大山格のブログ

おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

悪意をもって歴史を歪めるならば無論のこと
たとえ善意から発したことであれ、歴史を歪める者は、これを斬る。

誤字、脱字などは指摘された都度、適宜校正する。
史実の誤認については検証可能な史料を提示のうえ御指摘いただきたい。
歴史認識における御意見は無視する場合がある。
公共の利益に反すると管理者が判断したコメントは公開されない。

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 昨年も一昨年も雪が降った翌日は、いそいそと写真を撮りに行きました。今度の雪はたっぷり積もったので、どうかなぁ。


 電車は動いていましたが、町中がこれでは……。


 雪に閉じ込められるかもしれないと、籠城の支度をしたもので、食事の用意は出来ていましたから、きょうの外出は珈琲を飲みに出ただけでした。


 足もとがアブナイので、歩き回るのはやめて、ポケットに入るゲーム機で……


 大昔のゲームを安くダウンロード販売しているのを見つけて、やってみます。


 このグラフィックw


 陳腐化したといったって、むかし夢中になった面白さはかわりません。


 ただし、いまの感覚からすると、ユーザーに不親切な部分があるのは否めません。ただの地面にアイテムや資金が落ちているのを見つけると有利になるというシステムがありまして、このために攻略本が必要でしたっけねぇ。


 大山巌墓所修復事業に対する御寄付は、交通文化連盟にて受け付けております。現時点では、いっさい例外はございません。それ以外の窓口への寄付のお願いがあった場合は寄付金詐欺ですので、応じないよう御注意ください。
 なお、ひきつづき、休憩所建屋、石敷、立木の傾きなど、たいへん困難な修復を予定しており、みなさまの御寄付を募っております。御協力くださる方は、下記口座へ

三井住友信託銀行松戸支店(店番329) 普通7698754
 特定非営利活動法人交通文化連盟



ともあれ、ツタヤ図書館と江戸しぐさは滅ぼすべきです。
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 減量中とて昼飯は軽くしました。


 きょうも蕎麦です。


 しかし、こんなの売ってたら買ってみたいじゃないですか。


 カレーまん


 チョコまん
 まあまあ美味かったです。


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 三宅坂交叉点に、こんな記念物があります。こんな目立つところにあるのは知ってましたが、名所というわけでもなし、たいして興味が持てないまま何十年かを過ごしてきましたが、きょうはたまたまジックリ見る機会となりました。減量しようと思って、五時間ほど都内を歩き回った途中、このあたりにさしかかったのです。


 台座と像とがアンバランスじゃないですか? もともとこの台座の上には寺内正毅の銅像がありました。戦時中の金属供出で撤去されてしまったので、台座だけが残ったわけです。


 残った台座を再利用して新たな像が置かれたのですが、東京に住む人も、観光に訪れる人、いずれも、この新しい像には関心が薄いようですね。


 というか、東京生まれで東京育ちの私でさえ、通りかかってチラ見したことしかなかったですもの。で、なんの像なの?


 戦争に負けたあとのことですから、軍人の像を再建するよりは、なにか平和っぽい像がよいだろうということなのでしょう。身に寸鉄をも帯びずにいる裸体像なら平和のイメージに相応しいでしょう。ちなみに、三宅坂から遠くはない千鳥ヶ淵には、男性三人の裸体像があります。


 ところで、この像の題名はなんでしょう?


 銘板によると「広告記念像」なのだそうです。なんとまあ、電報通信社と称する一私企業の創立50周年の記念物だったとは!


 この像の御婦人たち、少し下半身がポチャッとしてるかな? いまとは美的感覚が異なりますから、当時としては、これくらいが理想的体型だったのでしょうね。


 花はバラと、ヒマワリでしょうか?


 なんと、正体は私企業の記念物だったとは、はじめて知りました。そりゃ都民が関心を持たないはずだよ。うんうん。


 このあと頑張って岩本町まで歩きました。久々に身体を動かして、疲労感が心地よいです。


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 運動不足が祟って体重が増えすぎました。


 外食は軽めにすませます。きょうは鳥天蕎麦にしました。本当は天丼ガッツリいきたかったけれど、ガマンです。


 そのあと船堀にある温泉入浴施設へ行きました。


 ちと入浴料が高かったなぁ。設備が良くて快適でしたけどね。


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 心臓をやられる前でしたが、食事を終えた途端に鼻血が出たことがありました。けっこうな出血量で、ダラダラとまりませんでした。そのときとっぷり日が暮れた頃合いだったので、家から最も近い救急病院へタクシーで行きましたが診療拒否に会いまして……意識があって歩けるなら、よそへ行ってくれというのです。救急車で来ないと診て貰えないのかなぁと思ったものです。
 仕方なく戻ってきて、近所の薬局が当番で開いているので相談してみたら、渡されたのは目薬でした。熟年男性は眼精疲労から鼻血が出ることが多いらしいです。たしかに目薬をさしたら鼻血はとまりました。


 いまは心臓やられてますから、徹夜作業はしません。しかし、パソコン仕事ですから目が疲れることはあります。そういうときは外食でもして、気を紛らします。きょうは早朝、夜明け前に目が覚めて、ちょっと疲れたくらいで朝食にしました。


