祝!BABYMETAL結成6周年 | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

本日は、ベビメタTシャツ着用の日。いうまでもなく、BABYMETAL結成記念したものである。

2010年11月28日、横浜赤レンガ倉庫2Fホールで、さくら学院祭2010が開催され、部活=派生ユニットとして、重音部のちのBABYMETALが「ド・キ・ド・キ☆モーニング」を初披露した。会場に集まったのは100人に満たない「父兄」の方々と、メンバーの本当の親御さん方だった。

8月のTIFでデビューしたさくら学院は、元可憐Girlsの武藤彩未と中元すず香、雑誌ニコラ(新潮社)専属モデルの三吉彩花、農水省食育キャンペーンガールミニパティの飯田来麗、堀内まり菜、杉崎寧々らに、「ニコラ」の第13回モデルオーディション優勝の松井愛莉、武藤彩未、飯田来麗も在籍していた「キッズスタイル」(オリコン)のモデルで子役出身の佐藤日向、小学館の雑誌「ちゃお」ガールオーディション準グランプリの菊地最愛、「キッズスタイル」廃刊後、読者モデルからアミューズにスカウトされて子役になっていた水野由結を加えた、キッズタレント界のスーパーユニットだから、BABYMETALはデビュー当時「地下アイドル」だったというのは間違いである。

とはいえ、小学5年生から中学3年生までの「成長期限定ユニット」、学校コンセプトというのは、相当にハードルが高く、日ごろウルサイ嫁とガキどもに悩まされているオヤジがハマるわけがない。TIFの午後ステージから観覧していたというタワレコの嶺脇育夫社長も含め、やはり当時の「父兄」さんたちは、それなりにオタクだったのだろう。

 

それにしても、歌唱力があるとはいえ中学1年生の中元すず香に、最年少小学5年生の水野由結、菊地最愛を組ませ、メタルをやらせるなどクレイジーの極み。しかもメタル風のアイドルソングにしてみました、というレベルではなかった。

小林啓氏は、小学6年生で聖飢魔IIに出会い、高校時代からはギタリストとしてメタルバンドをやっていたらしい。大学は早稲田の政経(Wikipedia:サンプラザ中野くんの発言より)だというから秀才だったことは間違いない。メタルファンは高学歴が多いというぼくの持論どおりである。

その彼がバンドを諦めて選んだのが、一部上場企業である音楽事務所アミューズの社員プロデューサーになる道だった。入社以来、メタル/ビジュアル系の担当として、SIAMSHADEなどをプロモートするが、サラリーマンの悲しさ、結局2008年にバラエティー/アイドル部門に回された。それもすでに売れていたPerfumeではなく、キッズモデル部門の子どもたちによる新しい「成長期限定ユニット」だ。ま、メタルバンドでヒット作を連発するという思い描いていた仕事が出来なかったのだ。エリートの挫折ですな。

 

弱りはてた小林氏は、サブカルチャーに詳しいニッポン放送アナウンサーの吉田尚記氏に相談する。吉田氏の「無理しないで、自分の好きなメタルでいいんじゃないか」というアドバイスを受けて、幼いSU-、YUI、MOAにメタルをやらせることを決意する。

それも「メタル風味のアイドルソング」ではなく、「まずベースに本格的なメタルサウンドありき」(日経トレンディ2012年10月31日のインタビュー)というように、凝りに凝ったアレンジにした。三人はメタルを聴いたこともなく、怖いと思っていたのだ。自分のルサンチマン(恨み)を担当の子どもたちにぶつけたのだから、考えようによっては酷い話だ。

ところが、三人はこれを面白がった。メロイックサインを見せられて、「わー、キツネさんだー」とふざけた。(2013年1月テレビ埼玉HOTWAVE出演時の説明)

そう、BABYMETALにキツネ様を連れてきたのは、KOBAMETALではない。SU-、YUI、MOAの三人なのだ。ここから、キツネ様の降臨=記憶にない、キツネサイン、骨バンドというメタルバンドに欠かせないギミックが生まれた。

 

