源頼朝と八重姫の悲恋 | 伊豆高原 遊リゾートのちーさん

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伊豆はその昔、流人の国として知られていました。

 

流人として有名なのは源為朝ですが、甥に当たる源家正統の嫡流

源頼朝は14歳にして蛭島(ひるがしま)に流され、

この地で決起して遂に平氏滅ぼし、覇府(はふ)(幕府)を鎌倉に

築きました。

 

その源頼朝の恋をまた追ってみたいと思います。

 

宮内卯守先生編者

 

          源頼朝と八重姫の悲恋

 

伊東の館を訪れた頼朝と伊東祐親の娘八重姫とが結ばれる可能性は

大きかったといえよう。

 

「吾妻鑑」(あずまかがみ)によると祐清夫妻が、二人を間を熱心に

すすめたように書かれてあるそうだが、一説によると、

頼朝が狩に出た帰り道、逆川にある甘酒屋で、二人がはじめて顔を

あわせたと言う。

 

逆川に、往時「逆川の甘酒屋」というのがあり、「松の露恋の甘酒」と

書いた看板がかけられていたという。

 

源頼朝が、ある日赤沢方面で狩りをしての帰り道、この甘酒茶屋に

休んでいると、八重姫が、川奈の浜で貝拾いをしてこの甘酒茶屋に

休み、おたがいに相思相愛の間柄になったので、

「恋の甘酒茶屋」というようになったといいつたえられている。

 

頼朝と八重姫が相思の仲となった頃、祐親は京にいた。

 

当時の地方武士にとって、地元では領主として君臨していても、

京では、貴族の一警備兵にすぎず、帯刀もめったに許されなかったと

いわれる。

しかも三年ずつ交替で勤務する間の滞在費から旅費まで全部自弁で

あったという。

 

祐親も他の例にもれず三年間の大番役を勤めるため治承元年の

始めに京に出ていたのである。

 

配流以来二十年近い頼朝にとって、初めて得た恋である。

 

八重姫を得た喜びは大変なものであったろう。日暮れの森で

待ち合わせ、日が暮れると音無しの森へ行ったといわれ、里人はこの森

を「日暮の森・日暮林」と呼び、今なおその名が残っている。


 

<今の音無神社のタブの木>


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巨木のタブの木には圧倒される
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そして二人の仲は急速に深まっていき、治承元年も終わろうする

頃、八重姫は男の子を産んだ。

その子は千鶴丸と名づけられた。

千鶴丸と共に幸福な日を過ごした頼朝であったようだ。

やがて、千鶴丸が三才になった治承四年のこと、京より三年間の

大番役を務めて、やれやれと帰ってきた祐親の目に、館内を

我もの顔で遊びまわる小さな子をみて、家来のものに誰の子で

あるか聞いた。

 

頼朝と自分の娘八重姫との間に生まれた千鶴丸であることを

知った時には、キモをつぶさんばかりに驚いたことだろう。

 

流人の監視役もさることながら、中央政府にべったりの祐親の事である。

すぐに頭に浮かんだのは、己の地位のことであった。

 

祐親は、家来のものを呼び、千鶴丸を処分することを命じた。

八重姫は狂わんばかりに騒いだが、祐親にとっては、伊東家の将来

の方が大切であった。

 

命令を受けた家来は、千鶴丸を、松川の上流にある轟が淵に投げ込んで

しまった。このことより轟が淵が稚児が淵と呼ぶようになったと伝えられて

いる。

 

身の保全をはかる祐親は、頼朝と八重姫との仲を、生木をさくように

離し、江間に住む北条時政の家臣のもとに無理に嫁がせることに

するのだった。

 

一方、祐親は、頼朝を殺そうと企てた。頼朝と八重姫のことは、

自分から話して許してもらおうと思っていた祐清も、以外な方向に進む

出来事にびっくりしてしまった。

 

まして父、祐親が頼朝を殺そうとしていることを知ると、頼朝に急を告げ

危機一髪で脱出させることに成功させることに成功する。

 

頼朝にしても驚きは同じこと。

祐清の知らせで、馬を走らせ伊豆山の走湯権現に難をのがれたのである。

 

     (富戸史話、伊豆の風雲「史蹟と人物」八重姫・千鶴丸考)


 

今の音無神社から頼朝と八重姫の逢瀬を想像するより

こちらの方がより近い。大正前期の音無神社。神秘的。
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そしてこちらが明治後期の日暮らしの森
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伊東いまむかしより


 

小室山ではつつじ祭りが開催されます。

 


 

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小室山公園つつじ祭り