桐野利秋 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

桐野利秋、天保九年十二月、薩摩吉野村に生る、通稱信作、初め中村半次郞と稱す。文久二年、島津久光に隨て京都に上り、尹宮附の守衞となる。明治戊辰の伏見の役に、御香宮に鬪ふ。王師東征するや、利秋先鋒隊として東海道を進む。後に奧羽に出征して會津若松城を陷れる。屢戰功あるが故に軍監に陞る。凱旋後、功によりて賞典祿二百石を賜ふ。明治二年、鹿兒島常備隊の大隊長。同四年、朝廷、親兵隊を組織する時、一大隊を率ゐて東上し、陸軍少將となる。同五年、熊本鎭臺司令長官、同六年、陸軍裁判所長、此歲、征韓論成らざるを以て辭職し、西鄕隆盛に從つて歸國し、鹿兒島に私學校を設け育英の事に從ふ。明治十年、私學校黨勃發するに臨み、四番大隊長として熊本に鬪ひ、隆盛に代つて軍事を統督した。同年四月、熊本の圍みを解き、濱町に退く折、總指揮長の任につく。戰ひ利を失ひ、九月、鹿兒島に入り、城山に據つたが、遂に同月二十四日、岩崎谷に於て、飛彈のために陣歿した。四十歲。
 利秋、天資剽悍、甚だ武を好む。旦暮庭に出で、棍棒の長さ丈餘の物を執りて、縱橫上下し腕疲れ氣倦むに及んで漸く止める。鄕人之を呼んで、中村流といふ。中村は利秋の初名である又庭前の樹木と鬪うて、技を鍊つたために、家の周園の樹木は悉く其打擊を被らぬものがなかつた程である。
 利秋、年少にして不撓の志深く、腰に長刀を佩び、肩を怒らして闊步し、大人をも大人とせぬ面貌であつた。石見某なる者之れ亦氣性の烈しい漢であつたが、利秋の傲然たるを心憎く思ひ。或る時、人のゐない處へ誘ひ出し、刀按じて、汝、平生傲慢なる見のがし難い、眞に勇氣あるものならば、我れと眞劍の勝負せよと迫つた。利秋平然として、聖人は四海兄弟といふ、今や天下多事、此時に臨んで瑣々たる感情の爲に相鬪ふは、男子の恥ぢて爲さゞる處であると。石見某、其言を奇とし、却つて親交を結ぶ事となつた。
 利秋の家、極めて貧素、芋粥を常食としてゐた。ある日、友人二三輩來つた。之れに饗した午餐は、大笊に盛りたる薩摩芋と、野菜の味噌汁だけであつた。二人、止むを得ず食ひ。辭して門を出るや、半次郞は每時も唐芋ばかり食つてゐると呼べば、利秋、屋內から聲をなして、腹さへ滿てば何でもよいでないか、吾家は固より芋腹であるといひ返へし、昂然として粗食を恥ぢぬ。其生活に刻苦するの甚しき、晝は野に耕し、夜は紙を漉きて、漸く口を糊してゐた。
 少時、西鄕隆盛に說を聽いた事がある。次に隆盛を訪ふ時、自作の甘藷三本を携へて土產とした。隆盛の次弟吉次郞之れを見て笑ふ。隆盛誡めて曰く、赤貧半次郞の贈物、我れ受けて之れに報ゆるに思ひを苦しむものがある、然るに汝の失笑するが如きは、最も禮を失するものであると。吉次郞爲に面を赧くした。
 利秋、一日鋤を執つて田圃を耕してゐた。隣人、手に刀を携へて其傍を通り過ぐ。利秋、其刀を見て如何なるものかと聞くと、隣人、之れを某に賣らうと思ふといふ。利秋おのれに一見せしめよと請うたが、刀は名工の作で、金の切羽、銀の鍔を裝ふ佳品であるから、容易に見せてくれぬ。利秋强ひて請うて之れを接手し、熟視一番してゐたが、俄に刀を拔いて打振ふ事數回に及び、大に快哉を叫んだ。何分とも泥汚れの手で握つた爲に、白絹の柄を穢して了つた。隣人大に忿つて之れ責むると。利秋曰く、我れ未だ曾つてかゝる名刀を手にした事がない。既に手にしたら何となく揮ひたくなつた。之れを揮うて見たら、今度は此名刀を他人の手へ渡したくなくなつたと云うて、終に家財を賣飛ばして、此刀を購うた。