しかし、武藤彩未らが卒業した2012年まで、BABYMETALはさくら学院の部活であり続けた。第一の覚醒が起こったのは、このブログの序章や第1章で書いたように、中元すず香が生徒会長になり、インディーズデビュー作となった「ヘドバンギャー!!!」のリリースだった。歌詞を深く理解して、メタルにハマった少女の自立の瞬間を歌い上げること。「15の夜」の切なさを激しいダンスで表現すること。三人の少女たちは懸命に取り組み、それが、「ヘドバ行脚」から目黒鹿鳴館の「コルセット祭り」で観客に伝わり、クラウドサーフが起こったほど熱狂させたのである。

続く8月。三人は史上最年少でサマーソニック2012の「Side Show Messe」のステージに上がる。TIFと同じメドレーだったが、三人は全力でパフォーマンスした。

ステージを終えた三人は、ももクロのステージを見た後帰宅。菊地最愛は夏休みの課題作文に「さまーそにっくにしゅつえんしました」と書いた。(中学1年生なんだからホントはひらがなじゃないだろうけど、雰囲気で)

第二の覚醒が起こったのは、初の1000人超え会場で、MC代わりの「紙芝居」が始まり、神バンドが初生演奏した同じ年10月6日、メタル少女歌劇仕立てのLegend“I”。ここでSU-がマントを翻して初披露したのが「紅月-アカツキ-」だった。

長い間、ぼくはこの曲の歌詞の意味が分からなかった。悲愴感はあるのだが、「幾千もの夜を越えて生き続ける愛」とは、誰の、何への愛なのか?「傷ついた刃差し向かい」「孤独も不安も切りつける心まで」というが、どうしてそんなことになってしまったのか?

でも、KOBAMETALが元メタルギタリストで、就職先に一部上場企業を選んだものの、思うような仕事ができず、左遷されていたということを知って、なんとなくわかった。

「命が消えるまで守り続けてゆく」「愛」とは、KOBAのメタルへの愛だ。差し向っている「傷ついた刃」とは、長年使ってきた打痕だらけのギターのことだ。

プロデューサーとしての仕事が思うに任せず、孤独と不安が押し寄せるとき、向かい合ったかつての愛器に、「お前、俺を捨てて何やってんだよ」と言われているような気がする…。

ま、ぼくの妄想ですけど。「幾千もの夜を越えて」とあるが、1年は365日だから、10年くらいで「幾千もの夜」となる。ギタリストを諦めて就職してからアイドル担当に左遷されるまで、そのくらいの年月だよなあ。

それを、見事にSU-が「メタルへの愛」の絶唱へと昇華してくれた。そういうことなのではないか。ちょっと幻滅?

神バンドの初登場→「ヘドバンギャー!!!」→「イジメ、ダメ、ゼッタイ」で締める流れは、Sonisphere2014を予感させる完成度を持っていた。このため、ぼくはBABYMETALの第二の覚醒をLegend“I”に見ている。

そのあとのLegend“D”、“Z”で、BABYMETALがSU-の卒業とともに解散することはなくなった。PMC Vol.7でライターも書いていたが、“Z”の最後、白装束で復活したBABYMETALを受けた「紙芝居」の最後のセリフは「そう、破滅に向かって…」だった。これは、ぼくが2月に「第1章」で書いたように、1992年のX-Japan東京ドーム3Days公演のタイトルであった。つまりは、いつかは東京ドームでライブをやる、という宣言だったのである。

そして、2013年早々、聖飢魔Ⅱに倣って「世界征服」を目標に掲げ、メジャーデビュー。5月からは神バンドを帯同し、日本全国のフェスを席巻。「継承したもの革新したもの(3)」にコメントを頂いたスーさんからのご指摘どおり、サマソニ2013への出演が先にオファーされ、その「修行」として五月革命が企画されたという流れのようだ。

BABYMETALが「タダのアイドルではない」ということは、LOUDPARK13でメタルファンに知れ渡った。だが、世間的にはまだまだ「売れないアイドル」であった。

2014年2月に初出演したMステでは、すでに1年前にリリースされた「イジメ、ダメ、ゼッタイ」を初披露する際、「イジメ、ダメ!でXジャンプをするんです」という説明に、サーシャじゃなかった、サッシ―以外のAKB48のメンバーが面白がってキツネサインをしてくれたという一幕もあった。

