韓国人や韓国政府のやりかたが道義的に正しいかどうかは別として、少なくとも彼らにとっては一石二・三鳥の合理的な行動ではある。


憎い相手を貶めつつ、自分への責任追及も回避される。
しかも日本人を罠にかけることは韓国では「英雄的行為」である。

しかも、日本以外のいろいろな国に分散して責任転嫁して無闇に敵を増やすよりは全部まとめて日本のせいにしたほうが韓国の外交にとっては遥かに効率的だろう。日本とだけ戦い、日本さえ丸め込んでしまえば、それだけで全てがチャラなのだから。

日本は「国際紛争を武力で解決することを憲法9条で禁止」しているため、韓国のような喧嘩の弱い国にしてみれば「自分が殴られる危険なく相手を一方的に殴ることができる」ので願ったり叶ったりのオイシイ相手だろう。

また、日本人は、相手に堂々と大胆な嘘をつかれた時には「ここまで堂々と言っているのだから、もしかすると自分が知らないだけで間違っているのは自分なのかもしれない」と、韓国や中国の愚にもつかない主張にさえも耳を傾け、自分側を疑う謙虚さを発揮してしまう。

韓国は、
このような日本人の「甘さ」を昔から熟知している。



今のような時代だからこそ、我々は福沢諭吉の著した『脱亜論』を思い出すべきなのかもしれない。

原文は古い時代の言葉だが、要点を現代語に訳してまとめれば以下のようなものである。


「日本にとっての不幸は、“中国と朝鮮”である」

「この2国は古来文化は近かったはずなのに、日本と精神性が全く違う

「情報が発達し、近代文明や国際法を知る時代になっても過去にこだわり続ける中国と朝鮮の精神は千年前から変わっていない

「もうこの2国が国際的な常識を身につけることを期待しても意味がない

「東アジアの一員として互いに繁栄できる、という幻想は捨てた方がいい。日本は、中国や朝鮮と絶縁し、欧米と共に進んだ方がいい」

「中国や朝鮮に“ただ隣国だからといって”特別な(親しい)感情を持って接するのは間違いである」

「この2国に対しては国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい

「悪友と親しくする者は、他人から同類と見られることを避けられない」



福沢諭吉『脱亜論』(原文:ttp://www.chukai.ne.jp/~masago/datuaron.html)



これが書かれたのは明治18年(1885年)、つまり120年前である。

当時の日本にここまで本質を見通せる賢者がいたことに感動すると同時に、120年前の福沢諭吉が「中国と朝鮮の民族性は“昔から”変わってない」と述べている点に注目したい。

そう、“今も”同じなのである。

いや、むしろ今のほうが厳しい状況なのかもしれない。

日本の弱腰の外交姿勢、弱者には手を差し伸べる日本の国民性、敵にまで礼儀をつくす武士道の精神、世界2位の経済大国という余裕……

どれをとっても彼らからみればカモでしかないのである。




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