 明治戊辰の役、利秋、先鋒となりて東海道を下り、進みて小田原に陣した。時に、上野輪王寺宮、親ら大總督府に至り、德川氏のために恭順の意を傳へられんとした。其從僧某、黃金六十枚を包んで利秋に賂ふ。利秋、怫然として、汝輩、我れの武人なる事を知らぬか。汚らはしい斯樣の物に手を觸るゝ思ふかと、座に擲つてつよく拒んだ。
 彰義隊戰鬪の頃、利秋、神田三河町に舍營してゐた。河野某と共に附近の錢湯からの歸り途三士白刄を提げて街角から不意に襲ひかゝる者がある。利秋咄嗟に刀を拔いて之れに應じ、其一人の石に躓くを斫つた。斫られながら敵手は、橫に利秋の胴を薙ぎんとして、利秋危うく避けたが、爲に一指を失うた。河野は他の二人に向ふ。二人は既に他の一人の斫られたを見て、急に遁走した。利秋の斫つたは劍技に長ずる鈴木某といふもので、利秋の虛に乘じて斃さんと企てたものであつた。
 會津領の四境は嶮要の地である。利秋、薩兵一隊を率ゐて、因州兵と共に進軍し、山路狹隘の地點に近づいた。敵は巨石大木を積んで之れを守る。利秋、一氣に奔過して敵を衝かんと主張する。因州の隊長、敵の巨石大木を亂下して、吾兵を粉齏せん事を怖れて逡巡した。利秋、眉をあげて、然らば薩兵のみにて進擊せんと。卽ち令を傳へ、白刄を提げて隊の先頭に立ち、衆を麾いて驀直前進した。敵果して木石を亂下したが、吾兵は其以前に隘路を通過し終へて敵を潰敗せしめた。敵は此要阨に安んじて、銃を交叉したまゝ休憩してゐる折、利秋の兵が急擊したから、周章之れを防いだけれど、既に其時機を逸してゐたのであつた。
 會津を攻むる時、利秋、隊を率ゐて敵營を衝いた。利秋の背後から銃身で右腕をうつ者がある。利秋爲に刀を落し、再び拾はんとしたが、腕が麻痺して執れぬ。卽ち左手に刀を輝ひ、敵二三を斫り捨てゝ進んだ。
 若松城降りて、官軍之れを收受した。利秋、軍監の職を以て任に當つた。其動作法に合うて甚だ適切なる者がある。人、其何所で學び得たかを問ふと、曾つて江戶愛宕下の講釋場で聞いたと答へた。利秋又會津の降服の情を憐み、頗る其取扱ひについて寬大を極めたから、藩の君臣皆之れを德とした。
 維新の變亂漸く治まる頃には、薩藩は練兵の法を悉く洋式に取りて、小銃を主として操練したから、帶刀は不便であると唱へられてゐた。鳥取藩獨り長刀を帶して操練してゐる。利秋、龍の口の鳥取藩邸に於て、其練兵の指揮を托された事があつたが、吾指揮に從ふ者は少時なりとも、帶刀は無用だとて、長刀を奪うて之れを試みさすと、實に進退起居の行動が便利である此實際の經驗によつて、鳥取兵も皆利秋の言葉の利あるを承服したと見るや、利秋は衆の脫した刀を地に插し、中斷して悉く之れを棄てさした。其翌くる日の操練には、帶刀者と非帶刀者とがあつて却つて不整頓の觀があつた爲、こゝに至つて全く廢刀を行はしめた。
