自己愛性パーソナリティ障害-人の不幸を喜ぶ姑

 

 

今日は突然、

夫の母親の話です。

 

 

 

子育てをしていて、

子供にとって親の影響がどんなに大きなものであるか、

中でも、母親の精神状態が、子にどんな影響を与えるか、

今日は母親をテーマにしてみました。

 

 

自分もアダルトチルドレンではないのかと、

 

感じたことも含め、どのような親の態度が

子供を知らず知らずのうちに傷つけているか、

知りたかったからです。

 

 

そこで、いろんな方々がお勧めの

 

「毒になる親」、「不幸にする親」と

「アダルト・チルドレン」

の本を予約しました。

 

 

ゴーグルBOOKでは、

試し読みできる本もありますので、

とても便利ですよ。お勧めです。

 

 

中でも、この「毒になる親」は、たくさんのブログをお持ちの方々が

 

推薦している本でもありましたので、

とても楽しみにしています。

 

そして

今日はとても興味深い本を見つけました。

 

 

著者:岩月謙司

タイトルは「何故、母親は息子を『だめ男』にしてしまうのか」です。

 

 

中にはこのタイトルだけを見ただけで!?

「怖ーい、本!」と感じた方もいるようで、笑。

 

 

この本は基本的には、息子でも娘でも当てはまるようで、

 

必ずしも「息子」である必要はないそうです。

 

それよりも、何故このように子供達が

(今は成人した子供たち)不幸になるか、

というところが大事なようです。

 

 

そう、原因は、このタイトルに既にあるように、

 

「母親」なんです。

 

この母親の特徴を見たとき、直ぐに私は

それに当てはまる人を確認しました。

 

もしかしたら、この本のタイトル

 

「何故人は自己愛性パーソナリティ障害になるのか」

だったほうが、受けたかもしれない、と思ってしまいました(笑)

 

 

そう、少なくてもこの本に書いてある、

「不幸な母親」は、私の夫の母、

つまり姑に当てはまるからです。

 

 

まず、著者は、

「幸福な母、不幸な母」

とはどういう人か、から始めます。

 

 

つまり「幸福な母親」というのは、

自分自身を受け入れることが出来る人。

 

 

そして、「不幸な母親」とは、

その正反対の、自分を受け入れることの出来ない人。

 

そして、

自己受容できることがどうして重要なのか

について、著者は、

 

 

 

自己受容している人しか、

他人を受け入れることが出来ない

からだと、説明しています。

 

 

それはそうですよね、

 

自分自身を本当に愛することが出来て、

初めて他人を思いやることが出来るんですから。

 

 

そして、著者は、不幸な母親(自己受容できない母親)にも、

 

二通りあって、

 

まず一つめは

「自分が不幸であることを認めている母親」

 

 

こういう母親は幸福になろうと

一生懸命努力する、前向きな母親です。

 

 

自分より幸福そうな人を見たら、嫉妬もするかもしれませんが、

 

どうやったら幸福になれるのか、見習おうとする人。

 

二つめは、

「自分が不幸であることを認めない母親」

 

 

 

そして、

こちらがこの本が問題にするところの

母親なんだそうです。

 

 

何故なら、自分の不幸を認めないのですから、

 

幸福になろうと努力しません。

(この部分で、既に納得!うん、うん、そのとおり!)

 

 

努力しなくても充分、

自分は幸福だと思い込んでいるのです。

 

 

 

では質問です。

 

 

このような自分の不幸を認めない母親が、

 

実際に自分よりも幸福な人を見たら、

どうなるでしょうか????

 

 

はてなマークはてなマークはてなマークはてなマークはてなマークはてなマークはてなマーク真顔

 

激しく嫉妬するのです。

ゲッソリ!!ポーン!!チーン!!

 

 

 

しかし、これだけでは済みません!

 

 

なんと、この「自称、幸福な母親」は、

その嫉妬している自分さえも、

 

認めません!

(困ったやつだぁー!)

 

 

何故なら、自分が嫉妬していることを認めたら、

 

それこそ、自分が「不幸であること」を認めることになるからです。

 

 

自己愛性パーソナリティ障害の姑を16年近く観察していて、

 

最近解ったこと(認めたくなかったけど、認めざるを得なかった事実)

なのですが、彼女が「人の不幸を喜んでいる」という事実でした。

 

 

意地悪な発言をしているときの顔を見た瞬間、

解ってしまったのです。

 

 

ある心理学者が言っていたこと。

「人は幸せに感じている瞬間を隠すことが出来ない。」

 

悲しんでいるとき、楽しんでいる振りをして、

隠すことは出来ても、楽しんでいることは、隠せないものである、と。

そう、目が語っているからです。

 

 

幸せいっぱいな人を想像してください。

 

周りの人は、本人が幸せいっぱい、なんて言わなくても、

解ってしまうでしょう?

