★新刊情報★

高橋いさを最新戯曲集

①『海を渡って~女優・貞奴』(論創社)

表題作に加えて朗読劇「父さんの映画」「和紙の家」(村松みさきとの共作)「母の法廷」の四編を収録。定価¥2000

2015年5月、全国書店にて発売中!

②『交換王子』(論創社)

マーク・トウェイン作「王子と乞食」を翻案した表題作に加えて、駆け落ちカップルの逃避行の顛末を私立探偵が回想するコメディ『旅の途中』を収録。定価¥2000

2015年9月、全国書店にて発売中!

③「I―note②~高橋いさをの演出ノート」(論創社)

1991年から2012年まで、著者か演出した舞台の稽古の際に俳優、スタッフに配られた演出ノートを公開する。定価¥2000(予定)

しばらくお待ちください。



































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2017-08-21 09:29:00

事件の名前①

テーマ:事件・事故
何かしらの犯罪事件が起きて、その事件が当局によって捜査され、犯人が特定される。その過程においてジャーナリズムはその事件を広く一般の人々に伝えるべく内容を言葉によって再構築する。こうして次第にではあるが、その事件は、一つの名称が与えられ歴史のページに定着していく。以下の事件は、そのように定着した有名な事件だが、内容をまったく知らない若いアナタは、その事件をどのような事件だと想像するのだろうか。

●名張毒ぶどう酒事件(1961年)
毒の入った「ぶどう酒」が重要な役割を果たす事件であることは察知できる。しかし、毒入り「ぶどう酒」がどのような状況で、何者によって使われたかを想像するのはなかなか難しい。また、犯行に使われたのが「ぶどう酒」ではなく、「甘酒」だったとすると、事件名は「名張毒甘酒事件」となり、事件の雰囲気がまったく変わる。

●和歌山毒入りカレー事件(1998年)
毒の入った「カレー」が重要な役割を果たす事件であることは察知できる。しかし、毒入り「カレー」がどのような状況で、何者によって使われたかを想像するのはなかなか難しい。また、犯行に使われたのが「カレー」ではなく「麻婆豆腐」だったとすると、事件名は「和歌山毒入り麻婆豆腐事件」となり、事件の雰囲気がまったく変わる。

●吉展ちゃん事件(1963年)
わたしたちが「吉展」を「よしのぶ」と読めるのは、この事件があったからである。今なら「台東区児童誘拐殺人事件」と命名されるはずのこの事件の発生当時、マスコミに被害者の名前を事件名に取り込む風潮があったということか。当たり前だが、「吉展ちゃん」は「吉展ちゃん」であって決して「吉則ちゃん」でも「吉久ちゃん」でもない。そこに固有名詞を事件名に盛り込んだ本件の唯一無二のオリジナリティがあると思う。

まったく現実に起こった事件はリアリティに満ちている。現実に起こった事件を「リアリティがある」と評するのは本来おかしいことだが、わたしはこれらの名前を持った事件の概要に深く納得する。犯罪の名前が示しているように、これらの事件は、その日、その時、その場所で、その方法でしか起こり得ない犯罪だったのだ。それは「名張毒甘酒事件」も「和歌山毒入り麻婆豆腐事件」も「吉則ちゃん事件」も、この世に存在しないことと密接に関係している。それはフィクションではなく、誰がどう言おうと「現実に起きた」ことなのだ。

※吉展ちゃん事件の新聞記事。(「銀次のブログ」より)
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2017-08-20 09:10:00

女体の神秘

テーマ:エトセトラ
わたしは男なので、自分のカラダを受け入れて男として生きていてるが、もしも「自分が女のカラダを持っていたら?」と空想することがある。自分にはないものを持つ人に人間は憧れや恋するのは世の常である。もっともそれは空想であって、わたしは女であることがどういうものかわからないままに生涯を終えるであろう。それをどうしても実現しようとしたら、性転換することも不可能ではないが、そこまでやる人はマレだと思う。

ところで、何かをきっかけに男女の心が「入れ換わってしまう」事態を描いたファンタジー作品は数多く、わたしが知る限りでは、「転校生」(大林宣彦監督の映画)「秘密」(東野圭吾の小説)「椿山課長の七日間」(浅田次郎の小説)「君の名は。」(新海誠監督の映画)などがあるが、女のカラダを持った男は、鏡の前で自分の裸体をまじまじと見つめた時にどのような気持ちになるであろうか。たぶんそれはとても複雑な気持ちにちがいない。彼は鏡の前で自らのカラダをくねらせて、そのボディラインにうっとりしたりするのだろうか。

