手段は、飽くまで手段であって目的とはなり得ない・・・


この一番良い例は、勉強である。


勉強して賢くなれば、人生は豊かになり幸福になるという発想ではないだろうか。


ユダヤ教の真骨頂である。


日本では、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉がある。


賢くなるということは、潤沢な実をつけるということであると私は思う。


物事は知れば知るほど深いものであり、自分のふがいなさ小ささを思い知らすのである。


だから、頭を垂れるのではないだろうか・・・


しかし、どうも大抵の場合はそうではないようだ。賢いことは偉いことに繋がるのである。


そういえば、福沢諭吉も学問をススメて、皆に勉強してもらって、天は人の上に人を作らずと、平等であることを知って欲しかったのではないだろうか・・・


ところが、現実は全くの逆である。賢い人間は、そうでない人間を蔑み、利用し這い上がる踏み台にする。賢いことは偉いことである。つまりは、賢い人間とは偉い人間であると言っている。口で言わなくとも態度がそれを示している。


何故、そうなるのか・・・・答えは簡単である。手段を目的化するからだ。勉強・学問というものを手段ではなく目的とすることで、こうした異常現象は現れるのだ。異常現象とは本末転倒という状況である。全く逆の結果を得ることである。


これは、全ての社会に共通して起こっている。経済界、教育界、政界・・・全てが手段であるにも関わらず、全てが目的化することによって、手段が持つ意味が逆転するのである。


経済とは、お金の流れであり、それを円滑に流動させ人々を豊かに幸福に導く道具である。が、その流れが全てを支配し、その流れによって人々は翻弄され苦しめられる。


教育とは、頭を垂れさせる道具である。だが、前段説明したように、逆に頭が上がり結果として、教育狂想曲が人々の心を蝕み、人を戦士かロボットに変える。


政治とは、国家で行われるものであり、これこそが人々の生活と幸福を維持する基本の道具であるけれども、それが目的となると、そこで暮らす人々を死に追い込むのである。


全部が全部同じである。根本的な間違いがそこにある。その歪みが全てを逆転させるのである。結果、人類はどんどん苦しくなる。勉強して、このことが分からないようであれば、果たして勉強に意味があるのかと思う。


いい加減に気づくべきではないだろうか・・・もう、犠牲は充分である。