 利秋、回向院の角力を見る。傍らに容貌特異の一矮漢がゐた。偶利秋の刀の邊りに戞々の聲がするから、利秋訝んで見ると、其矮漢が煙草を喫して、吸殼をはたくために、利秋の刀の鞘で煙管をたゝいてゐる。利秋の刀は金銀の劍裝燦爛なるものであつた。利秋之れを熟視して、甚だ奇男子であると思ひ、決して一言の叱責も發せず、おのれも亦煙草を喫して、吸殼を矮漢の頭上に置いた。毛髮燒けて異臭紛々として生ずるも、矮漢は知らぬ知をしてゐる。茲に於て利秋は始めて言葉をかけ、汝は何者か。彼れ曰く、しかいふ汝は何者か。我れは薩摩の士中村半次郞。矮漢膝を敲いて、貴下の名を聞く事久しいものがある、我れは會津の小鐵であると名のつた。之れより兩人共に相携へて旗亭に赴き、痛飮を試みて交りを結んだ。
 利秋は之れ一武辨、元來文學に疎い。曾つて人と議論して曰く、キンクワンの守護は我一人にしてなさんと。聞く人、其、キンクワンの語の何を意味するかを解するに苦しんだ。漸くにして禁闕を禁關と誤つてゐる事が知れた。
 征韓論破裂するや、利秋、大久保利通を訪ひ、大に征韓の要を說き、異論を唱うる新歸朝の大臣參謀等を斬らんといふ。大久保曰く、異論を唱うる首魁は余である。反對派の大臣を斬らんとならば、先づ我れを斬れ。抑、君等軍人は、命を受け戰ひを爲さばそれでよいのである。廟議の是非を容喙するが如きは、軍人の本分でないといふ。利秋、大に憤り、眥裂け、將に剌死せんとした。吉田淸成、間に入りて利秋を慰藉して去らしめた。後に吉田曰く、彼の時ほど困つた事はない、今にして想ふてさへ、毛髮の慄然たるものがある。
 征韓論破れて、利秋、東京を去るに臨み、湯島の邸宅を賣らんとし、門扉に大書した。金壹千圓也、買はんとする者は來談せよと。
 征韓論の爲に、利秋、岩倉具視に謁して說く。岩倉曰く、西鄕往き、足下等之れに從つて朝鮮に赴かば、誰が帝國を守るかと。利秋曰く、濟々多士、憂うる處はない。岩倉更に曰く、朝鮮を征して若し露國我れに抗せば如何。利秋昂然として、露國抗せば、長驅其首都を衝くのみ、何の怖るゝ處かある。
 利秋、鹿兒島に歸つて、吉田村に住し、自ら鋤を取つて開墾に從ひ、甚だ田園生活を愛してゐた。又志士を以て自ら任ずる者の、志氣のみありて恆產無き缺點を痛感し、農業に從事して產を作り、志氣を養成してこそ、眞に國家の大事に應ずべき者であると語つてゐた。
 佐賀の亂に征韓黨破れ、敗殘の二士鹿兒島に逃れて來た。利秋、衆と謀つて、穴を吉田村の山中に堀り、此處に潛ましめた。警吏之れを探索する事嚴重であつた。一日、利秋、其山莊に諸人を聚めて此事につき議してゐると、警吏が獵夫に扮裝して來た。驚いて佐賀の二士を襖の後に隱くす。警吏の訊問逃だ急なるものがあつて、進んで室內を搜索しやうとした。利秋之れを見て、聲を荒らげ、言ふが如き二人は決して此處にゐない事を斷言する。然るに我言を疑うて尙家宅を搜索せんとするなら搜索するがよい。倂しながら若し搜索する者がゐなかつたなら何を以て我れに謝せんとするかと、怒號しつゝ煙管を取つて地に投げた。警吏辟易して退去した。利秋後に曰く、我れも亦意外の警吏來には驚いたと。
