中高年がハマる理由(2) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

フランクフルト学派を代表するユダヤ系ドイツ人哲学者、社会学者であるT.W.アドルノ(1903-1969)は、自らもピアノ演奏や作曲を手がけ、20代の頃から音楽評論をはじめるが、ナチス台頭により1938年にイギリス、アメリカに亡命。戦後、ドイツに戻って、T.ハーバーマスとともに、フランクフルト大学社会研究所の所長となり、ナチスに協力した一般大衆の心理=“権威主義的パーソナリティ”の研究や、ファシズム順応度を測定する“Fスケール”などの社会心理学的業績とともに、数多くの音楽に関するエッセイを残している。

『不協和音-管理社会における音楽-』(平凡社ライブラリー)は、音楽が商品化・大衆化・大量消費されているアメリカの状況をふまえ、現代社会において、音楽がどう受容されるかを考察したエッセイ集。

当時のドイツでは、音楽といえば、バッハ、ベートーヴェン、モーツァルトが「古典」、シューベルトやワグナーが「国民音楽」ないし「大音楽」、流行歌や、当時大流行していたトスカニーニのオペレッタは「娯楽音楽」ないし「軽音楽」、アメリカのジャズやアルゼンチンタンゴは「ダンス音楽」という具合に区分されていた。大衆が音楽に接する機会はコンサートが主で、音楽商品とは、楽譜と戦後急速に広まったEP、LPレコード。メディアはラジオ、ダンスホールではジャズかタンゴで踊るという時代である。戦前から続くワンダーフォーゲル、すなわち若者が郊外を闊歩しながら、ギターを弾いて歌う素朴な大衆音楽運動もあったし、一方、シェーンベルクやシュトックハウゼン、ブーレーズらの12音階、無調性音楽、電子音楽も「新しい音楽」として、盛んに試みられていた。

そうした音楽をめぐる社会状況をきめ細かく分析し、音楽の大衆化、商品化について、難解なアドルノにしては比較的すっきりと記述しているのが、『不協和音』冒頭の「音楽における物神的性格と聴取の退化」というエッセイである。ぼくの読みが大きく外れていなければ、アドルノが批判しているのは、次のような現象である。

音楽は、大衆社会で商品化されることによって、物神(フェティッシュ)となる。音楽における物神崇拝の最たるものは歌手の声である。

大衆は、音楽商品を購入することによって、物神としての音楽を「わが物」にする。

その購入動機は、必ずしも大衆自身が主体的・選択的に「気に入ったから」というわけではない。むしろ「売れている」音楽家だということが物神化の第一要因となる。それは、音楽商品を消費している聴衆にインタビューしても、多くがはっきりとその理由を答えられないことからもわかる。

このような音楽大衆は、音楽家ないし音楽産業の生産者に対して自虐(マゾヒズム)的である。例えば、ジャズで踊り狂う「ジッターバグ」(スイングの虫=ジャズ狂)のように、自ら宣伝を買って出て、その音楽家の楽屋に連なっているつもりになる者もいる。一方、自分の部屋に閉じこもって、音楽そのものよりも、自作のラジオでそれを聴くことに喜びを感じる「日曜機械製作者」のような、たぶん、女の子にもてない人種もいる。さらに、どんな楽団でも即座に言い当て、キリスト受難史のようにジャズの歴史に通暁した耳達者もいる。

「大音楽」をしっかりと自分の耳で聴き、選択の自由と責任のもとに総合的に理解し、評価できるのが本当の能動的聴衆である。しかし、いわゆるジャズや流行歌の「ファン」は、似非能動的聴衆であって、成長しない子どもとして扱われている。なぜなら音楽の生産側は、巧みな編曲によって「大衆受けする耳あたりのよい」音楽ばかりを提供するようになっているからだ。こうして音楽の大衆化時代は、聴取の「退化」が起こり、音楽家自体もそれに引きずられて「退化」していくのではないか…。

 

物神化論は、初期マルクスに発し、フランクフルト学派の大衆社会分析のキーワードとなる概念である。労働者の作った生産物は、作り手を離れて市場で商品として交換されるとき、それ自体が神秘的な価値を持つ「物神」と化す。購買者は商品の使用価値だけでなく、「物神」としての交換価値に対価を払わねばならないのが、市場経済が根本的に抱える頽廃現象だというのだ。

資本主義そのものへの批判を含んでいるので、最近では「物神」という言葉に代わって「付加価値」という言い方が一般的だが、大学でフランクフルト学派の教授について社会学を学んだぼくには、しっくりくる。