SF映画「ヒドゥン」(1986年)と「ターミネーター3」(2003年)には共通点がある。前者には人間のカラダを乗っ取って悪事を働く宇宙からやって来たエイリアンに寄生される女性ストリッパーが、後者には自由自在に変身できる未来からやって来た金属製の女ターミネーターが登場する。前者のエイリアンは、車の運転席のバックミラーごしに寄生したストリッパーの豊満なカラダをまじまじと眺め、物珍しそうに乳房を両手で触る。後者の女ターミネーターは、パトカーに追跡されている最中、ふと見た巨乳の女性が映った広告看板を真似て、自分の胸を風船のように膨らませる。ともに彼女を追跡していた男性警官はその胸に気を取られてつい油断する――。どちらの映画も、エイリアンや女ターミネーターが関心を向けるのが女の乳房であるという点が興味深い。

この文脈で、逆のパターンを考えると、男のカラダになったエイリアンやターミネーターが鏡の前で関心を向けるのは、自分の下半身にある奇妙な突起物であるということになるか。

※「ヒドゥン」の女性ストリッパー。(「FRAGILE」より)
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2017-08-19 08:13:00

森林恐怖症

テーマ:エトセトラ
この世には様々な恐怖症が存在する。割合に一般的なそれは、対人恐怖症、高所恐怖症、閉所恐怖症、尖端恐怖症などであろうか。説明するまでもないが、これらはそれぞれ人間がとても苦手、高いところがとても苦手、密室がとても苦手、尖ったものがとても苦手という症例である。そんな恐怖症の一つに「ハイロフォビア」という恐怖症があることを知った。「森林恐怖症」と訳されるらしいが、要するに森や木を恐怖する症例である。

●森林恐怖症
森や木そのものを見ることに恐怖を感じる。特に真っ暗な森林などへの恐怖が強い。また、森の中で迷子になることを極端に恐れ、森がある場所を回避しようとする。(「ailovei」より)

わたしはたぶん「ハイロフォビア」ではないと思うが、夜の森を好きか嫌いか聞かれたら嫌いであると答える。「夜の森が大好きだ!」という人間もこの世にはいるだろうが、大体の人は夜の森に不気味さを感じるのではないか。何かが潜んでいそうな気配が恐怖を煽る。そんな人間の恐怖感覚にホラー映画の作り手が目をつけないわけはなく、そのものズバリ「クライモリ」(2003年)という映画があった。どんな内容だったかよく覚えていないが、暗い森に迷い込んだ若者たちが恐怖の体験する話であったと思う。

上記の引用文献の情報によると、恐怖症には他に「姑恐怖症」「文字恐怖症」「へそ恐怖症」「蟻恐怖症」「花恐怖症」「黄色恐怖症」「ピーナッツバター恐怖症」などがあるらしいが、この世にあるすべてのものは恐怖の対象になりうる。家の中では、「ハサミ恐怖症」「ドア恐怖症」「階段恐怖症」「電話恐怖症」、一歩外に出れば「車恐怖症」「電柱恐怖症」「鳥恐怖症」「エレベーター恐怖症」「吊革恐怖症」もありうる。要するに何でもありなのだ。

しかし、上記の「ハイロフォビア」にわたしがちょっと理解を示すことができるのは、やはり、夜の森は人類共通の普遍的な恐怖を煽る何かを持っているように思うからである。それはたぶん暗い森に生い茂る様々な木々が、人間に様々なものを想像させる契機になるからにちがいない。なぜなら、恐怖の正体は恐怖する対象そのものにあるのではなく、実は恐怖を感じる人間の想像力の方にあるはずだからである。つまり、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ということである。

※夜の森。(「gooブログ」より)
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2017-08-18 09:56:00

ベトナム戦争版「わが町」~「ディア・ハンター」

テーマ:映画
DVDで「ディア・ハンター」(1978年)を再見する。その年のアカデミー賞作品賞を取ったベトナム戦争を背景にした人間ドラマ。監督は今年亡くなったマイケル・チミノ。