だが、ここからBABYMETALにとって、最大のターニングポイントが矢継ぎ早に起こる。まず、史上最年少の日本武道館「赤い夜」「黒い夜」、米ビルボード187位にランクインしたファーストアルバム「BABYMETAL」のリリース、「ギミチョコ‼」MVの世界的大ヒット、そして7月からの初ヨーロッパツアー、Sonisphere2014の奇跡とレディガガのサポートアクトから、11月のNY・ロンドン追加公演、そしてNHK「BABYMETAL現象」の放映。

ここで「私たちはアイドルではありません。でもメタルでもありません。BABYMETALっていうオンリーワンのジャンルになりたいんです」というマニュフェストがSU-の口からきっぱりと語られた。この言葉の初出がいつなのかははっきりしない。かなり前、2012年から言っていたという説もあるし、遅くとも2013年には長めのインタビューで言っていたようでもある。ただ、国営放送で堂々と宣言したという意味では、この「BABYMETAL現象」の意味は大きい。

そして、ぼくが公開後数か月を経て見て衝撃を受け、暗い闇の淵から叩き起こされたのは、明けて2015年の新春キツネ祭り、「Road of Resistance」での2万人のシンガロングのあとのSU-の「かかってこいやあ!」であった。

メタルのKawaiiパロディのようだったBABYMETALが、KOBAMETALの真摯なメタル追求に応え、苦しい練習とファンカムで生歌・生ダンスを全世界にさらされる過酷なライブツアーをこなし、アイドルか?メタルか?という批判や中傷に悩まされながら、そのすべてを乗り越えて、「わたしたちは、既成のジャンルに縛られないオンリーワンの道を行く。運命よ、かかってこいや!」と雄たけびを上げたBABYMETAL最終覚醒の瞬間であった。

あれから、すでに2年近くが経過した。

過酷なメキシコシティ高地ライブで幕を開け、成長する身体にバランスを崩した時期もあったが、Reading & Leedsフェスに8万人を動員、初の全国Zeppツアーを敢行し、それが「Metal Hammer」「Kerrang!」「GQ」「Vogue Japan」などの受賞につながり、横浜アリーナで「The One」を初披露し、それがTrology三部作として結実した2015年。

セカンドアルバム「Metal Resistance」が米ビルボード39位にランクインし、坂本九以来53年ぶりの快挙となり、イギリスウェンブリーアリーナを皮切りに、CBS「The Late Show with Stephen Colbert」への出演、Mステでの欅坂46との対決、アメリカ東海岸、ヨーロッパ、西海岸と目まぐるしくライブをこなし、メタルレジェンド、ロブ・ハルフオードとの共演が全世界に配信され、「Kerrang!」誌認定の「Best Live Band」に選出され、グラミー賞へのノミネートが話題に上るまでになり、夏には4大フェスに出演、とうとう、念願の東京ドーム2日間「赤い夜」「黒い夜」を開催し、11万人のThe Oneを集めた2016年。年末にはレッドホットチリペッパーズのSpecial Guestとなり、イギリスツアーを行い、国民的番組である紅白歌合戦については、オファーはあったが、ナチス問題があった欅坂46や、レコード大賞買収疑惑のある三代目J Soul Brothersとは、このタイミングでは同じステージに立たないという判断から、辞退をした。

 

BABYMETALは、天才プロデューサー小林啓氏の作品である、という見方がある。

だがぼくはそうは思わない。文字どおりのメタルエリートだった小林氏の挫折と不遇の夜を救い、才能と美貌と努力と根性で世界一のライブバンドに成長し、東京ドームまで連れて行ったのは、間違いなくあの三人、BABYMETALなのだ。

BABYMETALの三人は、ここまで育ててくれた「お父さん」に感謝しているだろう。だが、小林啓氏もまた、BABYMETALの三人に深く、深く感謝しているはずなのだ。

小林啓さん、中元すず香さん、水野由結さん、菊地最愛さん、神バンドのみなさま、チームベビメタのみなさま、世界中のThe Oneのみなさま。

BABYMETAL結成6周年、おめでとうございます。

そして、今、この伝説的瞬間に立ち会えた奇跡を、ありがとう。

ぼくは、いつもいつも、いつまでも、BABYMETALの味方です。