それはさておき、1950年代の社会状況の分析としては、アドルノの考察は、驚くほど現代的だと思いませんか。

歌手の声(SU-様)を物神崇拝するとか、売れているからアイドルなのだとか、「物神」(=キツネ様の賜物)としての音楽商品を購入してわが物にした気になるとか、自虐的だとか、ライブを追っかけ、熱狂するさまをファンカムに撮影し、The Oneとしてスタッフ気取りで世界に宣伝するファンとか、部屋に閉じこもって自作パソコンで動画をコレクションするモテない奴とか、どんな曲でも即座に言い当て、キリスト受難史のようにBABYMETALのトリビアに通暁した奴とか、これはもう、ぼくら自身のことじゃないですか。

一点だけ、アドルノの頃には存在しなかった、したがって彼の大衆音楽社会批判の根拠には含まれなかったことがある。それが、インターネットだ。

当時、自らやったのかどうかはわからないが、音楽商品を消費している聴衆に直接インタビューしても、多くがはっきりとその理由を答えられないとアドルノは言っている。

しかし、1990年代のパソコン通信に端を発し、今や全世界を覆いつくしたインターネットは、一部の独裁国家を除いて、大衆一人一人が好き勝手な意見を匿名で述べられるメディアである。

そこでは、ありとあらゆる音楽、アーティストについて、聴衆が自らの「選択と責任」においてきわめて能動的に個人的な見解を述べている。

しかも、アドルノの時代には、「売れている」という宣伝や評判によって音楽家が物神化されたのであったが、インターネット時代では、「売れている」こと自体や、その評判が本当なのか、ウソなのか、徹底的に暴かれる。高速通信規格の発達によって、ファンカム動画は一夜のうちに全世界で視聴され、聴衆は誰にも気兼ねなく評価することができ、意見を表明できる。もちろん、アドルノが見越したように、アーティストの評判に便乗して、なんとなくファンになった者もいよう。だが、入り口はそうであったとしても、ヘイターの批判を踏まえた上で、ぼくらは最終的に「選択と責任」にもとづいてBABYMETALを選んだのだ。

確かに追っかけ、熱狂的に「楽屋に連なる」気分になる者もいよう。動画やグッズをコレクションしてニンマリする者もいよう。歴史に通暁しようとする者もいよう。だがそれは、アドルノ時代のように一方的な宣伝によって踊らされたのではなく、ネットのエリミネーションを経た、自らの意志によるものだとはっきり言える。

アドルノが蘇り、ケルンやシュツットガルトやベルリンでBABYMETALを見たらどう思っただろうか。

彼は、「青年歌声運動」で用いられたギターを“幼稚な楽器”と呼んだ。

また、ジャズやトスカニーニを娯楽音楽として軽蔑し、「新古典派」と呼ばれたストラヴィンスキーも嫌いだったようだ。一方、不協和音や電子楽器を用いた現代音楽を「新しい音楽」として称賛し、のちにそのマンネリ化=「老化」を嘆いた。

電気仕掛けのギターとベース、ジャズのドラムスを用い、「不協和音」「歪んだ電子音」(「ギミチョコ!」の冒頭のキーボード)をバックに、澄んだ歌声の女性ボーカリストと激しいダンスをパフォーマンスするBABYMETAL。

キツネ様=悪魔の異教とカワイイ異国の少女、ジャズ・ブルース的ペンタトニックをほとんど用いない楽曲と爆音。現代のオペレッタといえるような「紙芝居」の設定や、ストラヴィンスキー「春の祭典」を源泉とする激しいモダンバレエのようなダンス。大衆音楽なのにエキゾチックで前衛的なメロディライン。馬鹿みたいに熱狂し、消費しながら、主体的に意見を述べ続けるファン。

彼が音楽の究極の理想とした「完全無欠の野蛮」、待望してやまなかった「現にあるのと違ったもの(Das Andere)」と思うだろうか。

ま、初めて聴いたら卒倒しちゃうだろうな。

こんな牽強付会ができるのもBABYMETALに中高年がハマる理由なのです。

T.W.アドルノの音楽関係の主著は、以下のとおり。

 

『音楽社会学序説』(平凡社ライブラリー)

『楽興の時』(白水社)

『アドルノ音楽・メディア論集』(平凡社)

『新音楽の哲学』(平凡社)

『ヴァーグナー試論』(作品社)