ピッツバーグの製鉄所で働くマイケルとその仲間たち。彼らは仲間のスティーヴンの結婚式に出席し、新郎新婦を祝福する。しかし、マイケル、ニック、スティーヴンの三人はほどなくベトナム戦争へ出征する。戦場で再会した彼らは、ベトナム人の民兵の捕らえるところとなり、気違いじみた"ロシアン・ルーレット"をやらされる。命からがら脱出に成功したマイケルは、二年後、帰還を果たすが、行方不明の友人のニックが、サイゴンにいると知るに及んで再びベトナムへ向かう。

180分に及ぶ長尺の映画である。大まかな構成は、①結婚式②戦場③帰還④再訪となっている。①が60分余りあるのだが、本来ならここは10分で終わらせるべきエピソードである。それをあえて60分かけて描いた点に本作の性格がある。つまり、本作は戦争の物語ではなく、友情の物語なのだ。④でニックの葬式の模様が描かれるが、結婚式で始まり葬式で終わるという構成を踏まえると、本作は人間の人生を三幕で描くソーントン・ワイルダーの戯曲「わが町」を思わせる。確かに見ようによれば、本作はベトナム戦争を題材にした「わが町」にも見えなくもない。

ただ、ベトナムで描かれる"ロシアン・ルーレット"のエピソードが余りに強烈過ぎて、友情の方がちょっと霞んでしまう。それにしても、銃撃戦や爆弾投下などの戦闘行為ではなく、民兵が捕虜に強いる"ロシアン・ルーレット"の理不尽さによって戦争の狂気を描くとは何という独創だろう。わたしは、題名の由来たる「鹿狩り」のエピソードよりも、こちらの方が何倍も印象的である。

若き日のロバート・デ・ニーロやクリストファー・ウォーケン、メリル・ストリープらが若々しい。とりわけ狂騒の中で行われる"ロシアン・ルーレット"の場面のウォーケンは強烈な印象を残す。また、本作が遺作となり、公開を待たずに亡くなったジョン・カザールの姿が懐かしい。些細な話だが、サイゴンの地下賭博場で"ロシアン・ルーレット"を仕切る小柄なオヤジ(ロイド眼鏡の片方だけ黒い)が、もの凄くリアルな存在感を示しているように思う。

※"ロシアン・ルーレット"の場面。(「RAKUTEN BLOG」より)
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2017-08-17 09:38:00

ハリソンの冷蔵庫

テーマ:エトセトラ
キッチンの冷蔵庫の扉を開け、冷やしていた水を取り出して飲む。ふと、冷蔵庫の中身をまじまじと見つめ、「外国の家の冷蔵庫の中身はこうでないよなあ」と思う。

そんなことを思ったのは、先日、テレビでサスペンス映画「ホワット・ライズ・ビニース」(2000年)をやっていて、その中にハリソン・フォードが演じる夫が帰宅して家の冷蔵庫を開け、飲み物を飲む場面があり、それを思い出したからだ。ハリソンの夫が冷蔵庫を開けると、ドアの内側にびっしりと様々な飲料や食料品が並んでいるのが見えるのだが、その様子はわたしの自宅の冷蔵庫の中身とはずいぶん違う。何と言うか、整然としていて見た目が美しいのだ。

家庭の冷蔵庫の中身は、リアリズムの極致である。そこには、日々、わたしが消費する様々な飲料や食料品などが貯蔵されている。具体的に言えば、雪印の牛乳とか、カゴメのトマト・ケチャップとか、キューピーのマヨネーズとか、ミツカンのポン酢とか、キッコーマンの醤油とか、丸大食品のハムとか、そういう具体的極まる食料品が並んでいるのだ。その様は実に直接的で、散文的な光景である。それに対して、ハリソン・フォードの冷蔵庫は、わたしがまったく見知らぬ外国のメーカーが作った様々な飲料や食料品が色彩鮮やかに並んでいるのだ。その様は、わたしにとって新鮮で詩的な光景に感じられる。