 どんなに忙しくても朝食だけは、ちゃんととります。食後に飲む薬は、朝がいちばん多いので、とてもたいせつな習慣だと思っています。


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尊皇攘夷
 幕末と呼ばれる時代を動かす原動力となったのは、日本の独立が脅かされているという危機感だった。隣国の清が欧米列強の強圧に晒されていることも知識人には知られていた。
 産業化以前の日本は、海外の資源に頼らない自給自足が可能であったうえ、南北に長い国土を持つことから産物に多様性があり、国内交易だけで経済を発展させており、日本には国を開く動機がなかった。だが、欧米人にとって日本の絹や茶は魅力的な産物であり、また、西太平洋は海象条件が厳しいのに大型船を修理できる施設はなく、日本に拠点を置いて航海の安全を確保したかったのである。ペリー来航以前にもロシアやアメリカは日本との通商を求めたが、海禁政策を祖法とする幕府は門前払いにしてきた。しかし、嘉永六年(一八五三)に来航したペリーは、かつてない強圧的な態度で幕府に開国を求めた。
 老中首座の阿部正弘は、これまで幕政に対する発言権がなかった諸藩から意見を徴し、一般庶民にも発言の機会を与えた。また、前水戸藩主、徳川斉昭を海防参与として幕政に参画させるなど、異例の措置を重ねた。そして、幕府の顧問となった斉昭は開国に反対する攘夷論を唱えた。これは諸藩の協力を得て挙国一致体制を形成するための方便として持ち出した観念論で、現実には欧米列強との軍事力格差を考えれば不可能なことだった。
 翌年、開国要求への回答を求めてペリーが再び日本を訪れ、幕府は下田と箱館の開港を認めさせられた。この結果を不満として斉昭は辞任し、やがて阿部も開国派の堀田正睦に老中首座を譲ることになる。堀田は、日本の関税自主権を放棄し、治外法権を認めるという不当な内容の日米修好通商条約を締結するにあたって周囲の圧力から朝廷の許しを得ることにしたが、孝明天皇は条約反対の意向を表明して許さなかった。
 この事態を受けて、幕府権力の強化を目指す守旧派は井伊直弼を大老に担ぎ上げ、一気に巻き返しを図った。井伊は朝廷の意向によって幕政が左右されることを嫌って勅許を得ないまま条約を締結させた。そして、斉昭と、その七男で次期将軍の候補であった一橋慶喜をはじめ、政敵と目される人物に隠居、謹慎などの処分を加えるとともに、攘夷論を唱える者を容赦なく弾圧した。安政の大獄と呼ばれる恐怖政治によって窮地に立った攘夷派は、ついに井伊を暗殺するという暴挙に及んだ。
 大老を殺されるという大失態で権威を失いつつあった幕府は、弾圧政策をやめ、天皇の妹である和宮と、将軍家茂との政略結婚を図った。これは公=朝廷と、武=幕府との連携により幕府権力の強化を目指す政策で公武合体策と呼ばれ、薩摩藩もこれを支持した。この公武合体を前提にして開国路線を進めようとする「航海遠略策」が長州藩から提唱され、朝廷と幕府の賛同を得たことから、大勢は開国政策推進に決したかに見えたが、一方では攘夷論も高まっていた。
 欧米諸国との貿易は物価高騰をもたらし、もはや攘夷は観念論でなく現実的問題として論じられていた。攘夷論を支持したのは武士階級の底辺にある人々が多く、薩摩、長州、土佐といった藩の枠を超えて連携しはじめていた。身分の壁によって発言力が乏しかった彼らは過激な行動を厭わず、各地で異人斬りが横行し、京の町では井伊の弾圧に対する報復テロが始まり、やがて対立する公武合体派が暗殺の標的になった。朝廷では攘夷派の公卿が勢いを増し、それまで開国政策を支持してきた長州藩も藩論を転換、通商条約を破棄すべきだと主張する「破約攘夷」を朝廷に建白して賛同を得た。孝明天皇も和宮降嫁の条件として幕府に攘夷を迫り、幕府は外国勢力を排除することを約束したが、実現の目処がない、その場しのぎの回答であった。天皇が攘夷を望んだことは攘夷派の勢いを増し、将軍を上洛させて攘夷の決行を期限付きで約束させるまでに至った。これを受けて長州藩は外国船に対する無差別攻撃をはじめ、当然の結果ながら国際問題に発展し、四国連合艦隊から報復攻撃を受けることになる。また、薩摩藩も偶発的に英国人を殺害した生麦事件の賠償問題がこじれ、英国東洋艦隊に鹿児島を攻撃されている。
 一方、幕府は将軍警護を名目として京のテロ対策に乗り出す。京都守護職に任じられた会津藩主、松平容保は、対話政策で攘夷派を説得する方針を示したが、木造梟首事件(別稿に詳述)をきっかけに方針を弾圧に転じた。その後、会津藩は薩摩藩の協力を得て攘夷派公卿を追放する八・一八政変を断行した。ほぼ時を同じくして攘夷派は大和と生野で攘夷のための兵を挙げているが、政治情勢が転換したこともあって、ほどなく鎮圧された。
 こうした痛手を負いながらも攘夷熱が冷めることはなく、押さえ込まれたエネルギーは次第にベクトルを倒幕運動に向かわせることになった。

