高橋いさをの徒然草
★新刊情報★

「I―note②~舞台演出家の記録」(論創社)

1991年から2012年まで、著者か演出した舞台の稽古の際に俳優、スタッフに配られた演出ノートを公開する。定価¥2000

発売中です。

★公演情報★

ISAWO BOOKSTOREvol.2

「母の法廷」

作・演出/高橋いさを

●日時2019年4月2日(火)~7日(日)
●オメガ東京

※「好男子の行方」公演時に配布した仮チラシに書かれた日時と変更があります。ご容赦ください。




























































Amebaでブログを始めよう!
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>

新しい「ミッション:インポッシブル」

DVDで「ミッション:インポッシブル/フォールアウト」(2018年)を見る。シリーズ第六作。国際的テロリストのグループに核兵器を売買しようとしている謎の男の追跡と核爆発を阻止しようとするイーサン・ハント率いるIMFの活躍が描かれる。

わたしはこのシリーズを全部見ているが、ストーリーは、どれもこれも似たり寄ったりの印象が拭えない。今まで作られた映画の内容をどれ一つとして正確に思い出せないのがその証左である。だいたいが核兵器をめぐる何かの陰謀(人類滅亡の危機)を主人公であるイーサン・ハントがチームの面々と協力し合って暴き、阻止するというようなものであると思う。それでもわたしが本作を見たいと思うのは、ラロ・シフリンが作ったあの血沸き肉躍るテーマ曲に乗って、不可能に挑戦するイーサンの神業的な活躍を見たいと思うからに他ならない。

今回のアクションの目玉は雪に覆われた山岳地帯を舞台にした「クリフ・ハンガー」のようなヘリコプタ・ーアクションである。それはそれで大いに楽しめるのだが、それ以外のアクション場面も含め、どのアクション場面もかつてどこかで見たような既視感がある。難しいものである。

わたしは必ずしもこのシリーズの原作となったテレビ・ドラマ「スパイ大作戦」の熱心な視聴者ではなかったが、このドラマで最も印象的だったのは、先にも書いたあのテーマ曲と主人公が指令を受け取った際に「なお、このテープは自動的に消滅する」という人を食ったような当局の指令者の台詞である。イーサンが所属するIMFとはいかなる組織か?   「アメリカ政府が手を下せない極秘任務を行う秘密諜報組織」とのことである。つまり、CIAのようなものか。それにしては、毎回、活動するチームのメンバーが少ないように感じるのはわたしだけか。

ところで、主人公のイーサン・ハントを演じるのはトム・クルーズである。この人はわたしと同い年なのだが、57歳にしてよく走り、よく動いている。同世代の人間として、その躍動する姿を見るのはやはり楽しい。

※同作。(「映画.com」より)

・・・でとうございます

2019年も明けてすでに10日、正月気分はすでにまったくない。にもかかわらず職場などで今年、初めて顔を合わせる人には儀礼的に「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」と挨拶するのが普通である。そう思ってはいるが、正月気分はまったくない状態なので、どうしても「明けましておめでとうございます」と言えずに「・・・でとうございます」という感じで「明けましておめ」という部分を飲み込んでしまう。続く「今年もよろしくお願いします」の方はすんなりと出るのだが、どうしても「明けましておめ」が出ない。

元旦の朝、初日の出の光を浴びながら着物に着替えた状態においてなら、張った声で「明けまして、おめでとうございます!」と言えるのだが、正月気分がまったくない状態で、この台詞はなかなか言いにくい。その場違いな感じがわたしの「・・・でとうございます」の正体である。こんなことに戸惑いながら、毎年、わたしはこの中途半端な時期をやり過ごす。この中途半端な感じは、例えば、招待された結婚式場でなら、新郎新婦にはガッチリと握手して「結婚、おめでとう!」とハッキリと言えるが、新婚旅行から帰ってきて、近くのスーパーマーケットで買い物している二人に偶然出会った場合、同じように「結婚、おめでとう!」とは言いにくいのと同じである。つまり、「おめでとう」という言葉は、"ハレ"の場の言葉であり、"ケ"の場で使うと違和感があるのだ。

