近藤勇・流山前後17 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

覚王院義観、大いに怒る
慶応四年三月十五日(グレゴリオ暦1868年4月7日)


 この日、新政府は「五榜の掲示」という禁令を出しました。この前日に「五箇条誓文」で画期的な政策理念を示したばかりでしたが、「五榜の掲示」は切支丹禁令など概ね旧幕府の禁令を引き継ぐもので、たいして変革を感じさせない内容です。きのうは理想、きょうは現実、といったところなのでしょうが、もう戦争のことなど忘れ去ったかのように、戦後統治を視野に入れていたことがわかります。
 しかし、それは獲らぬ狸の皮算用というもので、戦争の火種は燻っていたのです。

 勝海舟の日記によると、この十五日に寛永寺使節団が江戸へ戻り、覚王院義観は海舟と談判に及びました。ただし『覚王院義観戊辰日記』では十五日に大磯を通過、十六日の昼過ぎに江戸城西ノ丸で復命したことになっており、また、海舟との談判に関することは記されておりません。ともあれ、ここでは『復古記』に収録された海舟の日記を見ておきます。
 寛永寺使節団が持ち帰ってきた大総督の熾仁親王様からの回答は「先将軍(慶喜のこと)単騎にして軍門に到り降るにあらざれば寛典の御処置に及ばず、然れども将軍これをなす能はざる時は田安殿名代にて然るべきか」という、とんでもなく厳しいものでした。「慶喜が単身で大総督府に出頭して謝罪せよ。慶喜が出頭できないなら田安慶頼を名代とするのでも良いだろう」というのですが、こんな条件を受け入れたら抗戦派が暴発するのは火を見るより明らかです。 
 このときすでに海舟は山岡鉄舟が持ち帰った七箇条を元にして西郷隆盛との談判を進めていました。それは、これまで述べてきたとおりです。いまさら別の条件に乗り換えることなど出来るはずもありません。しかし、義観は「これ大総督の御内命なり」といいました。この厳しい条件を元に交渉を進めろというのです。
 これを聞いた海舟は「且つ怒り、且つ恨む」という反応を示しました。そして、買い物での値段の交渉にたとえて「一物を買はむとするに、一は百金を出さむと云う、一は三百金を出ださむといはゞ、その人、三百金に与へて以て、百金を以てする者には与へざるべし」と、交渉ごとの道理を論じました。一つしかない物を買うとき、高い値を払う客が買えるのは当然のことではないか、という意味です。鉄舟が持ち帰った七箇条の方が好条件なのは、いうまでもありません。
 しかし、義観は納得せず、激論になりました。このとき義観は主戦派になっていたのでした。だから、とうてい呑めない条件を示して和平を実現させまいとしたのでしょう。その真意は「覚王院東帰後、その周旋行き届かざるを憤って、もっぱら一戦をすすめて止まず」という状況から察せられます。

『復古記』第二冊p862
 周旋が行き届いていないと憤ったというのは、寛永寺使節団の出発前に「もう和平は決まったようなものだから」と、楽観的な見通しを聞かされていたことを類推させます。なにせ宮様お二人での和平会談ですから、まとまらないわけがないと誰しも思ったことでしょう。それが思惑違いになったのは、勝沼の戦いが最悪のタイミングで起きたからです。また、のちに彰義隊が上野山に集結したのも、義観の煽動があってのことですが、そもそも勝沼の戦いがなければ、そんなことにはならなかったのです。
 もし、近藤勇が和平をぶちこわして戦争に持って行こうなどと企んでいたとしたら、まさに絶妙なタイミングで勝沼の戦いを起こしたといえます。戦いには負けましたが、一時の勝敗より和平を頓挫させることの方が大事だったでしょうから目的は達しているわけです。ただ、そのように断定できる根拠はありません。たしかに大久保隊は西向きに陣地を構築していましたが、それが勇の命令によることかどうかすら、確かな証拠はありません。
 はたして勇は和と戦の何れを欲していたのか? それを解き明かすまでには、まだまだ遠い道のりがありそうです。



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