1年前、このブログを書き始めた時、心秘かに目標というか、願望というか、ささやかな願いみたいなものが私の中にありました。

それは、1年後も変わらずに母親が健在でいてくれて、尚且つ、このブログの題名の「3年目の~」を「4年目の~」に変更すると言った、実に、たわいも無い願いだったのですが、お陰様で本日8月29日をもって母親が突然の余命宣告をされ闘病生活に突入してから丸4年が経ちました。

そう云えば、未だこのブログにて4年前の8月29日の様子を書いていなかったような気がするので、記憶を辿りながらこの機会に書いてみたいと思います。。



突然の宣告をされる約一週間前の深夜、地元で両親の側に住んでいる弟からの電話がありました。

弟:「兄貴、、お袋さんが、癌だった・・・・。」

私:「えっ、、、何の癌なの?」

弟:「肺がんであることは間違いないみたいなんだけれど、今は最終的な検査をしてそれの結果待ちの状態・・・」

私:「煙草も吸わないお袋が何で肺がん???」

弟:「そうなんだよね・・・只、地元の市民病院では左肺に2センチ弱の癌が確認されて、ステージでいうところの2Bなんだって・・・」

私:「ステージって一体なんだよ?」

弟:「俺もよく分からないんだけど、癌の進行具合を指し示す指標みたいなものかな。」

私:「なるほど、、ところで、そのステージって何段階あるの?」

弟:「全部で4段階あるみたいで、お袋さんは丁度真ん中付近かな・・」

私:「そっか。。。お袋は手術は可能なの?」

弟:「それが、左肺に2センチ弱の癌しかない割には、腫瘍マーカーというのが高めに出ていて、今はPETの結果待ちで、最終的には、それを待ってから、手術か否かの判断だと思うけどステージ的には可能じゃないのかな。。」

私:「分かった。有難う。最終的な結果を聞くときには、俺も地元に戻れるようにするから。」

この弟からの電話が先ず、第一報でした。

その日の夜は、一晩中、ネットで肺がんの情報収集に明け暮れて、結局、眠ることが出来ずに徹夜しましたね。。そして、翌日に、神保町の三省堂書店に行って、自分でも理解できそうな肺がんの書籍を購入してきて、取りあえずは、非小細胞肺がんと小細胞肺がんの違い、手術が可能ならば、その後の看病の心構えとかを重点的に頭に叩き込んでいました。

今思えば、弟が腫瘍マーカーが高めに出ていると言っていた2008年8月4日の一番最初のCEAの値は「518.5」でした。

その値も知らず、そして、その値が指し示している「深刻な」数値の意味も知らずに、只、手術をすることになったら、どうやって母親を励まし、その後のリハビリを如何に乗り越えさせようとばかり考えていた自分は何とも・・・。

そして、私も色々と身支度をして、地元に戻ったのは8月27日でした。

親父も、弟も私がその日に地元へ帰って来ることを知っていましたが、母親は、当日まで・・・というか、、ギリギリまで知らなかったみたいで、地元のJRの駅に私が降り立ち、迎えに来ていた親父の車に乗り込む時、一緒に付いてきていた母親は私の顔を見て泣いていました。

途中、スーパーに寄って、買い物をしてる時に母親の様子をそれとなく伺っていると、前回会った時よりも全体的に痩せており、あと、今でも印象に残っているのが、兎に角、咳が凄かったです。そして、痰を出すたびに、血痰が出ているかどうかを確認しておりましたね。。

そして、最終的な検査結果が全部出そろった2008年8月29日に両親と私が、今も母親が入院してお世話になっている病院へ行きました。

その時は、3人が3人ともに手術が可能であると考えていました。

11時過ぎに母親の診察順番がきて、3人が一緒に診察室へ入っていくと待ち構えていた主治医は、パッと見、私と同じように体格がガッチリとした30歳前後の医師かなというのが第一印象でした。

医師:「PETの結果、骨への転移が複数見つかったので手術は不可能ですね・・」

母親:「えっ・・・・・」

医師:「転移箇所は、~~~~」

母親:「先生、私の癌はステージでいうとどの段階になるんですか?」

医師:「残念ながら、ステージ4ということになります・・・。」

両親も私も、手術が可能とばかり思い込んでいたから、兎に角、手術が不可能で、尚且つ予想もしていなかった複数の骨転移までいきなり言われて、三人一様に頭が真っ白になったと思います。

それから後のことは、顔色が真っ青になった母親を私が抱えるようにして診察室から連れて行き、親父が再び、診察室に戻り、ブログに再三書いているように、治療をしなかったら2~3か月、治療をしても半年との余命宣告を当時の主治医から告げられました。

病院からの帰りの車の中は、何とも言えない、、本当に何とも言えない重い空気でした。途中で、レストランに寄ってランチをとろうということになったのですが、3人とも、箸が重くて殆ど、注文したものは食べませんでしたね。

そして、自宅に戻ってからは、待ち構えていた弟夫妻に結果を知らせ、以前にもブログに書いていたように、弟は、クリニック系の免疫療法が母親の身体にとって負担が軽いのではと思い、その情報収集に走りましたが、最初は、抗がん剤点滴をするのがベストなのではとの意見に家族の中が纏まり、9月の10日前後からパクリタキセル・カルボプラチンの抗がん剤点滴が開始となりました。



以上が、4年前の今日の出来事です。

実は、今朝、親父が何時ものように母親の入院している病院へ行く前に親父宛へメールを出しました。親父はメールを打つことは出来ませんが、見ることは出来ます^^;

内容は、今日で余命宣告を受けてから丸4年なので、嘘でも良いから、お袋さんには、よく頑張ってきたなって褒めてあげて欲しいというものでした。

そして、先ほど、母親へ電話をすると、「今日は何時も以上に、お父さんがデパートから色々とパンやらデザートやらお菓子を沢山、買ってきてくれてビックリしたよ^^。」「私も右脚の腫れも完全に引いて、調子が良かったから、夕方二時間ほど、仲良しの同病の患者さん4人を部屋に呼んで、キャッキャッとおしゃべりをして楽しかった^^」

私は思わず、「親父からは、この4年よく頑張ったと褒めてもらった?」と聞こうかなと思いましたが、野暮天かなと断念いたしました(笑)。来年も今日この日に、両親が笑顔で過ごせるようになれたらいいのになと心から祈ります。



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