 私學校黨の彈藥掠奪問題と刺客問題との倂發した時、利秋は吉田にゐた。變事を聞いて、篠原國幹の邸に衆を會して、善後策を議した。利秋曰く、血氣の徒大事を誤る、しかし今や矢の弦を離るゝの勢がある、之れは到底抑へ切れぬものである、最早斷の一字の外に術策がないと衆議一決、西鄕隆盛を迎へる事になつた。
 明治十年二月、兵を率ゐて鹿兒島を發すに當り、利秋、六尺餘の靑竹を携へ、鎭臺兵を破る此靑竹で足りる、竹の末だ折れざる間に、必らず東京に行けやうと。
 熊本城の圍み解けて、薩軍退却する時、官軍火を村落に放ち、砲聲漸く急となつた。薩軍の嚮導者は急に川を渡つて退かん事を勸めた。利秋冷笑して勤かず、竊かに決死の意を示した。嚮導者之れを諫めて退かしめたが、利秋彈丸飛雨の間に悠々往來して、官軍が腹背を襲うも意に介せぬ風があつた。諸將交々諫止して、漸く本山方面に退却した。
 西南の役に於て、利秋の率ゐる隊は、剽悼の兵が前面に儼としてゐるに依つて、官軍は遙かに之れを視て恐れを抱き、容易に攻擊し來らぬ。或は戰はずして走る事さへもあつた。然るに利秋の隊は、其後列に老幼の弱兵があるのみで、官軍これを觀破し得ずして、徒らに前列を視て畏怖の情を發したのであつた。
 官軍の富高新町に突擊した時、利秋自ら陣頭に立ち、挺進して敵を禦いだ。衆之れを諫めたけれど聽かぬ。吾軍敗れて斯の如き狀に至るに及んでは、死を以て防ぐのみであると。一人、馬を曳き來つて、强ひて利秋を馬上に乘せて去らしむるを得た。
 十年八月、可愛嶽の重圍を突破し、二十九日より三十日に至り橫川に會戰して、大に官軍を破つた。利秋、其時に得たる捕虜三人に、衣服及び刀を與へて、一人をして吾佩刀を持たさしめ、一人をして鞄を、他の一人をして使丁の任につかしめて、吾家僕を役するが如く、何等の戒心する處なく、使つてゐた。かくて城山陷落の日まで、左右に置いてよく働かしめた。
 城山當に陷んとする際、官軍、一薩兵を捕へ來つた。陸軍少將大山巖、之れを鞠訊すると、利秋の命を奉じて使ひに來たとて、一個の包みを呈出した。披いて見ると、金側時計と紙幣若干とある。之れは利秋が大山に贈るもので、書面には、莫逆の情交忘れんとするも忘るゝ能はざるものがある、今死に臨んで記念として贈るとあつた。大山爲に淚の下るを禁ずる能はぬ。
 利秋、曾つて山地元治と戰敗に際しての覺悟を語り合つた。山地は、銃折れ、彈丸盡きて後斃るゝのみと云ふ。利秋曰く、我れは銃彈がなくなればとて、刀劍を以て戰ふ。刀劍なくなれば、腕力で戰ふ。腕力もなくなれば精神と氣魄とで戰ふと。
 明治十年九月二十四日、城山陷落の日、拂曉、官軍大擧して迫る。小倉壯九郞、勢已に迫れるを見て、自ら劍に伏して死した、利秋曰く、短氣な男ぢや。
 利秋、岩崎谷に立つて、自ら銃を手にして吾敗軍を顧みず、前面の敵を狙擊したが、一々命中した、命中せぬと、自ら批評して大に笑ひ。豐後猪を射るやうであると戲れた。村田新八、其傍にあつて、風琴を把つて飛彈の響に調子を合せて奏してゐた。
 左側の官軍、壘上に來り、銃劍を揮つて利秋を刺さんとした。利秋、刀で拂ひのけ、更に前面の敵を狙擊してゐたが、飛丸其右額に中り、顏面血を浴びた。利秋ひるまず、刀を揮つて壘上の敵を突かんとして、力已に竭きて斃れた。


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