そうなんです、人は楽しんでいるとき、

目がキラキラするんです。

 

 

姑の場合、意地悪している時の「目が」キラキラしているんです。

 

その瞬間を見たとき、心底「怖い人だ」と、思ったものです。

 

本題に戻ります、笑。

 

 

そう、この母親は嫉妬している自分を認めない。

 

そして、どのように考えるのか、怖いところです。

抜粋します。

 

ここから*************

 

そして、恐ろしいことに、次の瞬間、

「自分もその人のように幸せになりたい」と思うのではなく、

「その人を自分と同じくらいの(不幸な)レベルまで陥れてやりたい」と思うのです。

 

相手のアラを探して、失脚させてやりたいと思うのです。

 

アラがあるから、悪い噂を広めるのではなく、

相手を不幸にしてやるためにアラを探すのです。

順序が逆になるのが特徴です。

ここまで*************

 

このあら探しは、身に覚えがあります。

 

過去に記事を書いたことがあります「姑の探し物」 ←クリック

最近、といっても何ヶ月か前ですが、

この時もまた、姑の探し物がありました。

 

ずっとコテージに忘れていたであろう、娘の髪留め。

 

私達が今回、コテージに着いた頃には、既に洗面所にありました。

そこにずっと置き忘れてあったのです。

 

帰り際に、姑は今回も「私の忘れ物」として、指摘してきました。

 

しかし、それは、私が忘れたものではありませんでした。

それは主人が買ったもので、

別居していた頃に、主人が忘れた物であるはずです。

 

そう、姑は主人に忘れ物の電話をする必要がないからです。

 

 

苦情は、私にすることに、「意味」があったからです。

 

そう私のアラを探したかったようです。

そう感じていても、何故人のあら捜しをして面白いのか、

その頃の私は、理解できませんでした。

 

しかし、いろんな本を読んでいくうちに、

 

不幸な人は、幸せな人を見るのがいやなのだと、

言うことが解ったからです。

 

普通の人なら、この「自分が不幸を認めている母親」と同じように、

 

幸福になろうと努力します。

 

しかし、姑は努力することが嫌いです。

人を使うことに知恵を働かせます。

 

自分がとってもか細く、力のない人間のようにいい、

力仕事をしようとはしません。

 

いろいろな本を読んで、こういう人がいる(人の不幸を喜ぶ)

 

ことは知っていました。

しかし、それが姑であるとは、どうしても思いたくなかったのです。

しかし、最近(クリスマス)にそれを思い知らされました。

 

私達が別居していたのは、一年足らず、

 

しかしその後のクリスマスで、私は、まるで他人のように

扱われたのです。

 

そして、去年のクリスマス、

 

私はこれ以上我慢している自分に嫌気がさし、

早々に家族と一緒に引き上げてきました。

もちろん姑は怒りました。

しかし、怒りを人に見せることが出来ない彼女は、

そのことを指摘すると、「はっ」として、

冷静を保とうとしていました。

 

息子が離婚寸前まで行ったにも拘らず、

 

彼女が守りたいのは自分の感情だけだったのです。

そう、幸せな人を見ると、イライラするのです。

著書:モラル・ハラスメントにある、

「人を傷つけずにはいられない」、ということです。

 

目の前に、人が幸せそうにしているのを見ることが出来ない病気

 

といいましょうか、楽しそうに笑うことも許されない、そんな感じです。

いつの頃からか、笑うのはやめようと、感じた頃がありました。

 

なぜかはその頃理解出来なかったのですけど、

 

楽しむと、睨まれたからです。

いつも緊張感が詰まっている感じでした。

今だから、解る事です。

 

ずっと、理解出来ずにいました。

 

 

昨年のクリスマス、途中から抜け出して来たことで、

 

また夫と喧嘩になりましたが、

私はもう姑に会わないと言う事で、

解決しました。

それはずっともう何年も前から言い続けてきたことでしたが、

受け入れて貰えませんでした。

 

でも、いま姑の目的がはっきりした事で、

 

対応策も、ハッキリしました。

やっと手に入れた自由を、感じるこの頃です。

 

ここ16年余り、よく精神病にもならず、

 

過ごしてこれたと思います。

長い間うつ状態で、

生きる気力を亡くした時期もありました。

 

しかし、その頃、友人たち、教会の見知らぬ人々に

 

支えられて、少しづつ、

元気を取り戻していった私です。

 

不幸な人って皆、何らかの努力をして

 

幸せになろうとするんだと思っていたのですが、

とてもいい勉強になりました。

 

人を攻撃して、不幸のままでいることを選ぶ人も

 

いるんだってこと。

結局、そういう人は一生、

幸せになることなんてないんだろうね。

 

人に親切にしたり、人の役に立つことして喜ばれると、

 

なんともいえない幸福感に、満たされます。

だから私は、やっぱりそういう生き方が良いなぁ。

そう思いませんか、皆さん?

 

今日も来て下さって、有難う、

 

皆さんに読んでもらっているからこそ、

書ける私がいます。