清富寺(せいふうじ)境内の徳本(とくほん)の碑 | 伊豆高原 遊リゾートのちーさん

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伊東市富戸(ふと)の道沿いに咲いていました*さくら*
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清富寺(せいふうじ)境内 徳本(とくほん)の碑


著・山本 悟 (富戸史話・他より)


徳川四代将軍家綱のころのこと。

甲斐の国(山梨県)に徳本(とくほん)という医者がいました。


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家綱         ウィキペディアより


やがて江戸に出た徳本は、オランダ医学の道を究めたい

と考え、長崎に渡りました。


そこでオランダ人から医術を学び、江戸に戻った徳本は、

早速江戸城に参上しました。


かねてから家綱の病弱であることを耳にしていた徳本は、

長崎土産のブドウ酒を献上しました。

トクトクと音をたてながらギヤマンの杯につがれるブドウ酒。


毒々しいまでの赤い色。

家綱の顔色がさっと変わり、こめかみの青すじがピクピクと

動きました。


「この不届者。異教徒(キリスト教を信ずる者)の血を飲めと

申すのか」


徳本は将軍の怒りにふれ、江戸を追われる身となりました。

徳本の足はいつか伊豆に向かっていました。



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伊東市富戸清富寺(せいふうじ)


長崎に渡る前のこと。

丸薬や煎じ薬、膏薬(こうやく)などを入れた薬籠を背負い、

一服一錠何文という安い値段で、薬を分け与えながら

歩いた道。


「甲斐の徳本、一服十六銭」


徳本は暗闇の中で懐かし気につぶやいてみました。


やがて富戸に流れ着いた徳本は、ヒラッタイラ(十代冶右衛門

の家)にお世話になることになりました。


ところが江戸からの追手はここまで迫り、三十日ばかりで

清富寺(せいふうじ)の草堂に移りました。


草堂に移ってからはひそかに寺子屋を開き、村人達に読み書き

を教えました。


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こうして月日は穏やかに流れて行き、徳本は村人達から

トッコンさんと呼ばれ、とても慕われるようになりました。


そんなある日、徳本は冶右衛門に自分は幕府の目を

逃れて、もう一度長崎に行きたいと、決意を告げました。


これを伝え聞いた村人達は、ワラジを作って、無事長崎まで

行けるように祈りました。


「このバショウは、ひそかにたずねて来たポルトガルの人

からいただいたもの。

徳本と思って育てて下さい」


徳本は草堂の裏に村人達を案内して言いました。


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数日後、徳本は村人達に惜しまれながら冶右衛門のこぐ

船に乗せてもらい、思い出深い富戸の地を去りました。


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「江戸に戻されたトッコンさんはな、将軍さんのお抱え医者に

迎えられたそうだ」


「将軍さんの病を治してな、一万坪の広い土地を甲州に

いただいたそうじゃないか」


「トッコンさんはそこでブドウ作りをしてるって話だぞ」


徳本の無事を祈るために建てた石碑にワラジを掛けながら、

村人達はこんなうわさ話をしました。


その後清富寺(せいふうじ)は小高い所に移りましたが、

境内では徳本さんの石碑といっしょにバショウも元気に

育っています。


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石碑?改めて訊きに行こう。



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これがバショウですが、これはウィキペディアより

お借りしました。


徳本は名医としていろいろな文献に現れているようです。

不明な部分も多く、家康の病を治したという説も

あるようです。

近世崎人伝に「徳本は永田氏、伊豆・武蔵間を行き巡り、

薬籠をおいて甲斐の徳本一服十六銭と呼びて売り歩く・・・。」

とあるようです。



あの有名な湿布剤の 「トクホン」

創業者の鈴木由太郎が感銘を受けた、室町後期から

江戸時代初期にかけて活躍した「医聖」永田徳本の

名前からとられている。と書かれていました。


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境内に咲いていた小さな花


伊豆と関わりがあったであろう、すごい人!また見つけました(^-^)/
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