近藤勇を降す 12 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

 今回は香川敬三私記から。

 O二督太政官ニ呈スル書
今度檻送仕候囚人近藤勇、在京中之所業今更申迄モ無之、東下之後、私ニ兵隊ヲ率ヒ、甲州ヘ出張致シ、官軍因、土兩藩之人數ト及戰爭ニ候處、敗走シテ江戶地ヘ退キ、大久保大和ニ變名シ、又候兵ヲ率ヒ、器械彈藥等相備ヘ、下總國流山卜申驛ニ屯集致シ居候處、當手之人數、不意ニ押寄セ召捕ヘ、板橋陣所へ送り越シ候ニ付、詰問仕候處、德川家來大久保一翁ヨリ被申附、爲鎭撫甲州竝ニ流山ヘモ出張致シ候旨申立候ニ付、德川目附兵ヲ呼寄セ、大久保大和ト申者有之哉ト相尋候處、右樣之者德川家來中ニハ無之趣相答、又近藤勇ト申者ハ、何方ニ罷在候哉及訊問候處、右ハ疾クヨリ脫走ニ及ヒ、近來德川之事ニ關係致シ候儀ハ少モ無之由ニ候、畢竟彼ノ者之罪跡ハ、天下之士民逼ク知ル所ニテ、今度私ニ兵ヲ率ヒ、官軍卜及戰爭ニ候段、慶喜恭順之意ニモ相戾リ、天地不可容之大罪ニ候、尤彼ノ者之申候ニモ、甲州及ヒ流山ノ義ハ、何分ニモ恐入候次第如何樣御處置被 仰付候テモ不苦卜、既ニ及伏罪ニ候、官軍之諸藩士、從來彼カ肉ヲ食ハンコトヲ欲シ居候ニ付、一時モ早ク可被處嚴刑ニ旨申出候得共、何分天下之大罪ニ候間、於京師市中引廻シ之上令梟首、聊天下義士之心ヲ慰メ候樣仕度奉懇願候、右樣之大罪人、萬一寬大之 御處置抔被 仰付候ハヽ、天下之有志都テ望ヲ失フ而已ナラス、當道官軍之如キハ、一同切齒憤怨可仕義ト被察候、何分賞罰ハ經國之要務、方今御一新之折柄、刑措テ不用ト申、至治之世トハ同日ニ論シ難ク、濫殺ハ可愼儀ニ候得共、一人ヲ誅シテ千萬人喜フト申御處置不被爲在候テハ、乍恐天下之士民。朝廷ヲ奉輕侮、樅也非寬之譏モ到來可仕哉ト痛心罷在候、何卒 御英斷ヲ以テ、至當之御處置被爲在候樣、西向奉懇願候、頓首謹言。
香川敬三私記

 標題に二督とあるのは誰を指すのか? 
 東山道先鋒総督が岩倉具定、副総督が弟の岩倉具経なので、この二人かとも思えるが、指揮系統から考えると、太政官との間に東征大総督府が入る。また、東海道先鋒総督は近藤逮捕の一件には直接の関わりが無いので、東征大総督と東山道先鋒総督の二人と考えられる。

――右様の大罪人、万一寛大の御処置など仰せつけられ候わば、天下の有志すべて望みを失う

 ことさら近藤の罪状を痛罵しつつ厳罰を望む内容や、香川敬三私記が出典であるところから、起案したのは新撰組に遺恨を抱く香川であろう。だが……

〇本書、原記月日ヲ佚ス、按スルニ、總督府ノ議、中コロ變シ、是書ハ蓋上ラサリシナリ、然レトモ、其昌宜ノ罪跡ノ敍スル稍詳ナルヲ以テ、此ニ附記ス、又閏四月七日ニ至リ、昌宜ノ首ヲ京師三條磧ニ梟ス。

 これが太政官に届けられることはなかった。近藤に対しての激しい憎悪を露わにすることは、新政府軍全体の空気には馴染まなかったことを思わせられる。

 このシリーズの前半で紹介した有馬藤太の回想録に見られるように、近藤を敵ながらも英雄として扱おうとした人もいたのだ。古来、武人は強敵を褒める場合がある。負けたのは敵が強すぎたからだ、あるいは、そんな強敵を倒した俺はスゴイだろう、というように自分を持ち上げるために敵を持ち上げる感覚を備えた人もいるのだ。

 これまでに見てきた有馬と香川の近藤評は正反対だが、そこから鏡写しのように有馬、香川それぞれの人物像も浮かび上がってくる。

 さて、近藤勇を降すシリーズは今回でいったん終わり、またいずれかの機会に戊辰戦争における近藤の行動が全般状況に及ぼした影響について論じることとしよう。

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