能「融(とおる)」 | Kazuma徒然の記

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お能の事、日々つれづれに思う事などを書き綴っていきます…。

作者:世阿弥


分類:切能(5番目物)

 

前シテ:老翁   後シテ:源融ノ霊


ワキ:旅僧    


間狂言:清水寺門前の者


所:京都・六条河原院      季節:旧八月



概略 : 諸国を旅する僧が都に上り、六条河原院まで来ると、汐汲みの田子を担ぐ老人が現われる。海浜でもないのに不審に思い、わけを尋ねると、この辺りは昔、左大臣・源融が陸奥の千賀の塩釜の風情を聞き及び、その景色を邸内に作り、日ごとに難波の浦より汐を汲み、ここにて塩を焼かせ、その風情を楽しんだものだと答える。ただ、その後左大臣の跡を継ぐ者もなく、今は荒れ果ててしまったのは寂しいものだ、とも答える。

 感じ入った僧はさらに京の山々などの名所を尋ね、老人も僧の問いかけに答えつつ、興にのり、汐を汲む風情なども見せつつ、いつのまにか汐曇りに隠れつつ、姿が見えなくなった。


Kazuma徒然の記-融1
    前シテ・老翁の汐を汲む型


《 中入り 》 ワキと間狂言の問答あり。


 僧はそのままその所を宿とすると、夢中に源融の霊が現われ、贅沢を極めた昔を語り、興に乗じて舞を舞い(早舞という楽式の舞を舞う)、月光などを愛でなどするうちに、明け方の雲も見え来たり、月影に誘われるままに月の都へ消え失せていった。



 源融は実在の人物で、嵯峨天皇の12番目の子で臣下となり、嵯峨源氏の初代となる人である。光源氏のモデルともいわれる。左大臣まで上り、死後、正一位を追贈されるが、当時の政界は藤原基経の時代であり、源融にはさほどの権力もなかったのではないかと思われる。その半ば世捨て人のような心情が、豪奢な六条河原院の造営に向かったのかもしれない。


 能「融」はさほど物語に変化がある能ではなく、月明かりの秋の風情の中に、ただただ美を紡ぎ、それを囃子・謡によって昇華し、風雅を極めていく、能が歌舞劇であるということ、詩であり、音楽であり、舞曲であり、それらが折り重なって現出する美である事を感じさせてくれる能ともいえます。この曲には世阿弥の能というものへの基本的な考え方が、込められているのかもしれません。

 
Kazuma徒然の記-融3

       後シテ・源融の霊


 当流には「笏ノ舞」という小書き(特殊演出)があり、この場合、冠の垂嬰が巻嬰に替わり、実際に笏を持ち、笏を扇に見立てて舞を舞う。舞も「早舞」から「急ノ舞」に替わり、急調子なものとなる。


Kazuma徒然の記-融2
       「笏ノ舞」の装束


 また、能の公演では最後の演目の終了後、「附祝言」という小謡で謡い納める慣わしがある。能には様々な曲目があるが、最後は寿ぎ終わるという意味があるといわれ、だいたいめでたい詞章のある神能の終曲部の2、3句を謡うことが多い。

 それに対して、故人の追善供養の公演の場合は、故人を偲び、「附祝言」に替わり「追加」という謡い納めとなる。その際よく謡われるのが、「融」の終曲部である。その他「海人」なども謡う。


  「この光陰に誘われて、月の都に入り給う粧い、あら名残り惜しの面影や、名残り惜しの面影。」


 この体言留め、となる曲は珍しく、当流の場合は、他に「兼平」「野宮」などがある。体言留めになると、シテの心情がさらに強調されるように思う。



Kazuma徒然の記-渉成園2
   六条河原院跡といわれる渉成園



舞台画像:山中一馬