宮崎駿の社会派宣言 老害の挑戦 | 堕ちる日本

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宮崎駿新作は「現代日本の状況を予測したリアルな作品」、ジブリ鈴木プロデューサーが明かす
http://www.hollywood-ch.com/news/11112701.html?cut_page=1

そういえば、黒澤明も晩年わけがわからない映画を撮りだして大顰蹙を買いましたねえ。宮崎駿も同じ轍を踏むのでしょうか。

人間不思議なもので、意外と本人が一番得意だとかやりたいとか思っているものよりも、いろんな理由でちょっとだけ妥協して選んだ道の方がどんぴしゃ当たりってことがままあります。

例えば、期待の超高校級ピッチャーがプロでは全く通用せずに打者に転向したら大成功したとか。そんな感じ。

黒澤明もはたして当初からああいう娯楽映画をやりたかったのでしょうか。成功を収めた晩年になって、本当は俺はこういう芸術的なのが作りたかったんだ、と絶対的自信を持って作ったものが大こけ・・・。

宮崎駿も元々学生運動やってたサヨクですから、本当は社会的なネタが大好きなはずなんですよ。それを押し殺して子供向けの作品を専門にやってきた。そしてそれで高い評価を得た。

宮崎駿が何故今ごろになって自分に課した制限を取り払う気になったのか。それはやはり時代が大きく変わってきたからなんでしょうね。いままでの安穏とした平和な日本は終わったと誰もが感じている。

黒澤明もまた同じだったと思いますよ。彼がおかしくなったのも戦後復興期の単純な社会が求めた単純な娯楽作品から、客が求めるものが変わっていった時期です。

しかし、彼らの歳になってから方針大転換して成功した例ってほとんど皆無なんじゃないかなあ。さて、どうなることやら。おそらく、ろくでもないのが出来上がるんじゃないかと思いますが。火垂るの墓みたいなのとか。はだしのゲンとか言い出しそうだよなあ。あるいはフラクタルみたいなのとかw


ところで、ネットでは、不定期ですが繰り返し宮崎駿についてのある話題を見かけます。宮崎駿は何故声優を使わないのか、という話。

定説というか自明のこととして、下手でもあえて新人の役者を使って話題性を上げるとか、アニメファン以外の一般人受けのためとかは事実あるでしょう。

しかし、もっと本質的な部分ではどうか。私が思うに、つまるところ宮崎駿は自分の作品を独占したいのだと思うのですよ。あの人の仕事の仕方を見ていると、一緒に働いている人たちはあくまで彼の作品をより速く完成させるための手伝いでしかない。

宮崎駿の仕事の仕方についてはいままでもテレビとかいろんな場所で紹介されまくってますので、ご覧になった方も多いと思います。本来アニメーションというものはものすごく分業化された共同作業なはずなんですが、神にはその常識は通用しないのです。あの人、脚本からコンテから原画から動画まで全部一人でやっちゃうんですよ。

ジブリという組織は宮崎駿の個人作品をより効率的に完成させるための装置でしかない。だから、一応コンテなり原画なり動画部分なりを一度は人にまかせても、それが気に入らずほとんど全部書き直してしまっていたそうです、特に若い頃は。

つまり宮崎駿の作品には共同作業者の意思や判断が入り込む余地がないんです。あくまで彼がイメージしたものを忠実に再現することが求められる。今ではさすがに歳ですから、自分で手を出すことはほとんどなくなったようですが、今度は相手が宮崎駿の望むものを先回りして予想して完全にそれをこなすことが仕事になってしまっている。

そういう状況から察するに、声優っていうのは宮崎駿から見れば、とってもやっかいな存在なんだと思うんですよね。何故なら、本当に優秀な声優っていうのは作品を食ってしまうから。作品そのものよりも役の方が有名になってしまう場合があるんですよ。

ドラえもんとかルパンとかがその典型です。ドラえもんの監督って誰?ルパンの監督って誰?ってことですよ。よほどのマニアでもない限り普通気にも留めないでしょ。

ジブリのアニメでも下手にうまい声優を使ってしまうと宮崎駿の存在が消されてしまう可能性があるわけです。宮崎駿の○○が、キャラクターなになにの○○になってしまう。しまいにはキャラクターしか印象に残らないことさえある。それは彼のようなタイプのクリエーターにとっては耐え難いことなんでしょう。だから特に主役級にはまともな演技が出来る人を使わない。おそらく彼は以前に手がけたルパンシリーズでこのキャラクターの持つ魔力に懲りているはずです。

