伊庭八郎 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

伊庭八郞、諱は秀穎、世々幕臣である。父を軍兵衞といひ、劍を以て鳴る。八郞、安政の末、擢でられて奧詰に補す、幕府の親衞である。八郞亦劍技に秀づ。慶應三年、遊擊隊に附屬して、將軍慶喜の警衞として扈從し、京都に上る。明治元年、伏見に於て鬪ひ、驍勇を以て知らる。王師東に下るや、八郞木更津を經て、林昌之助を說きて、共に海を航して沼津に至り、兵を擧げんとした。大總督府、沼津藩に命じて、之れを錮して其兵を解かしめた。八郞、昌之助と共に逃れて、箱根に入り、官軍と鬪つて左腕を斷つ。熱海に奔り、榎本釜次郞(武揚)の軍艦に入りて、療する事數十日、梢々癒ゆ。釜次郞の北海道に走るや、八郞、美嘉保丸に乘じて從ひ、海上颱風に遭ひて漂ひ、銚子港に至る。八郞遁れて下總に匿れ、更に外國船に駕して函館に入り、釜次郞と合し、官軍を迎へ鬪ふ。明治二年五月、五稜郭に斃る。二十七歲。
 明治戊辰正月、伏見鳥羽の戰に、八郞の附屬する遊擊隊は、伏見方面に於て鬪うた。隊長は今堀攝津守、幕府の親衞隊であるから、精銳をすぐつて砲煙の裡に勇鬪した。中にも八郞は叱咤激勵、自ら陣頭に進んで奮戰し、其の勇姿、敵味方を驚かした。流彈飛來、胸を擊つて倒れたが、鎧下を着用してゐた爲に、貫通を免れたけれど、非常に吐血し、一時危險狀態に陷つた倂し健康なる八郞の體質は、よく之れを凌いで、後幾何もなくして恢復するを得た。
 江戶開城、將軍恭順の際に、遊擊隊を三つに分れた。一は將軍に扈從して水戶に赴き、一は彰義隊に加はり、他は各所の脫走隊に合した。八郞等五十餘人は、榎本釜次郞の率ゐる軍艦に投じ、幕府回業の擧に出でんとした。
 其主張する處は、海軍の主力を以て、速に兵庫を衝いて、之れを占領して根據地となし。別に下の鬪を扼して內海の通路を遮斷し、又鹿兒島を陷れ、櫻島に據りて、海上を牽制し。別に檄文を各藩に飛ばして、其の歸嚮を明かならしむると云ふものであつた。釜次郞此說を容れるに躊躇する間に、勝安芳、軍艦に來つて、順逆を說き、遂に軍艦の一部分を官軍に引渡す事に定まつた。
 八郞、憤慨措く能はず、艦を出でゝ上陸し、同志と共に木更津に赴いた。近傍の請西藩主林昌之助(忠崇)を說いて出兵を促し、更に附近の各藩を徇へて數百の兵を得、海を航して伊豆に渡り、沼津に出でゝ此處に陣營を布いた。
 江戶の大總督府は、沼津藩に命じて、八郞等を捉へ、之れを禁錮せしめた。八郞等、錮を脫して相模に走り、小田原藩を說いて其內應を迫り、箱根の關門を護る官軍派遣の中井範五郞等を斬らしめて、自ら其關門を扼した。
 八郞等の箱根關門を扼する時、會、雲井龍雄の肩輿を急がして通行する事があつた。乃ち輿を止めて、兩者相談じ、官軍に反抗する事を議し、相約して別れた。
 既にして東叡山の彰義隊潰え、官軍は大擧小田原を懲膺するの議か生じた。小田原藩大に畏れて、官軍に謝し、自ら先導となつて、八郞等を擊たん事を約し、其屯集せる所を襲擊した。衆寡敵せず、八郞等忽ち重圍に陷り、苦戰して敗走した。
 この時、八郞は脫して、早川三枚橋畔に來つた。一團の兵士、旗を樹てゝさしまねく者があつた。八郞之れを吾軍と信じて、心をゆるして近づくと、一士進んで刀を揮つて八郞の左手を斫つた。八郞大喝、敵を殪した。倂し八郞の左の手は既に斷たれてゐたのである。
 八郞、腰部を敵彈のために傷つけられた上に、左手をも失うたから、疲勞困躓、再び立つ能はざるものがある。部下某、之れを負うて山間を走り、熱海にのがれ、榎本釜次郞の率ゐる軍艦蟠龍に收容した。八郞の刀はこぼれて鋸齒の如き形狀であつたと云ふ。
 八郞、療養數十日にして創漸く癒えた。試に銃を執つて切斷された左腕の臂に載せ、右手に引金をひいて放つと、彈丸あやまたず的中した。八郞會心の笑をもらして、右手尙健在である以て鬪ふに足ると。
 明治元年八月、榎本釜次郞は軍艦八隻を率ゐて、品川灣を脫して北進した。八郞時に美嘉保丸に搭乘して之れに從ふ。館山を出て、外洋を馳する時、颱風に會して、美嘉保丸は僚艦に離れ、風濤のために飜弄せられて、船を損じて、空しく銚子港に漂着した、八郞、止むを得ず、こゝに上陸し、再び伊豆に赴いて、尺振八の許に潛んだ。人あり、政府に行きて、德川氏に仕へん事を勸めたが、八郞、戰場以外に於て再び官軍の面を見るを好まぬ、と强く拒んで應ぜぬ。
 徒食空しく日を送るは、八郞の欲する處でない。身を挺して外國船に便乘して、函館に達し釜次郞の軍に投じたのは明治元年十二月である。爾來、步兵頭竝となり、征討軍を迎へて勇鬪した。木古內の激戰に際し、八郞、敵彈のため胸部をうたれ、彈丸をぬく事能はぬ故、吾事終れり。吾體軀を敵中に放棄してくれと叫んだが、收容、後送されて、船に移して手當を加へられた。
 更に函館の病院に移送され、療養をうけたけれど、胸部の彈丸をぬく事ができぬ。其儘湯の川溫泉に運ばれた。釜次郞の軍漸次蹙んで、遂に五稜郭に據る事になつた。八郞亦五稜郭に收容せられた。明治二年五月、勢愈々盡きて、釜次郞等は自刄して其終りを潔くせんと志した。
 其時、釜次郞は毒を盛つた藥椀を携へて、八郞の病床に來り。我れも後から行くから、貴公一步先きに行かれたいと、藥椀を授けた。八郞、莞爾と笑つて藥椀を傾け盡くして、從容死に就いた。
 一說に、五稜郭內に落下した流彈のためにうたれて落命したともいふ。

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