まあ、こんなことに悩んでいるのは、社交性に著しく乏しい劇作家・演出家だけかもしれないが、年が明けてしばらく経ったこの時期、わたしのこんな悩みはピークに達する。大袈裟に言うと、人に会うのが苦痛になる。だから、早くこの中途半端な時期が過ぎないかなと思いながら毎日を送っている。しかし、わたしと同じような悩みを持つ人も案外多いのではないかとも思う。だってそうではないか。めでたい雰囲気がまったくない環境において「おめでとうございます!」という言葉を使うのはとても難しいのだから。

※新年のご挨拶。(「illust images」より)

「天国と地獄」の影響力

1980年に名古屋で身代金目的の誘拐事件が起こる。犯人は寿司職人のK、被害者は地元の女子大に通う22歳の女子大生である。「名古屋女子大生誘拐殺人事件」として知られるこの事件の犯人Kは、黒澤明監督の「天国と地獄」(1963年)を見て誘拐による身代金強奪を思い立ったらしい。ものの本によれば、「吉展ちゃん誘拐殺人事件」(1963年)の犯人も、「新潟デザイナー誘拐殺人事件」(1965年)の犯人も同作に影響されて誘拐事件を起こしているという意味では、この映画はそれだけ大きな影響力があったということである。現実に生きる人間を誘拐という犯罪に誘う力を持つ映画を「反社会的!」と非難する人もいるかもしれないが、わたしはむしろそのリアリティを賞賛したい。

わたしは漠然と犯人たちは「特急こだま」を使って行う身代金の受け渡しの方法を参考にしたと思っていたが、名古屋の事件の犯人Kを含め、犯人たちは、別の点に注目していたらしい。すなわち、誘拐した人間を生きたまま解放すると目撃証言から足がつくという点である。確かに「天国と地獄」において誘拐された後、解放された少年の目撃証言は、警察が犯人の足取りを追う上で重要な役割を果たした。そして、犯人(若き日の山崎努)は最後に逮捕されるのである。目撃証言から警察の捜査が自らに及ぶことを恐れたKは、誘拐した女子大生を誘拐後にロープで首を絞めて殺害するという非情な手段を選択する。他の犯人たちも同様である。

それにしても、三つの現実の事件において参考にされた「天国と地獄」は、改めてすばらしい映画であるとわたしは言いたい。黒澤明監督は、何も誘拐事件を助長しようとして本作を作ったわけではなく、むしろその逆の誘拐犯への怒りの感情から映画を作ったのだ。ただ、描かれた誘拐犯の行動が余りに賢く、独創的だったゆえにこういう模倣犯を生み出してしまったのである。たぶん現実世界の模倣犯の出現に監督は深く悩んだにちがいない。しかし、わたしはこの映画を作った監督を尊敬こそすれ、非難する気持ちは皆無である。被害者の遺族を前には言いにくいが、これこそ芸術家冥利に尽きることではないか。

※同作。(「Amazon.co.jp」より)

シンガーソングライターの現実

ネットでシンガーソングライターのEPOの告白記事を見かけた。どういう経緯でEPOがそういう告白をするに至ったかはよくわからないが、そこで彼女は、母親から虐待された過去を赤裸々に語っていた。わたしはEPOが作り歌う楽曲が大好きだったので、曲の明るさとはまったく正反対のその告白はちょっと意外であった。

うららかすぎる   日差しのまやかしで
街中なんだか   息ずいている
まばゆい春の   風はいたずらに
ブラウスの袖に   軽くそよいで
うふふふ  ちやほやされて
うふふふ   きれいになると
悪魔したくなる 
うふふふ   毎日だれかに
うふふふ   見られることが
ビタミンになる

これはEPO作詞・作曲による「う・ふ・ふ・ふ」の歌詞である。透き通った声で歌われるこの歌の内容と明るいメロディーは、若い女の子の溌剌とした生命力の輝きを感じさせる。わたしとほぼ同世代の彼女は、ポップであるとはどういうことか、その歌を通してわたしに教えてくれた一人なのである。しかし、こんな歌を歌っていた彼女の現実は必ずしも明るいものばかりではなかったのだ。少なくとも当時、彼女から「母親からの虐待」という負のイメージを抱いた人間は誰一人としていなかったにちがいない。

では、ユーミンはどうか?   ユーミンこと松任谷由実の歌も、EPO同様にわたしにポップであることの魅力を教えてくれた一人だ。

昔となりのおしゃれなお姉さんが
クリスマスの日  わたしに言った
今夜  8時になると  サンタが家にやってくる
ちがうよ  それは絵本だけのおはなし
そういうわたしにウィンクして
でもね  大人になれば  あなたもわかる  そのうちに
恋人がサンタクロース
本当はサンタクロース
つむじ風追い越して
恋人はサンタクロース
背の高いサンタクロース
雪の街から来た 

ユーミン作詞・作曲による「恋人はサンタクロース」である。こんなお洒落な歌を歌うユーミンにも、EPO同様、歌の内容とは裏腹に厳しい現実が横たわっていたのだろうか?