物語の創作の方法論として、まず極めて個性的なキャラクター達を創造し、それらをある設定の環境に放り込んでやるという手法があります。これがうまく成功すると、放うっておいてもストーリーが勝手に動き出します。上述のルパン三世もまさにこの手法から生まれた傑作の一つですね。

しかし、本来オリジナルの宮崎駿作品はそういったキャラクター主導型じゃないんですよ。彼は徹底してストーリー主導型の作家です。どの作品も主役を含めて登場人物の扱いは極めて記号的且つ部品的です。所謂キャラが立っているというのがない。あくまでストーリーを成立させるためのコマとしてしかキャラクターを見ていないのです。だから宮崎駿の物語の登場人物には、2つ3つの簡単なステレオタイプな単語を連ねるだけで説明しきれる範囲で設計された極度に単純化された人格しか与えられない。それは彼が彼の作品を子供でも一瞬で理解できるものにしようとしているからです。したがって、作者自身キャラクターへの感情移入も極端に少ないんだと思います。そこに個性の強い声優をあててしまうと全体のバランスが壊れてしまう。

以前どこかで見かけたのですが、彼が今のアニメーターは人間が描けていない、それは描き手に人間への関心がないからだ、と言っていました。非常に鋭い指摘だと思います。しかし、この場合、彼が言っている人間への関心というのは、あくまで運動する物体としての人間という存在なんですよね。確かに人体の動かし方という視点で見れば、宮崎駿ほどの名人はほとんどいないんですよ。彼が人間の姿を絵として動かして見せる様はまさに神業の域にある。しかし、精神的な面から人間を見た場合、彼の作品はそれをどこまで描けているのか。おそらく巷にあふれている4コマ漫画の方がよほど深く人間を観察しているはずです。

おそらく宮崎駿は人間が嫌いなんでしょうね。他人が嫌いと言い換えてもよい。だから人間を動く物体としてしか認識していない。部品としてしか扱わない。それが彼の作り出す博愛主義の押しつけ作品の肌触りを妙に冷たいものにしている理由だと思います。

もちろん宮崎駿のようなやり方を否定する気はありません。実際天才にはこういうタイプ多いでしょう。エジソンなんかもそうでしたね。本田宗一郎も同類でしょう。

しかし、宮崎駿のようなやり方から生み出されるものは、決してその個人の限界を超えたものにはなりません。他の誰かと組んだために、誰もが予想できなかった全く新しいものが生み出されることはない。結果、一番困ったことになるのが、後継者が育たないという問題です。

ディズニーと同じですよ。初期のディズニーは確かにとんでもないアニメーションの傑作でした。しかしそのあまりにも完成されたスタイルが逆にその発展を阻んだ。最初はすばらしく見えた作品は2つ3つと見慣れてくると同じパターンの繰り返しであることが見えてくる。どんなに登場人物を変えても、物語を変えても、マンネリ感が拭えなくなる。ディズニーのスタッフは必死でディズニーを再現することに注力するだけ。その中からは何も新しいものは生まれてこない。

ようするに、宮崎駿が主役にうまい声優を使いたがらないのは、彼があくまで彼の作品を彼個人の私物に留めておきたいからなのだと思います。実はサイレントやパントマイムが彼の一番好きなスタイルなのかもしれない。

いずれにしろ、若手から見るとこれほど邪魔な人物はいないだろうなあ。アニメ業界に作家性という価値基準を築き上げた功績は高く評価しますが、今では彼の存在自体が業界のボトルネックになっています。解りやすく例えるならば、西崎義展が生きている間はヤマトはなにをやっても失敗する運命にあった、みたいな。まあ、それでも今まではおとなしく子供向けの作品に集中してくれていたので、ジャンル違いであまり接点がなかった人がほとんどでしょう。それがなんか勘違いして変なこと始めるのは怖いですね。彼の作ったものが直接どうこうということではなくて、一番やばいのはそれに触発されて自滅する人たちです。フラクタルみたいなのが大量生産されかねないってことですよ。

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