翻って、外国を旅する楽しさとは、このような文脈の上にあるにちがいない。わたしが住むこの世界は、見慣れた分、限りなく散文的で面白味に欠けるが、外国へ足を運べば、そこで目にするものすべてが、詩的にわたしの目に映り、想像力を刺激する。ファンタジックという言葉を使ってもいい。そこでは、わたしが見慣れたはずの道も、商店も、郵便局も、警察署も、病院も、銀行も、駅も、電車も、車も、人もすべてが詩的な輝きを放つのだ。かく言うわたしは外国旅行をしたことがなく、こんなことを書くのもちょっと気が引けるが、わたしは自分の詩的なものを求める欲求を外国映画を見ることで満たしているのだと思う。

キッチンの冷蔵庫の扉を開け、冷やしていた水を取り出して飲む。ふと、冷蔵庫の中身をまじまじと見つめ、「外国の家の冷蔵庫の中身はこうでないよなあ」と思う。

※冷蔵庫の中身。(「誤訳御免」より)
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2017-08-16 09:13:00

純度100%のアクション映画~「アンストッパブル」

テーマ:映画
テレビで放送されていた「アンストッパブル」(2011年)を再見する。実話を元にした暴走する列車とそれを止めようとする鉄道関係者を描くアクション映画。デンゼル・ワシントン主演。本作は後に自ら命を絶ったトニー・スコット監督の遺作である。

貨物列車777号が運転手のミスによって無人のまま暴走する。大量の危険な薬品を搭載した列車を止めるべく、鉄道会社は手を尽くすが、列車を止めることができない。事態を知ったベテラン機関士フランクは、新米のウィルとともに、決死の覚悟で暴走列車に立ち向かう。果たして、彼らは列車を止めることができるのか?

わたしは本作の感想をすでに書いているが、改めて感じたのは、これほど映画的な感興に溢れた設定は滅多にないということだった。「十二人の怒れる男」も面白い。「ゴッドファーザー」も面白い。「ローマの休日」も面白い。「アパートの鍵貸します」も面白い。「ダーティハリー」も面白い。「裏窓」も面白い。けれど、映画とは「アンストッパブル」のような題材こそ、最も相応しい表現形式なのではないか、と。「アクション」がこれほどド真ん中にある映画もないように思うからだ。混じりけなし、純度100%のアクション映画。暴走する列車とそれを止めようとする人々のスリリングな攻防戦、次々と人々に襲いかかる危機また危機。手に汗握り、血沸き肉踊る一直線のストーリー。

そんな面白さを充分認めた上で、強いて注文をつけるなら、物語を締め括る人間ドラマがちょっと安易に流れていると感じる点か。事件収束後、フランクは昇進し、ウィルは仲違いした妻とヨリを戻すという本作の結末を、フランクは予定通り望まぬ退職を余儀なくされ、ウィルは妻と離婚するというように変えたら、作品としての味わいはもっと深くなるのではないか。「劇映画の結末において、主人公が得るものと失うものはプラス・マイナス0でなければならない」という作劇のセオリーに則って言えば、本作の結末はプラスの方向に傾き過ぎている。つまり、ストーリーに苦味が効いていないのだ。

※同作。(「Y!映画」より)
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2017-08-15 08:46:00

ジャングルの悪夢

テーマ:映画
わたしが映画を熱心に見出した頃、すなわち1970年代の半ばから80年代にかけて、べトナム戦争を描くアメリカ映画が多くあった。「ディア・ハンター」(1978年)「地獄の黙示録」(1979年)「プラトーン」(1986年)「フルメタル・ジャケット」(1987年)などは直接的に、「タクシードライバー」(1976年)「ブラック・サンデー」(1977年)「ランボー」(1982年)などは間接的にべトナム戦争を描いた映画である。そもそも、わたしが「べトナム戦争」の存在を知ったのは、書物を通してではなく、「タクシードライバー」の主人公のトラヴィス(ロバート・デ・ニーロ)の「べトナム戦争の帰還兵」という設定を通してだった。

これらの映画を見て、わたしは戦場とは倒壊し瓦礫の山となった町中だけで行われるものではなく、ジャングルを舞台にした戦争というものがあることを初めて認識したのだ。ジャングルに潜む敵は、人間を限りなく不安にさせる。生い茂る樹木の葉に遮られて敵の姿が見えないからだ。つまり、アメリカ人にとって「ジャングルの中での見えざる敵との戦い」は、トラウマになるほど恐怖に満ちた体験だったと想像する。彼らが未だかつて体験したことがない未知の恐怖。アメリカ兵が苦戦を強いられた「ベトコン」と呼ばれた南ベトナムの武装ゲリラは、彼らにとって神出鬼没の悪魔のような存在だったのではないか。ジャングルの中の悪夢。逆に言えば、それだけ「ジャングルの中での見えざる敵との戦い」という状況は、戦争を描く上で独創的な場所だったということである。