※EPOのベスト・アルバム。(「Amazon.co.jp」より)

脱獄も劇作も

「スリーデイズ」(2010年)は、冤罪で刑務所へ収監された妻を脱獄させるべく奔走する夫をラッセル・クロウが演じる描くアクション映画である。本作はフランス映画「ラスト3デイズ~すべて彼女のために」(2008年)のアメリカでのリメイク作品だが、オリジナル版にもリメイク版にも主人公が脱獄計画を成功させるべく助言を求める元脱獄囚が登場する。リメイク版ではリーアム・ニーソンがその役をやっている。その男は夫に以下のような助言をする。

男「脱獄できない刑務所はない。"鍵"を見つけることさえできれば」
夫「どうやって?」
男「観察するんだ、特に日常とは違う動きを。看守は惰性で行動している。だから、何か起きるとミスを犯す」

この男の言葉に従い、夫は刑務所に関する様々な情報を集め、思考をめぐらせ、ついに"鍵"を発見する。その脱獄方法は、その男の教えに従った「日常とは違う動き」に注目したものであり、意表を突いているが、理にかなったものであると感じる。

わたしは、元脱獄囚の言葉を聞いて、ふと劇作も脱獄も同じようなものだという感想を持った。脱獄も劇作も問題は"鍵"を見つけ出せるかどうかだ、と。本作に則して言えば、"鍵"は収監中の妻は「軽い糖尿病にかかっている」という些細な点である。この小さな、しかし、特殊な事情が夫にある閃きを与え、夫は妻を脱獄させる方法を思いつくのである。それはまさに元脱獄囚の男が口にした"鍵"である。このように一見、完璧な監視システムを誇る脱獄不可能の刑務所であっても、突くべき弱点はあるのである。その弱点を発見することが脱獄の成功を約束する。

そのような意味において、劇作とは「脱獄不可能な刑務所からいかに脱出するか?」という課題を克服する作業に似ている。そして、その脱獄が成功するには、方法のオリジナリティが問われている。それを突破するには、小さな、しかし、特殊な個々の事情を決して見逃さないことである。突破口は常に誰も思いつかない意外な場所にある。

※同作の一場面。(「KALEND OKINAWA」より)

お金と友だち

「お金は儲かってはいけない。ほどほどが一番いい。儲かり過ぎると、お金と友だちでなくなるから」

年末の忘年会の席で、わたしよりずっと年上のとある会社の社長がそのように言っていて、印象に残った。わたしはお金と余り縁がない暮らしをしているので、こういう認識はまったくなかった。だから、社長の言葉はちょっと新鮮であった。社長の考えに拠れば、お金とは主従関係で付き合うものではなく、対等な立場で付き合うのが好ましいということだと思う。嫌が上にもお金と付き合うことを余儀なくされる会社社長という立場の人だからこそ、こういう言葉を口にすることができるように思う。

省みれば、わたしたちは、日々の生活をしていく上で常に「金、金、金!」言っている。かくいう極楽トンボのわたしでさえ、口にこそ出さないまでも金(仕事の報酬)の呪縛から自由ではない。生活しなければならないからである。だから、何とかお金を稼ごうと、いろいろと仕事をする。お金はないよりあった方がいいからである。しかし、お金を得ることに汲々とした結果、お金の奴隷のようになってしまったら、お金とわたしの関係は対等なものではなくなると思う。お金のためだけに働く人生は空しい。

