甘粕事件は、日本史を勉強した人なら、誰でも強く印象に残っている事件だと思います。

甘粕正彦憲兵大尉(32)が、関東大震災直後のどさくさに紛れて、無政府主義者・大杉栄(38)と、

その妻・伊藤野枝(28)、さらに甥の橘宗一(6)を惨殺し、古井戸に投げ込んだ事件です。


単なる狂信的な国家主義者の暴発事件と片付けられない、

時代と人間をめぐるドラマが、この事件の背景にはあります。

被害者・大杉と加害者・甘粕は、あらゆる意味で対照的な人物でした。


大杉は軍人だった父の影響で、軍人を志し、陸軍幼年学校に入学します。

しかし、厳格な規則や上下関係になじめず、問題ばかり起こし、退学させられています。

その後、東京外語学校(現・外語大)仏語科で学び、天才的な語学の才能を発揮し、

幸徳秋水(大逆事件で処刑)に可愛がられました。


大杉は日本史上もっとも過激な左翼思想家で、天皇も国家も認めず、全ての権威を否定しました。

「自由かつ独立した、完全に無制約な個人」の革命を、私生活上でも実践し、

数々のスキャンダルで世間を賑わわせ、若い世代のカリスマになります。


大杉と妻の名が違うのは、完全に対等な男女関係を目指し、男女別姓を実行していたからです。

しかも大杉には3人の妻が居ました。次々と生まれる子供たちには、

魔子、エマ、ルイズ、ネストルといった、常識はずれの名前を付けました。


「反逆と破壊の中に至上の美を見出す」というのが、彼の信条です。


長身でダンディーな大杉は女性からはもてたのですが、

男からは社会主義者の仲間内ですら、嫌われ者でした。

わがままで強情、まともに働かないから借金だらけで生活は乱れ、

周りにさんざん迷惑をかけているのに、自分以外のすべての者を、

馬鹿にしてあざけっていたからです。


大杉栄

大杉栄


これに対して甘粕は、地味でまじめな青年でした。

仙台藩士だった父から「忠君愛国」の思想を叩き込まれ、

日露戦争があった少年時代、皇国のために戦って死に、

靖国に祀られることを人生の目標と定めました。


背が低く、女性と無縁で、外国語が大の苦手でしたが、

律儀で几帳面だったため、陸軍幼年学校、士官学校とも模範生として卒業し、

東条英機(極東軍事裁判で処刑)から将来を嘱望されました。


甘粕を知る人は、口々に彼のことを、

「男が惚れる、男の中の男」、「私利私欲の全くない、国家のことだけを考えた男」、

「冷静で実行力に富み、友情に厚い、誰よりも頼りがいのある男」と、ほめたたえています。

天皇・祖国に対する崇拝と自己犠牲の念は、終生変わらなかったと言います。


大正末期は、自由と束縛の拮抗した、日本思想史上もっとも左右の振幅の激しかった時代です。

そうした空気の中、思想の上でも性格の上でも、これ以上隔たりのある人間は居ないような、

両極端な人物が出現したのです。


甘粕正彦

甘粕正彦


一般には甘粕は、憂国の士として、

「大杉のような男を生かしておいては国家の害毒になる」と確信し、

独断で殺害を決行したとされています。


ところが、事件発覚後、軍事法廷が甘粕に下した判決は、たった10年の懲役刑でした。

しかも3年足らずで出獄し、軍の費用でフランスに留学した後、中国に入り、

満州国建国の黒幕として、工作活動に暗躍しました。


角田房子さんの『甘粕大尉』によると、

どうやら大杉殺害の真相は、軍上層部の命令によるものであったのに、

甘粕が「すべては自分の独断でやったこと」と、罪を一身に被ったようなのです。


甘粕は終戦直後、満州で自決しています。


大ばくち 元も子もなく すってんてん (辞世の句)


大杉事件の真相は最後まで誰にも明かしませんでした。

こう考えると、甘粕という人物は、俗に言われるような悪魔でも怪物でもなく、

大杉と同じ、国家の犠牲者、天皇制の犠牲者だったと思います。

大杉にせよ、甘粕にせよ、純粋すぎたばかりに、時代の「観念」の虜となり、

空虚な生を送り、無念の死を迎えたのだと思います。


私たちが覚えておきたいのは、人間が作り出す『観念』の恐ろしさです。

「国家」も「天皇」も、いや「自由」すらも、この観念から生まれます。

観念の暴走から逃れるには、どうすればよいのでしょうか。

私は、『自然』に立ち返ることしかないと思います。

自然を忘れた人間と文明は、滅びます。


角田 房子
甘粕大尉
殺人犯でありながら、天皇からもらったこの勲章の多さ!
名誉などというものはつくづく「虚」であると思い知らされます。
大杉 栄
大杉栄自叙伝
人間的にはやはりこちらの方に惹かれます。
大島渚の代表作「エロス+虐殺」に描かれています。

松竹
ラストエンペラー

甘粕と関東軍にさんざん利用された、皇帝溥儀の一生を描いた作品です。

坂本龍一が怪物・甘粕役を演じています(あまりうまくはありませんが)。

甘粕は荒俣宏の『帝都物語』にも登場します。