桂太郎 09 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

 其院內口を退却するの途中、太郞は上院內に於て守備する事となり、其前哨線を巡視して、鉛筆にて附近の地圖を描き、又秋田藩の放列の正しからざるを敎へ、自ら鍬を取つて砲門の据付けなどに盡力してゐた。それより七色木に至り、三藏茶屋に入りて宿泊せし夜、僥倖にも危難を免れた物語がある。
 太郞は其折、土民淸三郞なる臨時の從僕を得た。三藏茶屋に宿泊する夜、三更に至り、太郞は厠に赴く。淸三郞は鉢の中に蠟燭を點じて、厠の外に持つてゐると。三四人の敵兵俄に現はれて、白刄を閃かして襲ひ來つた。淸三郞咄嗟に機轉を廻らして、大喝一聲、打つぞと叫ぶ。賊は其聲を聞いて用意あるものと解して、俄に踵を空にして奔り去つた。
 太郞、厠より出でゝ、汝の打つぞと叫んだのは何の意味する處乎と問ふから、淸三郞は敵襲を吿げた。夫れは實に危機一髮であつた。我れ無刀であるから、敵若し强襲したなら、汝も斫られ、我れも斫らるるのみであつた。汝の頓智の一言よく敵を奔らしたは、我れに取つて再生の恩を惠んだものであると、大に淸三郞を賞した。
 橫手を扼して、敵と對峙してゐる時に、太郞は鎭撫總督府より陞任の辭令をうけて、總督府參謀添役に任ぜられ、此方面の諸兵を指導するの大任に就いたのである。時に太郞は二十二の弱齡であつたが、其人材は認められてゐたから、羨望の眼を睜はられたゞけで、誰も之れに對して非議する者はなかつた。
 官軍の神宮寺に屯する折、太郞は高橋某の家に入り、滯在する事約一ヶ月に及んだ。高橋の家人、當時の模樣を語つて曰く。長州の兵隊といへぱ、戰さ上手と聞えてゐたから、其隊長は如何なる恐ろしき人物かと恐れ案じてゐたが、桂太郞なる隊長は、年齒二十一二の極めて優和なる人物で、常に微笑を含み、怒號するが如き事なく、而も兵士はよく之れに敬服してゐた。偶秋田藩から見舞の菓子折とか鯉魚とかを贈られると、之れを兵士等に頒ちて、鯉魚の如きは汁となして部下に與へ、おのれは野萊の煮たる物を食うてゐた云々と。之れを以て見るに、太郞の若齡にして、隊の指揮官たる重職に在り得たは、蓋しそれだけの理由が在つたのである。
 神宮寺の地勢たる、前に曠野を控へて、雄物川、玉川、附近に流れ、神宮寺嶽聳へて、實に天嶮を得たる地である。新に九州諸藩の增援の兵を加へて、官軍漸く勢を張り。太郞は、此時機を以て從來の守勢を攻擊に變じて、敵軍を膺懲せんと主張した。諸將之れに贊成を表し、戰線十里の陣を張つて、敵軍擊破を試みた。然れども敵兵亦猛鬪して、官軍を斥け、更に進擊して角館を奪はんとするの勢を見せた。
 八月二十八、九日の角館攻擊は、此戰役中第一の激戰であつた。敵軍は多大の損害を忍んでも、必らず捷ちを得んと急に襲擊した。太郞は官軍を督して、玉川を控へて防禦を堅うし、激戰數次の後、敵軍の角館攻略の望みを斷たしめた。嶮要の地に據ると雖も、寡兵を以て敵の大兵を擊退したは、太郞の指揮劃策の宜しきを得たので、同地方の人民は永く之れを稱して語り草にしてゐた。
 角館激戰の後、八月二十九日、澤主水正(副總督の男)村田新八と共に、松江藩兵四百を具して船川港に著き、直に神宮寺に赴いて副總督を訪うた。此時、太郞は角館から來り之れと會したが、太郞說をなして曰ふ。强敵を掃蕩するには、越後に赴いて、精銳の援軍を請ひ、一擧にして敵を勦滅するの手段あるのみである。乞ふ、此手段を選ばれよと。主水正直に贊成して、太郞と共に越後に赴かんといふ。
 太郞は更に秋田に往き、九條總督、大山參謀と會して、其趣旨を語り、同意を得て。九月四日、澤主水正、村田新八と共に、船川を出で、越後松ヶ崎に上陸し、陣營に西鄕隆盛を訪うて秋田方面の戰況を吿げ、其援助を求めた。


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