そもそも武蔵が熊本へ来た「きっかけ」とは・・・。
~ 武蔵直筆の書状 ~
武蔵が細川家の客分として迎えられた、いったいどのような経緯からだろうか。
その経緯を解く重要な「武蔵直筆」の手紙が
熊本県八代市立博物館で見ることができる。
それは松井興長(おきなが)に出した書状である。
興長と武蔵は昵懇の間柄にあったとされる。
それは、時の小倉城主・細川忠興が決闘を許可した巌流島の戦い!
その後見役をしたのが松井興長なのである。
さらに興長は、巌流島に渡る武蔵に船の手配までしてくれた
~そんなことがあった~
それから28年が経ち、細川家は熊本に移る。寛永9年(1632)
当時の小倉城主細川忠興は八代(やつしろ)城主に
その子忠利は熊本城主に。
そして松井興長は細川忠興の家老として八代城を預かっていた。
(忠興没後八代城主となる)
※当時熊本は一国二城の特例地とされていた。
以前書いた八代関連のブログはこちら
http://ameblo.jp/j-turtle/entry-10919987522.html
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http://ameblo.jp/j-turtle/entry-10921965264.html
平成6年に八代の竹田家(松井家の家老を務めた家系)の
古文書の中から幸運にも一つの書状が発見された。
これぞ間違いなく武蔵の直筆と鑑定され、全国に2通しかない武蔵の手紙
(1通は吉川英治記念館)として八代の“宝物”になっている。
その手紙こそが
武蔵が熊本で忠利に仕えることになったいきさつを解く重要な書状だったのである。
そういったことでは、松井興長の存在は大きい。
興長がいなければ、武蔵は一所不定のまま終わったかも知れないのだ・・・。
正保2年(1645)武蔵62歳。
忠利から与えられた千葉城跡の屋敷で息を引き取った。
~ 八代で生まれた「二天記(にてんき)」 ~
武蔵の死後に書かれた武蔵の伝記ともいうべき重要な文献。
松井家家臣の豊田又四郎正剛が武蔵に直接仕え
教えを受けた人々や弟子たちの談話が記録されたもので
その子正修から、孫景英の三代に渡って完成されたものだ。
武蔵は死後の弟子たちの面倒を松井興長に頼み
八代松井家に引き取ってもらった関係で
八代でその伝記「二天記」は綴られたのである。
武蔵物語の貴重な資料と
なっている。
~ 武蔵の墓が3つある! ~
★武蔵塚(武蔵塚公園)・・・①
★泰勝寺跡の供養塔(立田自然公園)・・・②
★西の武蔵塚・・・③
そして、これが
★引導石
この引導石は
昔から学生の街として趣きがある閑静な、車1台しか通れない程の道
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)や夏目漱石の明治30年頃を偲ばせる現熊本大学の
横の小道を登って行くと、泰勝寺跡(立田自然公園)手前の小峰墓地の入口近くに
唐突な感じで、道端の左脇に「引導石」と書いた標木が立っている。
これは武蔵の葬儀のとき
その石の上に柩を乗せて春山和尚(細川家の菩提寺・泰勝寺の2代目)が
「引導を渡した」由緒ある石で
このモニュメントも歴史定点の一つだ。
そして、これは・・・
★座禅石
熊本城から西方約3kmのところに「武蔵の座禅石」なるものが残っている。
石の上に座って目を閉じてみると自然と背筋が伸び、静かな時の流れを感じる。
熊本で瞑默の時と場所を得た武蔵は幸せだったのではないだろうか。
現在は一帯、谷尾崎梅林公園とし整備されている。
~ 武蔵塚へ! ~
★武蔵塚公園
武蔵の生前の遺言によって、主君の参勤交代を見守るため、甲冑を帯し
六具に身を固め立見の姿でこの地に葬られたと伝えられている。
(①の写真)ここは、熊本市内から阿蘇へ向かう
旧国道57号線、弓削の大津杉並木街道(豊後街道)沿い。
熊本では、西の武蔵塚(島崎地区)と区別して、東の武蔵塚と呼ばれたりしている。
★宮本武蔵の銅像
二刀を構えた武蔵の立派な銅像だ。
武蔵の自画像をモデルに
熊本大学・石原昌一教授の作。
熊本城下にある高橋公園に建つ
横井小楠・勝海舟・坂本龍馬・・・の維新の群像の作者でもある。
★独行道 二十一箇条
武蔵直筆を銅板に浮き彫りされている。
「身をあさく思ふ、世をふかく思ふ・・・・・」
(自分中心の心を捨て、世の中のことを深く考える)
今の政治家の皆さん方には心に刻んでほしいものである・・・。
★二天一流(五方の形)
武蔵は自分の剣法を五輪書
〝地の巻″にて「二天一流」と
名付けている。
現在は、市制100年の記念事業として整備され
日本庭園を配した「武蔵塚公園」となり市民憩いの場となっている。
~ 西の武蔵塚! ~
武蔵の高弟、二天一流を受け継ぐ寺尾信行一族の墓地の中に眠る。
熊本市の西部、島崎地区の山つきにその墓があるところから
先の武蔵塚と区別して「西の武蔵塚」と呼ばれている。
今は住宅地が立並ぶ細い通路を通り
高台の上までいかなければならないので辿り着くには難解な場所だ。(゚_゚i)
石段のところには武蔵の案内板があり、そこだと判る。
墓③のある地は
武蔵の愛弟子寺尾勝信(兄)・信行(弟)兄弟をはじめ
寺尾一族の墓域が“先師”を護るように並ぶ。
武蔵からは兄・勝信には「五輪書」を、弟信行に「兵法三十五条」の“巻物”が渡された。
高弟であるが故の最高の形見である。しかし、
弟・信行の墓はすぐ近くにあるが、兄・勝信の墓は見当たらない・・・?
武蔵の死後、「二天一流」の系譜は弟の信行が受け継いでいる。
自然石の墓標の碑面には、「貞岳玄信居士」と武蔵の戒名の書かれた
文字によりそって、「心月清円信女」と彫り込まれている。・・・女性!
武蔵の妻か? あるいは武蔵のおもい人? 武蔵を慕う人?
いや、いや、墓をあばかれたくないために仮装夫婦塚とした・・・等々
異論が渦巻いていまに至っている。
兄・勝信の墓地は宇土市松山の五色山の中腹の墓所にあった!
(平成5年に発見!)
研究者の間で“謎”とされていた。勝信の後半生に何があったのか?
発見当時、墓は二つに割れていたという。
寛文12年(1672)60歳で世を去った彼の墓碑の裏には、辞世の歌が刻まれている。
この墓碑見つけ出すのに骨おりました(;´▽`A``
「 つゆとをき つ由(ゆ)と きえにしわがみかな
なにわ乃(の)ことは夢の又由(ゆ)め 」
武蔵の死後、勝信の周りで何が起こったのか
どうして寺尾家の墓地でなく、宇土市にあるのか?
時が全てを包み込んでしまったいまとなっては
彼の辞世の句に
そのすべてが込められているように思えた。。。
最後までお付き合い頂きました皆さま方ありがとうございます!
次回最後はいよいよ武蔵が籠って「五輪書」を書いた『霊巌洞』!
写真が多くてさらに長いです。覚悟してお越しくださいまし(;^_^A
本日は以上です。