近藤勇・流山前後15 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

甲州派遣の指令者
慶応四年三月十二日(グレゴリオ暦1868年4月4日)


 この日、大久保一翁は松平春嶽にあてた書翰を書きました。一翁は徳川家の会計総裁、春嶽は新政府の議定で、ともに敵対陣営の閣僚級です。旧知の仲とはいえ、この時期に私信を往復させていたとは、小心者の私からすると二人とも良い度胸だと思います。
 この二人が交換していた情報は正確かつ政治的に高度な機密も含んでいるのに暗号めいた表現は皆無で、ずいぶん不用心だと呆れさせられますが、同時に歴史の真相を後世に伝えてくれたことには感謝しなければなりません。また、西郷隆盛のように徳川慶喜の処分は切腹まで持って行きたいという大久保利通あて書翰を残しながら、実際の行動では慶喜の助命に力を尽くしているというような、政治家にありがちな二枚舌が一翁や春嶽にはあまり感じられません。好人物ではありますが、政治に携わる人としては頼りない気もします。
 さて、その書翰に同封された草尾一馬(江戸詰の福井藩士)から林矢五郎(在京の福井藩士?)あて書翰のなかに「大久保(一翁)殿の噺」として、勝沼の戦いに関する重要な情報が含まれています。
甲州勤番の者、百姓ら鎮撫のため、大久保一翁指図にて大久保剛(原註、実は近藤勇なり)御遣わしのところ、甲州笹子峠手前にて官軍と出逢い候に付き、一旦その趣意申し越し候ところ、官軍前隊より放発に付き、よんどころなく一度応砲候得共(そうらえども)恭順にあい障り候に付き、剛はじめ東奥の方ヘ脱走

『復古記』第二冊p864
 まず、こんな早い段階で大久保剛の正体が新政府の首脳部にまで伝わっていることに驚かせられました。そして、ほかにも着目すべきことがあります。
 大久保隊を派遣した目的が、甲府勤番の幕臣たちや甲州の農民を"鎮撫"するためだったことです。この鎮撫というのは、暴挙に及ばないよう温和しくさせておくというくらいの意味合いです。だから実戦に耐えられない未熟兵でも見かけが強そうなら良いわけで、旧幕府陸軍の正規部隊を出す必要はなく、しかも治安維持に関して経験豊富な近藤勇は適任です。
 そして甲州派遣を命じたのが一翁であることも大事な点です。旧幕府直轄領だった甲州の統治は、会計総裁たる一翁の管轄でしたから、目的が鎮撫であるからには指図違いとはいえません。もし、徳川家が東山道軍に対する抗戦を意図していたなら陸軍総裁の勝海舟が派遣を命じていたことでしょうが、そうではありません。
 戦闘の前に大久保隊が「官軍に出逢い、鎮撫の趣意を伝えた」というのは、結局のところ東山道軍には戦闘準備のための時間稼ぎと認識されてしまいました。しかし、大久保剛から甲府町奉行への書翰の内容からすると、伝えようとはしていたと考えられますし、近田勇平という使者が面談を申し入れたのも、その趣意を説明するためだったのかもしれません。
 ところで、勝沼は笹子峠より甲府方です。一翁は江戸にいたのですから、戦いがあったのは笹子峠の「手前」ではなく、「先」といわねばなりません。このとき一翁には情報が正確に伝わっていなかったのでしょう。また、東奥の方ヘ脱走というのも事実に相違しますが、大久保隊が輪王寺宮様の顔に泥を塗った責任は重大ですから、そういわざるを得ないでしょう。和平交渉が大詰めの段階でしたから徳川家としても触れたくない存在だったはずです。
 ただ、どうしても私には大久保隊に抗戦の意志がなかったとは思えないのです。なんのための鎮撫かというと、暴挙を企てる抗戦派を威圧して東山道軍との武力衝突を避けるためです。そうした目的であれば、甲府に東山道軍が先着していた状況では、江戸方面から甲府に向かってくる武装勢力を警戒すべき場合です。つまり、陣地は東の敵に対する備えでないとおかしいのですが、実際には西に対する備えになっていました。東山道軍としても、自分たちの方に向けて陣地が出来ているとなれば、攻め潰そうとするのは当然の判断だったでしょう。
 抗戦の意志なしとする町奉行への書翰と、陣地の向きとが矛盾しているのは、なぜなのか? 単純に考えれば大久保隊が東山道軍に騙し討ちを仕掛けようとして通じなかったということになるわけですが、もっと深いところに根が張っているような印象があります。いままで見てきた史料では、その根を掘り出す手がかりすらありませんが、せめて推理の手がかりくらいまでは掘り起こしたいところです。

 余談ながら、山岡鉄舟が駿府から江戸へ戻ったのは勝海舟の日記だと十日となっていますが、松浦玲さんによると実際には十二日であったようです。幸いにも、松浦さんの十二日説はネットで閲覧できます。

山岡帰府は十二日/松浦 玲 筑摩書房webサイトより


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