ベトナム戦争とはまったく関係がないSF映画「エイリアン2」や「プレデター」などにその悪夢は形を変えて描かれていると感じるが、それほどまでにベトナム戦争におけるジャングルでの戦いは、アメリカ人の心に強烈な痕跡を残したとは言えまいか。「ジャングルに潜む虎」ならまだ想像できる恐怖だが、「ジャングルに潜む敵兵」は、まったく新しい恐怖の対象になりうる。そんな恐怖を引きずった結果が、「社会生活に復帰できないベトナム戦争の帰還兵」という役柄を多く生んだ原因でもあるように思う。その恐怖は人間の精神を狂わすほどに決定的だったのだ。

※ジャングル。(「TABIZINE」より)
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2017-08-14 07:59:00

糟糠の妻

テーマ:エトセトラ
「糟糠の妻」と書いて何と読むかご存知だろうか?   答えは「そうこうのつま」である。次のような意味である。

●糟糠の妻
貧しい時から連れ添って苦労を共にした妻のこと。「糟糠」とは酒かすとぬかみそのことで、粗末な食事のたとえ。

わたしがこの言葉に出会ったのが何を通してだったかはまったく覚えていないが、非常に独特な言い回しなので覚えている。「酒かす」も「ぬかみそ」も、若いアナタは何のことかまるでわからないのではないか。かく言うわたしもよくわからない。しかし、「ぬかみそ」がどういうものか、一応は知っている。わたしが少年時代を過ごした家には「ぬかみそ」があったからである。

「ぬかみそ」は、台所の隅に置かれた容器の中に入っていて、その容器にキュウリやナスやカブなどを入れておく。一日くらい「寝かせて」おいて、翌日にそれを取り出し、「ぬかみそ」を洗い流した後、食べやすいように包丁を入れ、食卓に並べるのだ。いわゆる「ぬか漬け」である。「ぬかみそ」と呼ばれるその物質は、黄土色をした泥状のもので、汚い言い方で恐縮だが、人間の大便を思わせた。ツンと鼻を突く匂いがした。少年のわたしは、面白半分の気持ちで、何度か「ぬかみそ」を触ったことがあるが、それはネチョネチョした気持ち悪いものであった。つまり、かつて「ぬかみそ」は、日本のどの家庭にもある常備品だったのだと思う。

長年、連れ添った妻をなぜ「糟糠の妻」と呼ぶのか、不思議と言えば不思議だが、大元は中国の「後漢書」にある「貧賎の知は忘るべからず、糟糠の妻は堂より下ろさず(貧しい時からの友達は忘れるな、貧しい時から連れ添った妻は表座敷から下ろさないほど大事にせねばならない)」という故事に基づくらしい。だが、「糟糠の妻」と言われると、わたしは少年時代に触ったあの粘着質の「ぬかみそ」を思い出す。つまり、「毎日顔を合わせていてとるに足らないもの」というニュアンスが「糟糠の妻」にはある。だから、下手をすると女性蔑視と非難される用語にもなりかねない。もっとも、今時、家に「ぬかみそ」がある家庭はめっきり減ったと思うから、言葉と現実が乖離した言い回しだと思うが。

※ぬか漬け。(「VEGEO VEGECO」より)
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2017-08-13 10:05:00

帝国時代

テーマ:エトセトラ
「帝国」という言葉がある。戦後生まれのわたしには余り馴染みがない言葉だが、かつての日本は「大日本帝国」と名乗っていた。だから、この言葉は当時の日本人にとってごく身近な言葉であったにちがいない。わたしが「帝国」という言葉を知っているのは、「帝国ホテル」や「帝国劇場」や「帝国警備保障」という実在する場所や会社、「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」というような映画のタイトルを通してである。「帝国」とは、以下のような意味である。

1 皇帝が支配・統治する国家。
2 複数の地域や民族を含む広大な地域を支配する国家。(Wikipediaより)