ずいぶん前にコラムニストの中野翠さんが「わたしは映画の肉親でも恋人でもなく友だちである」という言い方で、映画と自分の関係を語っていたことがある。大好きな映画だからと言って、肉親や恋人のようにべったりと親しみ合うのではなく、ある距離を置いた友だちのように付き合っていきたいというその意見に、わたしは大きくうなずいた。社長が口にした「友だち」という言葉も、その意見に通じるものを持っていると思う。つまり、映画もお金も、決してのめり込むのではなく、ある距離感を持って付き合うことが大事なのだ。さすが人生の先輩はいいことを言う。

※お金。(「暮らしラク」より)

知らないオジサン

幼い子供を家から外へ送り出す時、世の母親たちは次のような台詞を言うことが多いと思う。

「行ってらっしゃい。車に気をつけてね」

しかし、わたしが幼い頃、母親たちは次のような台詞を言って子供を送り出したように思う。 

「行ってらっしゃい。知らないオジサンに声をかけられても着いていっちゃダメよ」

つまり、1960年代から1970年代にかけては、車以上に危ないものが存在していわけである。世の母親たちはそれに対しての警戒を怠らなかった。すなわち「知らないオジサン」である。「知らないオジサン」とは"人さらい"を意味している。"人さらい"!   唐十郎の芝居に出てきそうな言葉だが、最近、とんと聞かなくなった言葉である。つまり、死語になったということであろう。子供をさらって身代金を要求するような事件も昔のように身近ではなくなった。それは、身代金目的の誘拐罪がリスクの大きさの割には実りがない犯罪であることを人々が理解したからではないか?

1963年3月31日、台東区に住む4歳の少年が遊んでいた公園から忽然と姿を消した。村越吉展ちゃんである。「吉展ちゃん事件」として有名なこの事件で 、犯人の小原保に身代金目的で誘拐された吉展ちゃんは誘拐後に殺害され、二年三ヶ月後に犯人の自供により遺体となって発見された。同年、黒澤明監督の「天国と地獄」が公開され、映画は大ヒット。その卓抜した身代金の受け渡し方法ゆえに後に多くの誘拐犯人たちが参考にしたサスペンス映画である。東京オリンピック開催前夜、世の中の人々にとって誘拐犯人="人さらい"は今よりずっと身近な存在としてあったにちがいない。だから、昔の母親たちは上記のような台詞で、我が子を外へ送り出したのだ。2019年の今、母親は子供を何と言って送り出しているのだろう?   まさか「行ってらっしゃい。通り魔に気をつけてね」とは言っていないと思うが、もしそうならほとんどブラック・ユーモアである。

※通学する子供たち。(「交通安全部」より)

服のままの入浴

いきなりだが、アナタは服を着たまま風呂に入ったことはあるだろうか?   こんな質問をしておいて言うのもナンだが、わたしは未だそういう経験をしたことはない。しかし、服を着たまま風呂に入るとどんな気持ちがするかを想像したのである。たぶんそれはとても気持ち悪いことにちがいない。風呂の湯が衣服にまとわりつき、からだがぶよぶよに膨れるような感覚。しばらく湯に浸かっていればそれにも慣れるだろうが、湯船から外へ出る時、からだにべったりと張り付いた衣服がからだの表面に重くのしかかり、ザアザアと湯がこぼれ落ちる。考えただけでも不快になる。やろうと思えばいつでもやれるが、いくら横着な人間でさえ、服を着たまま風呂に入らないのは、そういう不快感を想像できるからにちがいない。
 
そんなことを考えていたら、ふと「スティング」(1973年)という映画の一場面を思い出した。ロバート・レッドフォードが、名うての詐欺師であるポール・ニューマンに初めて会う時、ニューマンは服を着たままバスタブの中で横たわり、シャワーを浴びていた。あれはニューマンが二日酔いでその酔いざましのためにやっていたことだったと記憶するが、頼りにしてきた詐欺師が服を着たままシャワーを浴びている姿にびっくりするレッドフォードの顔が忘れられない。

人間が服を着たまま風呂に入る場合は、その人が何らかの特別な事態に遭遇し、前後不覚になっている場合だと考えられる。物凄く泥酔した場合、そういうこともあり得る。しかし、シャワーを浴びるのと風呂に入るのは明らかにニュアンスが違う。件の「スティング」のポール・ニューマン登場場面も、シャワーだから絵になるのであって、湯気が立つ風呂にニューマンが入っていたらずいぶんと間抜けな印象になるにちがいない。

