泣きながら死ぬだろう。ぼくは「いい子ちゃん」には絶対になれない。

原告側の曽野綾子は、「神ならぬ一市民の良心から」、守備隊長を断罪することはできないと大江を批判した。島の教育委員会は、「追い詰められた島の住民たちは…敵の手にかかるよりは自らの手で自決する道を選んだ。…そこにあるのは愛であった。」(六年生の社会科郷土資料)と記述した。

こういう民衆の「理屈」を、大江や加藤が「天皇のための死を政治的に美化しようとしている」「ヤスっぽく軽薄に感じられる」(P.213)などと言えてしまうのは、大江や加藤自身が、「いい子ちゃん」だからである。

「自分も自決した可能性がある」のだから、島民は自決を強制されたに違いないと考えるのは、民衆はすべて自分と同じ「いい子ちゃん」であり、「皇民教育」や「日本軍の強制」があれば、素直に死んでしまうのだと思い込むのは、我慢ならないエリート意識、民衆蔑視である。

皇民教育で「いい子ちゃん」だった奴は、戦後民主主義でも「いい子ちゃん」になるのだ。

おまえらといっしょにするな。

民衆には、自ら状況を見抜く力がある。「命令」に従わない自由も、茶化す自由も、不真面目にヘラヘラする自由もある。ましてや死に関わるなら、逃げる自由も、抵抗する自由もある。「そんなに自決させたければ殺せ」と開き直る自由だってある。

裁判所は、自決命令があったとも、なかったとも認定していない。そして「抵抗」があったことも認定していない。それが逆に、追い詰められた島民が、自ら状況を悟って自死を選ばざるを得なかったことの何よりの証しではないか。

自殺を認めないカトリック、神を愛と呼ぶカトリックである曽野綾子が、島民の集団自決は「強制された」とする側ではなく、「極限状況の中で自ら選んだのだ」とする側についた意味、それを「愛」と呼ぶ教育委員会の側に立った意味をよく考えてみるがいい。

政治活動家としての大江の危うさは、ここに起因する。

1960年代に北朝鮮、金日成独裁政権を礼賛してしまったのも、『核時代の想像力』で原発開発を容認していたのに「革新」が政権を担う可能性がなくなった80年代以降、反対に回ったのも、「戦後民主主義」という新たな“先生”の「いい子ちゃん」だからである。

いい子ちゃんの学級委員だから、これが正しいと思い込むと、“先生”の考えと違う子を厳しい言葉で断罪してしまう。

その言葉によって傷つく者へのまなざしを、1970年の「沖縄ノート」は持っていない。

勝ち馬を、軍国主義から戦後民主主義に乗り換えただけの高名な作家の強い言葉は、「勝者の想像力」でしかない。それどころか、今なおそれに無自覚で、事実関係を自己検証することから逃げ、政治活動において「戦後民主主義者としての負け戦をまっとうすること」など、断じて「敗者の想像力」などではない。

裁判を経て書かれた『水死』を論評するなら、そして、それを「敗者の想像力」という視点から論評するなら、こういうべきである。

政治活動に関して硬直的で無責任な言動を繰り返す大江健三郎は、小説『水死』においては、“思いがけず”、アンビバレントに生きざるを得ない人間たちの錯綜した思いへの射程距離を持った優しい言葉を紡ぎ続けている、と。

「敗者の想像力」とは、加藤典弘自身が「はじめに」で述べたように、相手の目を見つめて堂々と話すのではなく、伏し目がちにしか話せない人間のありようである。『水死』の中には、戦後民主主義の「学級委員」として、天皇制を、自衛隊を、安保を、原発を上から目線で糾弾する大江ではなく、苦しみつつ、伏し目がちに語る大江がいる。

手塚治虫に対して、宮崎駿が言ったという「漫画家としてのあなたは素晴らしかったが、アニメに関してはすべて間違いでした」と同じく、大江健三郎は、政治活動家としては最低最悪であるが、その小説は今でも素晴らしい。

それは、良い悪いではなく、様々な人間の立場を調整して生活を向上させる政治という活動は、東大共産党細胞出身の「いい子ちゃん」たる大江健三郎には決定的に不向きであり、四国の暗い森で育った彼の本質は、複数の視点と射程距離を持った言葉が“降りてくる”物語の創作という行為だったのだと言い換えてもいい。

そうまとめることで大江が免罪されるわけではない。しかし、「敗者の想像力」とは、政治とか、国際関係とか、軍事とか、経済とか様々な領域で、「負ける」ということから学ぶこと、新たに見えてくる世界があるのだという考え方である。大江は戦後民主主義の学級委員として、芥川賞、ノーベル賞をとったリア充ならぬリアル勝者である。しかし、彼が主張してきたことは、ことごとく間違いだった。戦後の日本はその通りにはならなかった。その「負けっぷり」をだれよりもわかっているのが大江自身だろう。加藤典弘の結論とは反対に、大江は「戦後民主主義者」に殉じるのではなく、『水死』という小説で、複数の視点を持った物語を紡ぐことによって、そのアンビバレントを生きている。それを看取ることが、「敗者の想像力」ではないのか。

(この項終わり)