倒幕運動
 攘夷論の過熱は安政の大獄を招き、弾圧は攘夷派のテロを誘発した。だが、テロリストたちさえ幕藩体制を覆そうとは考えていない。桜田門外で井伊直弼が斬られた際も、坂下門外で安藤信正が襲われた際も、テロリストは開国政策を推進した幕閣を批判しても幕府を倒そうとしたわけではなかった。攘夷という目的を遂げるために担ぐのは朝廷でも良く、幕府でも良かった。
 天狗党と呼ばれた水戸藩攘夷派は、攘夷の素志を朝廷に訴えるため大挙して上洛をめざしたが、この大規模なデモも尊皇をスローガンにしてはいても倒幕は主張していない。
 尊皇、あるいは佐幕という主張は相容れないものではなかった。公武合体論は天皇の意思を尊重(尊皇)しつつ幕府をたすける(佐幕)と、双方を受容する考え方である。また、攘夷派も外交では弱腰でありながら攘夷派には強い圧力をかける幕府に対して不満を募らせていたが、それでも即座に幕府を倒して新政権を築こうと結論したわけではない。幕府が攘夷を実行すればよし、しないなら倒幕も視野に入れるといった程度でしかなかった。
 そうした空気感は攘夷派の対策に乗り出した会津藩にも伝わり、彼らの主張を聞くことで不満を抑えテロを防止する言路洞開という対話政策を打ち出した。その方針を一変させ弾圧に転じたのは木造梟首事件がきっかけだった。京都等持院の足利将軍三代の木像の首を取り三条大橋に晒したという事件で、攘夷派が足利家を徳川家になぞらえて幕府を倒す意思を明確に示したことも衝撃的であるうえ、計画から実行に至るまで攘夷論に共鳴した会津藩士が重要な役割を果たしたことは、幕府への無条件の忠誠を国是とした会津藩の危機感を大いに高めたと考えられる。
 八・一八政変で政治的主導権を握った公武合体派は参与会議を形成したが、その方針をめぐる内部の対立や、江戸の幕閣との意思疎通が困難であったことなどから有効に機能しないまま、やがて空中分解に至った。
 その間、勢力挽回を期した長州系の攘夷派が謀議中に会津藩預かりの新撰組によって潰滅させられる池田屋事件が発生する。身柄を確保して取り調べる手順を踏まず、その場で斬殺するという厳しい姿勢は、長州藩の強い反発を招き、ついに御所を警護する会津、薩摩両藩兵と長州藩兵が武力衝突に及ぶ禁門の変を勃発させる事態に至った。
 長州藩は御所に向けて発砲したため、幕府は三六藩からなる討伐軍を編成して長州藩を攻撃した。この第一次長州戦争では尊皇攘夷のスローガンを掲げた長州藩が朝敵とされたため、幕府への降伏恭順を主張する俗論派が攘夷派から藩の実権を奪って降伏を決めた。
 長州藩の降伏を受けた幕府は、征討総督参謀をつとめた薩摩の西郷隆盛に戦後交渉を一任した。この戦いを通じて幕府の政権担当能力に疑念を抱きはじめていた西郷は、家老三名の切腹など緩い条件にとどめている。
 長州藩攘夷派の中核にいた高杉晋作は福岡に潜伏中、福岡藩士月形洗蔵から薩長同盟を提案された。薩長両藩は対立する関係にあり、八・一八政変以来の抗争で武力衝突を重ねたことから長州藩は薩摩藩を敵視していたが、両藩ともに外国軍との戦闘を経験して攘夷が実行不可能なことを悟っており、日本の自主独立を守るためには新体制を発足させて軍事、外交の抜本的強化が必要であるとの共通した認識があった。長州に戻った高杉は藩内での内戦を仕掛けて藩庁の俗論派を一掃し、藩の政権は再び攘夷派の手に戻った。そして土佐脱藩の中岡慎太郎、坂本龍馬らの周旋によって薩長両藩は秘密同盟を締結した。この時点から攘夷派は倒幕派になったといえよう。
 一方では、一橋慶喜ら幕府側にある人々も幕藩体制の限界を感じていた。官僚組織が腐敗して機能不全に陥っていたこともあり、また、陸海軍が新設されたうえは旧来の軍制組織など無用の長物にほかならない。そのため、いったん政権を朝廷に返還して新体制を発足させようとする研究もはじめられていた。
 倒幕とは、幕藩体制から新体制へ移行するために幕府を打倒するという意味であって、その手段として武力を用いるかどうかは未だ結論が出ていなかったのだが、長州藩の処分が不徹底であるとして幕府が第二次長州戦争に踏み切ったことで、武力による「討幕」の気運が盛り上がった。長州藩と秘密同盟を結んだ薩摩藩は幕府の出兵要請を拒絶し、武器調達など裏面から長州藩を援助した。将軍家茂の死去など不慮の事態もあって幕府軍は惨敗を喫し、いよいよ幕府の権威は有名無実となり果ててしまったのである。
 徳川幕府最後の将軍となった慶喜は、かねて研究していたとおり朝廷に政権を返上する大政奉還を断行する。いわば幕府自身による倒幕を実現させ「討幕」を防ぐ意味を持っていたのだが、もとより幕府の内部では不満も多く、その目論見は脆くも崩れ去るのである。