想像だけして、決してやらないことが人間にはあると思うが、「服を着たまま風呂に入る」という行為は、長い人生の中で一度くらいは試す価値はあるかもしれない。そんな日がわたしにやって来るなら、ここで報告する。

※同作。(「Y!映画」より)

悪魔島からの脱出~「パピヨン」

DVDで「パピヨン」(1974年)を再見する。ふと正月らしい映画を見直したくなったのである。この映画のどこが正月らしいかは異論があるかもしれないが、スケールの大きい映画であることは間違いあるまい。実に30数年ぶりの鑑賞である。実話を元にした脱獄映画。

仲間の起こした殺人事件の犯人として、南米のギアナにある"デビルズ島"へ投獄された"パピヨン"と呼ばれる男。そこで知り合ったドガという国債偽造犯と仲良くなった男は、島からの脱獄を試みるが、失敗し、二年間の独房生活を強いられる。劣悪な環境に耐え、何とか生還した男は、再び脱獄を試みる。

わたしが微かに覚えていたのは、パピヨンに扮するスティーヴ・マックイーンが光が届かない暗い独房でゴキブリを食べる場面のみ。他の場面はすっかり忘れていた。改めて認識したのは、本作は過酷な刑務所生活を強いられる主人公のサバイバルの物語であると同時に、ダスティン・ホフマン扮するドガとの友情物語であることだった。監督はフランクリン・J・シャフナーで、堂々たる演出ぶりである。青々とした大海と薄汚れた刑務所内部が見事なコントラストを醸し出している。ジェリー・ゴールドスミスの甘美な音楽も作品の格調を高めている。

南米ギアナがどこにあるのかもわからず見た映画だが、フランスにおける政治犯・凶悪犯は、フランス領ギアナにある"デビルズ島"へ送られたという。アメリカにおける"アルカトラズ島"のようなものと考えればいいということか。古今東西、脱出不可能の刑務所が海に浮かぶ島にあるケースは多いが、海に囲まれた地理条件が、脱出を著しく阻むという意味では理にかなっている場所である。よく考えてみると、実在した"パピヨン"はフランス人である(アンリ・シャリエールという)から、アメリカ人であるマックイーンが演じることにはちょっと無理があると思うが、どうか。いずれにせよ、マックイーンの最盛期の一本であることは間違いないが。

※同作。(「映画.com」より)    

※南米ギアナ。(「Wikipedia」より)

作品はすでにある

「作品は以前から存在する知られざる遺物である。作家は手持ちの道具箱から目的にかなった用具を選んで、その遺物をできる限り完全な形で発掘することに努めなければならない」

これは「小説作法」(スティーヴン・キング著/アーティスト・ハウス社)の中に出てきた一節である。キングに拠れば、小説を書くとは、作家が懸命に文字を紡いでいく作業ではなく、すでにある作品を取り出す作業であるということである。わたしは小説家ではないが、思い当たる節はある。

キングは作品を遺物に喩えているが、彫刻家が作る彫像にも喩えられる。作家の頭の中にはすでに完成した彫像がある。それを金槌やノミを使っていかに繊細に掘り出すことができるかーーそれが作品を作るということなのだ。傑作とは、金槌やノミの使い方が繊細で、掘り出された彫像が完璧な形を保っているが、失敗作は道具を雑に扱ったゆえに彫像が欠けて歪(いびつ)な状態を指す。夏目漱石が「夢十夜」の中で描いた鎌倉時代の仏師・運慶に関しての人々の会話もこれによく似ている。

「よくああ無造作にノミを使って、思うような眉や鼻ができるものだな」
「あれは眉や鼻をノミで作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、ノミや鎚の力で掘り出しているだけだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違えるはずはない」

キングにせよ、運慶にせよ、これらの言葉には、創作の極意が語られている。つまり、これは何も小説執筆だけの話ではなく、すべての創作活動とは、そのような発掘作業として語れるということだと思う。それが文筆であれ、作曲であれ、絵画を描くことであれ、すべての創作活動は遺跡の発掘の比喩で語ることができるように思う。作品はすでに作家の中に存在している。後は、その遺跡をどれだけ正確に掘り出せるかどうかだ。逆に言えば、作家の中に存在しない彫像は決して掘り出すことができない。

※運慶作・金剛力士像。(「excit blog」より)
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>