劇的な言葉 | 高橋いさをの徒然草

劇的な言葉

我々の日常生活は九割がたどうでもいい言葉で成り立っている。

●「パンツがない」
○「あるでしょちゃんと見て」
●「ない」
○「あるわよ」
●「あった」
            *
●「そのお弁当ください」
○「こちらですか」
●「いや、こっちの方」
○「こちらですね。ありがとうございます」
            *
●「どこ行くの?」
○「ちょっと芝居を見に」
●「○○劇場?」
○「うん。面白いって聞いたから」
●「へえ」

例えば、こういった会話の連続が生活であり、人生のほとんど大部分である。ここには、特筆すべき劇的な言葉は皆無に等しい。だからこそ我々は日常の中にちょっとした「詩」を求めて、小説を読んだり映画を見たり芝居を見たり音楽を聞いたりする。そこに日常生活では決して味わえない特筆すべき劇的な言葉があるのを期待して。わたし自身も劇作家としてこういう日常の言葉ではない劇的な言葉を生み出そうと頭を悩ます。

「大衆を愛した君は、誰よりも大衆を憎んだ君だ」(芥川龍之介)

「賭けてみるか、"今日のオレはツイてるかどうか? " ってな。どうなんだ、このくず野郎!」(「ダーティハリー」)

「生まれたところや皮膚や目の色でいったいこの僕の何がわかるというのだろう」(ザ・ブルーハーツ)

「あなたの正義とわたしたちの正義は違うの」(「正太くんの青空」)

日常生活では決して出会えない劇的な言葉たちである。しかし、人間にとって最も重要な言葉は、そのような言葉ではないのかもしれないと思い至る。

●「ただいま」
○「お帰りなさい」

このような日常的極まりない言葉こそ、人間にとって最も特筆すべき重要な言葉かもしれない。その言葉は普段使い慣れているので、一見どうでもいい言葉のように見える。


*K駅にて。わたしの日常。