幕軍敗走
 薩長両藩が武力による倒幕の決意を固めた矢先、大政奉還で政権は幕府から朝廷に移った。朝廷は王政復古の大号令を発し、親王や有力公卿および薩摩、尾張、芸州、越前、土佐の各藩による暫定的な新政府を樹立した。のちに朝敵とされていた長州藩が復権し、新政府に加わっている。
 新政府の最も重要な課題は徳川家の処分で、徳川慶喜に内大臣辞職と旧幕府領の明け渡しを求める「辞官納地」を要求した。薩摩の西郷隆盛は江戸で破壊工作を行わせて徳川家を刺激し、軍事行動を起こす事態に発展すれば慶喜を朝敵として全国の諸藩を討伐軍に出兵させたうえ、武力によって辞官納地を実現させようと密かに計画していたが、土佐藩の山内容堂の発案で慶喜を新政府に迎えることとなり、破壊工作は中止されている。
 ところが薩摩藩の破壊工作に刺激された旧幕府陸軍、庄内藩兵などが江戸薩摩藩邸を焼き討ちした。この紛争は徳川家と薩摩藩の私戦とみなされ、慶喜を朝敵として討伐する理由にはならないため薩摩藩は自重して報復を控えた。しかし、京から大坂城へ退去させられていた会津藩や旧幕閣らは江戸からの急報を得ると慶喜に開戦の決断を迫り、薩摩藩の罪を朝廷に問うとして軍勢を京へ向けた。
 この動きを知った新政府は旧幕軍の入京を阻止すべく諸藩に出兵を求めたが、薩長両藩のほかは土佐藩兵の一部のみ加わったにすぎなかった。新政府の実働兵力は三〇〇〇で、旧幕軍は一万五〇〇〇であり、兵器の質でも幕府陸軍歩兵隊は薩長両藩より優っていた。新政府は京を放棄せざるをえないと判断し、旧幕軍の北上を阻止する間に天皇を連れ去ろうとする計画を立てた。
 旧幕軍は甘い見通しのうえに作戦計画を立案し、抵抗を受けずに京へ進み得ると想定していたため薩摩藩兵の前哨線を弾込めもせず行軍隊形のまま通行しようとした。これを阻止せんとして薩摩藩兵は旧幕軍の行軍縦列に発砲、鳥羽・伏見の戦いが始まった。この砲撃で大混乱に陥った旧幕軍は失策を重ね、質も量もともに圧倒的な戦力を有しながら薩長両藩兵を攻めきれずにいた。それでも手駒の少ない薩長両藩にとって戦況は絶望的だった。この状況を一変させたのは開戦翌日、新政府本営に錦旗が掲げられたことで、鳥取藩などが新政府軍に加わり、さらに錦旗が前線にまで進出すると旧幕軍は大いに動揺した。現役の老中だった淀藩や徳川家の先陣をつとめる習わしだった津藩が新政府方に寝返ったこともあり、旧幕軍は依然として圧倒的兵力を有しながら新政府軍の逆襲を受けて敗走をはじめた。もとより慶喜には戦意がなく、錦旗の出現を知ると老中や会津、桑名両藩主を連れて江戸まで退去してしまう。首脳陣を欠いた旧幕軍は撤退を余儀なくされ、新政府軍は奇跡的な勝利を獲得した。
 この結果は新政府にとっても意外なことで、こののち東西決戦が行われると想定して大坂遷都が計画されるなど、新政権の構想が検討される一方、新政府軍は諸藩の新政府への帰順を促しつつ江戸へ迫っていた。
 海軍力に劣る新政府軍は中山道や甲州街道など内陸にも進撃路を設け、甲府城をめぐる争奪はあったものの概ね順調に駒を進め、板橋と品川に駐屯して江戸城の情勢を窺うまでに至った。
 降伏恭順の意思を固めていた慶喜は、勝海舟を使者として新政府に江戸城の明け渡しを申し入れた。新政府代表の西郷と勝の交渉によって平和的な開城が決まり、想定された東西決戦は行われないまま徳川家の政治、軍事の組織が解体されることとなった。しかし、旧幕府の軍制組織は降伏恭順の方針に従わず、海軍の榎本武揚は軍艦の引き渡しを拒否、陸軍の大鳥圭介らは江戸から脱走したため、旧幕軍の武装解除は失敗に終わっている。
 脱走した旧幕府陸軍のうち、大鳥が率いたグループは宇都宮城を攻撃し、一時はこれを占領するなどして江戸に進駐した新政府軍を牽制した。また、房総半島でも旧幕府陸軍のグループは義軍府と称して策動をはじめた。
 こうした不穏な空気が流れるなか、江戸の治安は引き続き旧幕臣が取り締まっていたが、上野寛永寺に集まった旧幕臣らの一部は彰義隊と名乗って新政府軍に対抗する姿勢を見せたため、新政府は長州藩の大村益次郎に命じて上野山を攻撃させることとした。大村が攻撃期日を事前に予告したところ、上野山から逃亡する者は多かった。また、新政府軍は攻撃正面を限定し、故意に逃走路を開放していたこともあり、彰義隊は一日の攻撃で統制を失い、散り散りに逃げ去っていった。
 可能な限り犠牲を減らそうとする新政府の姿勢は、この戦いが政治戦であることを示している。市民を戦火に巻き込むことなく江戸を支配下に置いた新政府は、諸外国に正当性をアピールできた。だが、旧幕府陸海軍の武装解除が失敗したことは大きな失策だった。

