岐阜県岐阜市加納水野町(金津園)⑥ 喫茶むらやま | お散歩日記

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路地裏、バラック、長屋、昭和の香りがする飲食街、遊郭赤線跡地、廃墟、古い町並み、山奥・・・・そんな場所を訪れては下手糞な写真を撮っております。

金津園編最終回です。

今回は金津園にある喫茶むらやまへ。赤線時代のカフェー建築をそのまま使用している喫茶店。

尚、当ブログで目にする「カフェー建築」。その「カフェー」の意味について分かりやすく記してあるウィキ情報を引用いたします。「純喫茶」との対比のみならず「赤線」「青線」についても書かれていますのでご参考に・・・・。



明治末期にできたカフェーは知識人たちの社交の場であったが、大正時代には徐々に大衆化し、女給らによる接客を主な目的とした店も増えていった。このような店では、夜には主に酒類を出し、隣に座る接客係の女性らに客がチップを払うといった、現在のバーやクラブのような業態となる。

これらは昭和初期には隆盛を見るようになるが、やはり「カフェー」や「喫茶店」とも呼ばれていた。一方、酒類を扱わない本来の意味の喫茶店も一般的な存在となり、酒類とホステスを供給する前者を「特殊喫茶店」と呼び、後者は本来の喫茶店との意味で「純喫茶」と呼ぶようになった。スナック等の酒場との差別化のためであったとされる。

なお、特殊喫茶店のある地帯は「赤線」とか「青線」とよばれる地帯が存在した。「赤線」は第二次世界大戦後、1958年(昭和33年)に売春防止法が施行されるまでの間、売買春が公認されていた地帯(主として江戸時代から遊廓があった所在地や伝統はないが多数の業者が集まった場所)を指し、風営法に基づいて警察が「特殊喫茶店」などという形で営業を黙認していた。

その語源は警察が特殊喫茶店の位置を地図に赤線で印をつけていたことに由来し、青線は飲食店としての届出は出しているが、前記の「特殊喫茶店」としての届出を出さずに買春営業をする地帯を呼んだ。昼から酒を飲む事に抵抗のある風潮に合わせたイメージ戦略であろう。1955年(昭和30年)頃~1975年(昭和50年)頃までは、「純喫茶」と名乗る喫茶店が各地に多数あったが、現在は死語に近い。









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金津園を一通り散策し終えたら「喫茶むらやま」でモーニングを頂く予定にしていました。「旅館想い出」のある通り沿いを進むと見えて来ました。
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近付くと女将さんらしき方が自転車に乗り込もうとしています。

「ちょっと出前に行ってきますからお店で一服していて下さいね」

どうやら「出前」もやっている様子です。
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タバコに火を点け店内で暫く待ちます。店内はレトロな喫茶店然とした良い雰囲気。私の他には地元の常連の方と思しきご婦人が一人ワイドショウに見入っています。待つこと十分余り。女将さんが戻ってまいりました。
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モーニングを注文しました。

常連と思しきご婦人の目を気にしながら「昔ながらの素敵なお店ですね」と話しかける私。

トレー左上の白い小皿に乗っているのは、パンの耳と砂糖を油で揚げたお菓子。これが本当に美味しかった!絶品です。
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常連と思しきご婦人がお店を後にしました。

暫し女将さんと語らいのひと時。

「ここに嫁いで昭和四十七年にお店を始めました。最近はインターネットでウチの写真を見て来て下さるお客様もいらっしゃるのですよ。あなたもそうなのですか?写真は好きなだけ撮って下さいな。新潟まで遠いでしょう。良かったら帰りの道中に召し上がれ」

・・・・・そう言って手渡してくれた袋の中身は先ほどのパンの耳を揚げたお菓子。あのカリカリとした食感と、口に中に広がる甘味は忘れられません・・・・・。
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喫茶むらやま

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