どちらにせよ、「帝国」という言葉は「戦争」とセットになっているイメージがあり、戦後は表だって使われることが少ないように思う。なぜ「帝国」が「戦争」という言葉とセットになっているかと言うと、「皇帝」を守るには「戦争」も辞さないという考え方がこの言葉の背後にあるからであろう。また、「帝国」には、絶対的な独裁者がいて、人民はそれに従うしかないというイメージがあり、悪しき独裁国家のイメージが張り付いている。ヒトラー率いるナチス・ドイツは、その典型であろうか。

しかし、かつての日本人は、必ずしも悪い意味で「大日本帝国」という言葉を使っていたわけではないと思う。世界に冠たる国、あるいは、優秀な民族の住む国という矜持(きょうじ)を込めて、こういう名称を作り、自らそう名乗ったのだと思う。植民地を持つことが大国の大国たるゆえんであった時代、大上段にそのように名乗ることによって、近隣諸国に睨みを効かせたのだと思う――「日本をナメんなよ」と。単なる「"日本"帝国」ではもの足りず、「"大日本"帝国」と諸外国に対して見栄を張らなければならないくらい日本は追いつめられていたとも言える。世界の歴史を概観すると、それはそれで理解できないことではない。

今を生きる一人の庶民として、帝国の時代など二度と来てほしくはないが、疑いなく自らの国を「大日本帝国」と呼べた時代に生きた人々の愛国心は、わたしたちなどより断然に強かったのだろうと想像する。それは、武士が「誇りを捨てるくらいなら死をも厭わない」という精神に通じているのかもしれない。太平洋戦争に敗れ、わたしたちが得たものと失ったもの。国を深く愛し、誇りを持って生きると戦争を招き易く、国を省みず勝手に生きると戦争は回避できるが、誇りを失う。まったくどうにもならない二律背反である。

※大日本帝国海軍の軍艦旗。(「Wikipedia」より)
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2017-08-12 08:53:00

惨事と想像力

テーマ:事件・事故
眠れぬ夜に、YouTubeでよく見ている動画がある。2001年9月11日にアラブ系の過激派たちに乗っ取られたアメリカの旅客機がワールド・トレード・センターのビルに突入する場面である。すっかり昔の出来事のようにも思えるが、なぜかしらあの場面はわたしを強く引き付ける。ビルへ一直線に突き進むあの飛行機は、犯人たちの殺意そのものに見える。

1985年8月12日、日航機123便が群馬県御巣鷹山に墜落した。ネットの配信を通してわたしはあの事故のボイスレコーダーを何度も聞いている。コックピットで機長らが必死に機体を立て直そうとしているやり取りは、何度聞いても胸が締めつけられる。あの航空史上最悪の事故もわたしを強く引き付ける。垂直尾翼を失って迷走するあの飛行機は、人間の無力を嫌が上にも印象づける。

1912年4月14日、豪華客船"タイタニック号"が氷山に激突し、大西洋に沈没した事故もわたしを強く引き付ける。ネット上に「沈没動画」のようはものは存在しないが、この事故に関連する文章はたくさん読める。あの船には上流階級から下級階級まで様々な人々が乗っていた。"タイタニック号"は、当時の社会の縮図である。

こういうたくさんの人が命を落とす事件や事故にわたしが強く引き付けられるのは、怖いもの見たさの好奇心ゆえだとは思うが、飛行機のビルへの激突やら飛行機の墜落やら客船の沈没やら、そういうスペクタクルとしての凄まじさ以外に、さまざまなことを想像させられるからである。乗っ取られた飛行機内の人々はどんな気持ちだったのだろう?     墜落が始まった時、乗客たちが感じた恐怖はどんなものだったのだろう?   船が沈没することが決まった時、乗客たちはどんな気持ちだったのだろう?   そういう疑問と興味が次から次へと沸き上がってくるのである。

これらの事件や事故は、みな数百から数千人の犠牲者を出したものである。その分、様々な人や立場が存在し、その分、想像力も多く使うことになる。惨事は人間の想像力を刺激する。その元になっているのは、その死を想像することを通して、自分の生を確認したい欲求である。今日は日航機123便墜落事故から32年目である。

※日航機の墜落現場。(「Rakuten BLOG」より)
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