奥羽越戦争
 朝廷は全国に鎮撫使を派遣し、諸藩へ新政府への帰順を求めた。西日本の諸藩は、ほとんど抵抗することなく新政府に帰順し、中部地方でも御三家とされた紀州藩と尾張藩が新政府に協力的であったこともあって、かつて倒幕派と争う関係にあった桑名藩が新政府に降伏するなど平和的な政権交替が進んでいた。東北地方でも仙台藩、米沢藩といった雄藩が新政府に帰順しており、開戦責任を問われた庄内藩と会津藩の処分を決着させれば、残る抵抗勢力は旧幕軍脱走グループのみとなる。会津藩に対して新政府は藩主の死謝を求め、その厳しい要求を会津藩は固く拒んだ。交渉が難航するなか、錦旗を預かり奥羽鎮撫総督を迎えて新政府軍の一翼を担う立場となった仙台藩が藩論を覆し、会津、庄内両藩との戦いを拒んで新政府軍参謀世良脩蔵を暗殺したうえ近隣諸藩を糾合して奥羽列藩同盟を結成、薩長両藩に対抗した。また、庄内藩は近隣の新政府方諸藩に攻撃をはじめ、会津藩は旧幕軍の一部と連携して新政府の支配下であった白河城を攻撃し占領している。
 そして、北越では長岡藩が会津藩の処分をめぐって新政府に異議を唱え、戦争に協力せず局外中立となることを申し入れた。この中立論は観念的には理想論と言える内容ながら、現実的には新潟港を通じた会津藩への武器輸入ルートを確保させることになり、新政府軍に不利をもたらすものでもあった。新政府は長岡藩を敵とみなして中立を認めなかったため、長岡藩ほか越後の諸藩も奥羽諸藩に同調して奥羽越列藩同盟を形成した。
 この頃、新政府軍は未だ上野攻撃を控えていた時期で、北越方面を主戦線と定めたが戦況は進展せず、宇都宮を奪回した東山道総督府の部隊が白河から東北地方へ侵入、退勢を挽回しはじめた。上野攻撃の後は海路から仙台へ向かった部隊が仙台藩に押さえられていた鎮撫総督の身柄を引き受け、秋田へ逃れた。
 仙台藩は総督を擁していた間は官軍であったが、その資格を失うと上野から逃れてきた輪王寺宮を東武皇帝とする「東の朝廷」を創設する構想をたて、伊達家を権征夷大将軍として武家政治を継続させる方針を示したが、同盟諸藩を奮起させる効果はなく、また、仙台藩は白河口で連敗を重ね、降伏に至った。
 北越では新政府軍が優勢な兵力を有しながら苦戦を強いられていたが、新発田藩の内応により新潟港を占領すると、武器輸入の道を断たれた同盟諸藩は北越方面から撤退をはじめ米沢藩が降伏した。ようやく越後口の新政府軍は会津へ進出し、すでに会津に達していた白河口の新政府軍と合流を果たした。包囲された会津藩は降伏し、孤立した庄内藩も降伏して東北地方は鎮定された。
 榎本武揚が率いる旧幕府海軍は、同盟が崩壊したのちも新政府への抗戦の意思を持ち続ける人々を吸収しつつ、蝦夷地を目指した。そして箱館を占領、地方政権樹立を画策した。榎本の主張は旧幕臣らの生活の道を得るため蝦夷地を開拓したいというもので、新政府を打倒する意思はなかった。
 諸外国が箱館政府を「事実上の政権」とみなしたことは、新政府にとって座視しがたいことだった。資本を持たない箱館政府は外国資本を受け入れることが予想され、それが植民地化のきっかけとなることも考えられる場合である。榎本は新政府に蝦夷地を借用したいと申し入れたが、新政府は箱館政府を討伐する方針を定めた。
 榎本の艦隊は新政府の海軍力を圧倒するほどの戦力を有していたが、海難事故を続発させて次々に主力艦を失っていった。新政府は各藩から供出させた軍艦で艦隊を編成し、米国から買い付けた甲鉄艦を戦力に加えて榎本艦隊に対抗した。戦力を消耗した榎本艦隊は甲鉄艦を奪いとるべく接舷斬り込みを仕掛けたが失敗に終わった。
 新政府軍は江差に上陸し、二方向から箱館に迫った。迎え撃つ榎本軍は箱館市街周辺部を失い、箱館湾の制海権を奪われると戦争継続か降伏かの決断を迫られた。箱館政府を構成した人々は旧幕閣もいれば、榎本のように低い身分から取り立てられた者もあり、元の立場や考え方の相違から議論は紛糾し、結局は榎本の決断によって降伏を決めている。
 降伏を申し入れる際、榎本は『海律全書』を新政府軍に託した。日本にとって必要な知識である海上の国際法規を記した貴重書を受け取った新政府軍参謀黒田清隆は、榎本の人柄に魅せられ頭を丸めて榎本が死罪を免れるよう嘆願した。その結果、榎本のほか、江戸開城以来ずっと新政府軍に抵抗を続けてきた大鳥圭介も死罪を免れ、ともに新政府の要職に招かれることになる。
 鳥羽・伏見の戦いから一年半に及んだ戊辰戦争は箱館の戦いで終結した。のちに新政府が廃藩置県など封建制の解体を武力に頼らず進めていくことが出来たのは、この戦いで政権としての能力を示したからだといえよう。

士族反乱
 戊辰戦争に勝利した新政府は、各藩から兵力を供出させて御親兵を創設した。そして、この兵力を背景に諸大名から土地・人民を朝廷に返上する版籍奉還の手続きをとらせた。これ以後、全国の士族は政府から俸禄を支給され、大名の家臣ではなくなった。さらに政府は廃藩置県を断行、大名と旧家臣団で構成された藩組織を解体することにより封建制から中央集権体制へ移行した。こうして士族を直接の管轄下におくことで暫定政権だった新政府は明治政府に成長を遂げた。
 西洋に倣った近代化を目指した政府は、血筋家柄によらず能力評価による人材起用を図るため士農工商の身分を撤廃、四民平等とした。これは士族の特権を明確に否定する政策で、また、徴兵制を採用して兵役を国民の義務としたことも軍人を士族に限って募集することを期待した士族らを失望させた。さらに、散髪脱刀令で帯刀しないことを奨励するなど近代化政策が風俗習慣の西洋化にまで及んだことは、かつて攘夷論に刺激されて倒幕運動に参加した士族らの強い反感を招いた。
 平民も学校教育の義務化や徴兵制に反対し、各地で世直し一揆が発生した。平民の利益となる身分差別の撤廃にまで反対する者もあり、新制度に対する誤解から生じた反政府運動も少なくない。一方で、知識階級である士族らの政府への反感は、文明開化や殖産興業政策で西洋の技術や文化が未消化のまま導入されて生じた急激な社会変化から生じ、そうした政策を進める一握りの薩長藩閥と公卿の「有司専制」に対する批判に繋がった。
 こうした国内での矛盾を抱えながら政府は不平等条約の改正に向けて欧米諸国へ首脳陣を派遣、その留守政府では明治六年(一八七三)に韓国との外交問題を巡って内部で意見対立が起こり、論争に敗れた西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが政権から去った。不平を抱いた士族は、政府の要職から去った彼らを担いで政府に対抗しようとした。不平士族の活動は、戊辰戦争の主体となった薩摩、長州、土佐、佐賀などで活発となり、命がけで維新回天の事業に参画しながらその報酬を受けるどころか、一時は朝敵とされた旧幕府方にいた士族と同様に特権が失われることについて不満は募るばかりだった。
 こうした不満を最初に爆発させたのは江藤を担いだ佐賀の士族だった。明治七年二月、佐賀士族は佐賀城を奪って反旗を掲げたが、反乱の勃発を予期していた政府の対応は迅速で、すぐさま政府軍によって鎮圧されている。再起を期して逃亡した江藤は鹿児島の西郷に援助を要請したが拒絶され、東京へ潜行する途中で逮捕されたのち、略式の裁判で死刑となり判決後直ちに斬首された。この佐賀の乱は、武力による政府への反抗が困難であることを如実に示したが、不平士族の政府への反感はおさまらなかった。そこへ追い討ちをかけたのが廃刀令と秩禄処分である。
 不平等条約改正の試みは失敗し、政府は内政に重点を置いて改革を進めた。そのなかで特に重要なのは秩禄処分であった。徴兵制が採用され、兵役義務が士族だけでなく平民も含めて適用されたことで士族に俸禄を支払う根拠は消滅していた。そのため明治九年には士族に金禄公債を発行し、九月には俸禄支払いを停止することになり、いよいよ全国の士族は代々受け継いできた家禄を失うことになった。だが、それよりも不平士族を刺激したのは同年三月に発せられた廃刀令だった。
 散髪脱刀令とは異なり、廃刀令では軍人と警察官以外は大礼服着用の際のみ帯刀を許すという内容で、強制的に帯刀を禁じている。士族は刀を袋に収めて持ち歩くなどしたが、腰に差せないことは屈辱であった。それまで抱えてきた不満は一気に爆発し、九月に熊本で神風連の乱が発生、これに呼応して秋月の乱、萩の乱があいついでわき起こった。これらは成算のない暴発的な反乱であり、むしろ暴動と呼ぶべき事件である。
 西郷を担いだ鹿児島の不平士族は私学校を設立し、士族の子弟教育にあたるとともに開拓事業など士族に対する授産事業に取り組むほか、他の地方での反乱をよそに建設的な活動を続けていたが、明治一〇年、政府が鹿児島の火薬庫から弾薬を搬出しようとすることに反発した一部が暴発的に火薬庫を襲撃し、そのまま政府に対して反乱を起こした。この西南戦争は最大規模の士族反乱であり、政府軍と激戦を交えたものの結局は鎮圧され、日本史上最後の内戦となった。
 もと政府の要職にあった人物を担いだ不平士族のうち政治活動へ進んだのは土佐士族で、板垣の指導により憲法制定と国会開設を求める自由民権運動として武力による反抗を諦めた全国の士族や民衆に波及していった。
 幕末以来、多くの血の代償を払いながら日本は自主独立を守る術を模索してきた。西南戦争を経て近代化政策は盤石なものとなり、教育と産業を振興して国民を無知と貧困から救いつつ軍事力も強化する富国強兵政策で急速に国力を増していった。そして憲法を制定し国会を開設して、近代国家らしい体裁を整えていった。
 だが、明治二〇年頃にはロシアがシベリア鉄道の建設を検討しはじめ、陸路から東アジアへの圧迫を増してきた。日本は世界一の海軍力を誇る英国と良好な関係を保って他の欧米諸国を牽制しつつ、ロシアのシベリア開発と日本国内の開発で激しく競い合った。そして、明治二七年からの日清戦争で韓国に前進拠点を獲得し、その後も国を挙げての軍事力強化に励んだ結果、かろうじて明治三七年からの日露戦争に勝利することが出来た。
 軍事や産業にとどまらず文化や習俗にも西洋化が進んだことには痛みを伴うが、それは異なる手段をもってする攘夷のためであった。幕末に志士として攘夷運動に奔走した人々が還暦を過ぎた頃、ようやく日本は自主独立を守るという明治維新の大目的を結実させた。

初出
「図説・幕末戊辰西南戦争―決定版」
学研 2006/7


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 鉄炮伝来にまつわる伝説のうち、殊に興味深いのはネジ技法に関する若狭姫の悲話だ。若狭姫は日本で初めて鉄炮をコピー生産した鍛冶師である八板金兵衛清定の娘で、ネジ技法を伝授してもらう代償として南蛮人に身を委ね……というようなオハナシなのだが、彼女についての確たる史料は残っていない。
 まずは父の八板金兵衛について説明すると、刃物の里として知られる美濃の関から種子島に移り住んだ刀鍛冶だとされる。戦国乱世のこととて、良質な鉄を離れた地域から運び込むのが困難だったので、良質な砂鉄が採れる種子島に移住したのだろう。
 家系図によると若狭姫は大永七年(1527)生まれで、鉄炮伝来は満十六歳で迎えたことになる。当時としては結婚適齢期だ。
 ただし、家系図は史料として使いづらい。まずもって内容に粉飾、誇張、歪曲が無いとは考えられないくらいだ。あるいは悲話伝説のために設定された年齢かもしれないのだが、ひとまず年頃の娘だったと考えたい。
 その伝説について論じていく前に、史実はどうだったか、おさえておきたい。
 鉄炮伝来に関する基本史料の『鉄炮記』によると、種子島恵時が領主だった「天文癸卯年秋八月二十五日」に明国のジャンクが漂着した。場所は「西村ノ小浦ニ一大船アリ」と表現されている。癸卯の年は天文十二年にあたり、西暦では1543年となる。
 かつて明の船団が東アフリカまで到達したことがあり、インド洋を西の端まで航海するだけの大船が存在したのは事実だ。種子島に漂着したのは「船客百余人」だというから、やはり相当な大型船だったろう。その船には明国の五峯という人が乗り合わせていたので、砂の上に杖で文字を書くことで漢文の筆談をして多少の会話が出来た。
 船客のなかに見たことのない「何レノ国ノ人タルヲ知ラズ」という人々がいた。それは「西南蛮種ノ買胡ナリ」とのことで、南蛮の商人だった。南蛮人は「其ノ食フヤ手食シテ箸セズ(中略)文字ノ其ノ理ヲ通ズルヲ知ラズ」ものを食べるのに手づかみで、字も読めない。だが、「怪ムベキ者ニ非ザルナリ」と看做されて島の人々との交流が始まった。
 いまは宇宙基地として有名な種子島だが、戦国時代は明国との貿易の中継点で、紀州の水軍や堺の商人が出入りしていた。よそ者を受け入れる下地があったのだ。
 南蛮人は「手ニ一物ヲ携フ長二三尺」60~90センチの長さの物を手に持っていて、「妙薬ヲ其ノ中ニ入レ、添フルニ小団鉛ヲ以テ」、その「一穴ヨリ火ヲ放テ」というから、これこそ鉄炮だ。
 島の人々の耳目は「其ノ発スルヤ掣電(いなづま)ノ光リノ如ク、其ノ鳴ルヤ驚雷ノ轟クガ如シ」という具合に発射の光景を捉えている。まさに驚異の新兵器だ。
 領主の嫡子である時尭は、このとき満年齢で十五歳、好奇心が旺盛な年頃だった。鉄炮を見て「稀世ノ珍ナリ」と、大いに興味を示し、「願クハ之ヲ学バン」と南蛮人に申し出た。言葉は通じないのだから、間に明国人の漢文筆談を介していたはずだが、かなり意思疎通が出来ている。南蛮人は「心ヲ正フスルト、目ヲ眇ニスルノミ」精神を安定させ、片方の目を瞑って狙うことだけだと教えた。本業は商人だから、鉄炮を撃つのが本職ではないし、ましてや言葉が通じない相手と筆談の通訳を介していることを考えれば、教えられるのもこの程度までだろう。ともあれ時尭は「蛮種ノ二鉄炮ヲ求メ、以テ家珍トナス」という運びとなった。火薬の調合も「小臣篠川小四郎ヲシテ之ヲ学バシム」という具合で、ぬかりない。そして「朝ニ磨シ、夕ニ碎シ、勤テ已マズ」と、鉄炮いじりに熱中した。
 また、噂を聞きつけて紀州からやってきた杉坊なる者を同好の士と認め、気前よく鉄炮一挺を与えたうえ「妙薬ノ法ト放火ノ道トヲ知ラシム」と、火薬調合と取り扱い法を伝授した。趣味人=マニアには、こうした気前よさを発揮する人がいるのは昔からだ。
 そして、ついに時尭は「新ニ之ヲ製セン」と思い立った。しかし、島の鍛冶師は「其ノ底ノ之ヲ塞グ所以ヲ知ラズ」つまり、銃身基底部をネジ式に閉塞する方法がわからなかったのだ。ネジをはずせば筒抜けになり、掃除しやすくなるわけだが、不純物を多量に含んでいた当時の火薬では、掃除をしないと弾丸が入らないようになってしまう。やむなく試作の鉄炮は基底部を塞いだままに造られて、完全コピーとは言い難い。
 翌年、時尭の鉄炮熱が冷めやらぬうちに、再び南蛮商人が来航した。そのなかに「幸ニ一人ノ鉄匠アリ」と聞いた時尭は「天ノ授クル所ナリ」と、八板金兵衛にネジの技法を学ばせた。
 さて、ここまでは史料である『鉄炮記』の記述に従っている。リアルタイムに書かれた記録ではなく、慶長十一年(1606)の成立とされる。その内容は種子島時尭を鉄炮のパイオニアとして顕彰しようとするものであって、粉飾もあるだろう。ただ、戦国の余韻が残るどころか、大坂の陣はこのあとというタイミングなので、そうそうデタラメを書いたのでは、すぐに露見してしまうから、江戸中期に書かれた軍記物よりは、よほど信憑性がある。結論をいうと、一級史料とはいえないが、そこそこ信用できるくらいの位置づけだ。
 さて、ここからは若狭姫が登場するのだが、あくまでも伝説の域を出ないことだと重ねてお断りしておかねばならない。というのは、八板家の系図に記載された数行しかない記述だけが根拠であり、いま伝わっている悲話のほとんどが口伝えの伝承なのだ。戦術のとおり、家系図は史料としては使いづらい。必ずといって良いほど捏造があるからだ。まして、口伝に類することを、史学という分野で扱うのは大冒険にほかならない。今回は、そんな大冒険をあえてする。
 伝説は鉄炮試作に挑んだ金兵衛が、ネジの部分を模造出来ずに苦しんだことから始まる。雄ネジは専用工具がなくても鑢で削ることで模造出来る。問題は雌ネジだった。筒の内側に螺旋状の溝を切るには専用工具を用いるか、あるいは銃身基底部を熱膨張させておいて、雄ネジを差し込み、急冷するかだ。とうてい短期間に思いつくようなことではない。
 思いあまった金兵衛は、最愛の娘、若狭を南蛮人に与えてしまう。もちろん南蛮人に伝授を願ってのことだ。しかし、要領を得ない。言葉の壁という以上に、漂着した南蛮人らは商人であって鍛冶師ではないのだから、教えようがなかったのだろう。
 やがて南蛮人は若狭姫を連れて南海へ去る。ところが、その翌年には再び南蛮人が来航し、その船には若狭と南蛮の「鉄匠」が乗っていた。偶然に漂着した前回とは違って、二度目は航路未確定の海域への覚悟のうえでの冒険航海だから、船具の修理要員として鍛冶師が乗っていても不思議ではない。
 金兵衛は若狭との再会を喜ぶとともに、悲願であったネジ技法伝授が叶う。そして、金兵衛は若狭が大病を得て死んだことにして、葬儀もおこなったが、南蛮人は涙ひとつ流さなかった……と、あらましはこんな具合だ。
 若狭が異郷で詠んだとされる和歌があり、「月も日も 日本の方ぞ なつかしや わが双親のあると思えば」というもので、それに感銘を受けた海音寺潮五郎は若狭に寄せて、「あはれこゝ 若狭の墓か 白砂のもろく崩るゝ海のべの丘」という和歌を詠んだ。いま、若狭のものと伝えられる墓のわきに、歌碑があって、そこに刻まれている。
 悲話としては、今一つ泣かせてくれない。まったくの作り話なら、若狭が翌年に戻ってきてしまうのではドラマとして弱すぎるのだ。あるいは、ある程度の事実のうえに脚色された伝説かとも思えるが、史学の研究手法では若狭の実在すら怪しいといわねばならない。
 さて、ここからは吾輩の妄想を炸裂させる。若狭を与えられた南蛮人、金兵衛がネジ技法伝授を願っているぐらいは理解しただろう。そこで娘を与えられた意味を誤解したのではなかろうか。
――この娘にネジ技法を修得させたいのか
 そんな勘違いがあれば、若狭をマニラまで同行させた意味が理解できる。そして、翌年には若狭と共に再び種子島を訪れ、念には念を入れて「鉄匠」も連れてきた。
 つまり、二度目の船に「鉄匠」が乗っていたのは偶然ではなく、若狭の尽力が実ってのことかもしれない。異境の地で、若狭はネジ技法習得のため必死の努力をする。その熱意あふれる姿に、師匠である「南蛮の鉄匠」が種子島への渡航を思い立つ……というようなドラマを妄想させられた。
 話はかわって、最初に南蛮から伝わった鉄炮はどうなったかというと、惜しいかな西南戦争に際して焼失している。種子島家は戦国末期の領地替えで種子島を離れていて、その際に初伝銃も持ってきていた。
 西南戦争の翌年、西村時彦が古伝の舶来銃を種子島家に献上した。西村は天囚という筆名で有名な新聞記者で、福島安正のシベリア単騎行をゴールで出迎え単独インタビューをもぎとって辣腕を発揮した。また、衰頽する一方だった漢学の研究者でもあり、のちには文学博士となったほどの知識人だ。
 その西村の先祖に当たる織部丞という人が、漢学の素養がある人だったので、漂着した船の明国人との筆談にあたったとされる。その際に、主家が購入した二挺とは別に、織部丞が、もう一挺の鉄炮を得ていたというのだ。
 その話を史料から裏付けるのは困難だが、鹿児島県の歴史資料センター黎明館に現存する旧西村家蔵の古伝銃は、たしかに国産ではなく舶来の、それも古い形式のものだという。初度の伝来に三挺目の鉄炮があった可能性は大いにあるといえよう。

初出 ゲームジャーナル誌


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 このところ食事はファストフード店や定食のチェーン店に行くことが多かったので、今朝は久し振りにファミレスへ行きました。


 定食屋さんの朝定食よりは少し高いけれど、ファミレスはドリンクバーつきだから、定食プラス珈琲代よりは安いです。


 呪いの言葉を吐きかけたくなるくらい、いま切羽詰まってます。プレッシャーが


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 本日は、ちょっとした記念日です。


 むちゃくちゃ遅れている仕事を抱えているので、いろいろ自粛ムードなんですが、やよい軒のスキヤキで、少しだけ贅沢な晩飯を食べました。


 コンビニにあった、T55戦車みたいに簡略化されたケーキも買って、かたちばかり。


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 きのうは各地で大雪でした。関東は降りませんでしたが、越後では電車が立ち往生したとか。


 幸い、関東はきのうもきょうも晴れました。


 こちらは越後から山越えしてきたクルマ。冬の装いですねw


 風折れした枝が落ちているのを焚き火にして暖をとりつつ、参拝の方たちを迎えました。きょうは寒いのに、けっこうな人数が来てくださいました。


 上野駅まで戻ってきて駅弁を買いました。


 腹具合がイマイチで、油っぽいのがダメそうなので……。


墓所は定期的に警察官が巡回しています。



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