★新刊情報★

高橋いさを最新戯曲集

①『海を渡って~女優・貞奴』(論創社)

表題作に加えて朗読劇「父さんの映画」「和紙の家」(村松みさきとの共作)「母の法廷」の四編を収録。定価¥2000

2015年5月、全国書店にて発売中!

②『交換王子』(論創社)

マーク・トウェイン作「王子と乞食」を翻案した表題作に加えて、駆け落ちカップルの逃避行の顛末を私立探偵が回想するコメディ『旅の途中』を収録。定価¥2000

2015年9月、全国書店にて発売中!

③「I―note②~高橋いさをの演出ノート」(論創社)

1991年から2012年まで、著者か演出した舞台の稽古の際に俳優、スタッフに配られた演出ノートを公開する。定価¥2000(予定)

しばらくお待ちください。

★公演情報★

品川恵子一人芝居

「海を渡って 女優貞奴」

原作/高橋いさを
脚色/小嶋次郎
演出/大谷朗

●2016年7月17日(日)13:00/17:00

●三越劇場

2013年に初演した芝居の再演です。






























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2016-06-25 09:05:15

意訳の名人

テーマ:映画
先日のブログで言及した映画字幕翻訳家の高瀬鎮夫さんについて調べてみた。高瀬さんは以下のような経歴の人だった。

「高瀬鎮夫(1915年8月13日 ‐ 1982年10月14日)は、日本の映画字幕翻訳家、翻訳家。東京外国語学校英語科卒。洒落たセンスのある意訳を得意とし、清水俊二と共に1960年代半ば~1980年代序盤まで洋画字幕界の代表的存在だった。清水の著書『映画字幕(スーパー)五十年』によれば、清水が知っている英語の名手の中でも五本の指に入るほど有能だったが、酒が好きでそのために寿命を縮めたという」(Wikipediaより)

以下の意訳はみな高瀬さんの手によるものだということだ。

●「カサブランカ」でリック(ハンフリー・ボガート)が言う“Here's looking at you, kid.”を「君の瞳に乾杯」と訳した。
●「ジョルスン物語」での主人公の決め台詞 "You ain't heard nothin' yet!" を「お楽しみはこれからだ」と訳した。
●「ある愛の詩」の名台詞“Love means never having to say you're sorry”を「愛とは決して後悔しないこと」と訳した。
●「ゴジラ」を欧米向けに英訳するにあたりローマ字綴りの「GOJIRA」ではなく、欧米人にとってインパクトのある「GODZILLA」と表記した。

今さらながら「そうだったのか!」と思う。映画の名台詞として知られる上記の台詞の数々は、みな高瀬鎮夫訳だったのだ。意訳の名人。中でも「ジョルスン物語」の「お楽しみはこれからだ」は、和田誠さんが自著の書名にしてしまったくらいの名訳である。高瀬さんが字幕翻訳家として活躍した1960年代半ばから1980年代序盤まで、すなわち1970年代は、わたしが最も影響を受けたアメリカ映画の公開時期と重なる。それらはだいたい高瀬さんの翻訳だったわけだ。(そんな高瀬さんの珍しい散文の文章は「サブウェイ・パニック」の劇場プログラムにある) 現在、洋画のスクリーンに映し出される字幕は綺麗な書体だが、当時は手書き(!)の字幕であった。あのチカチカする独特の書体を懐かしく思い出す。


※「カサブランカ」(「サロン・ド・夢酒」より)
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2016-06-24 07:55:21

夢の東京

テーマ:演劇
「やっぱり東京だよなあ」と思う。何が「やっぱり東京だよなあ」かと言うと、上演される芝居の多さのことである。映画は東京でなくとも見ることはできるが、芝居は東京以外の場所だとなかなか見ることができない。「複製できない」という点が映画と芝居を大きく隔てる基本的な条件であり、大劇場から小劇場まで、毎夜、上演される芝居の多さは世界的に見ても東京は上位にランクされる大都市であると思う。いったいいくつの芝居が連日連夜、東京で上演されているのだろう?   活気がある状態を作るには、やはり人間の数がものを言う。

いかんともしがたいことだが、東京以外の場所で生まれた人はなかなか芝居に接する機会が少ないように思う。わたしは東京生まれだが、もしも若い時に芝居を見ていなかったら、決して芝居をやろうなどとは思わなかったにちがいない。つまり、芝居をやる環境として東京生まれは圧倒的に田舎町より有利なのだ。のどかな田舎町で芝居を上演することに意味はないとは思わないが、芝居はやはりごちゃごちゃといろんな人間がいる都会で上演してこそ、本来の特性(直接性とでも言おうか)を発揮できるものだと思う。

ずいぶん前にとある演劇祭があり、そこで東京をテーマにした芝居を作る機会があった。その時、わたしが作った芝居は「劇場」が舞台だった。東京という街を象徴的に表現するのに「劇場」という比喩はもってこいと思ったからだ。劇場に人が集まるように東京にも人が集まる。劇場で人々が夢を見るように東京で人々は夢を見る。

さて、そんな夢の東京。新たなる都知事はいったい誰が?


※夜の東京。(「RET RIP」より)
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2016-06-23 08:29:36

トラブル映画

テーマ:
「ワケありな映画」(沢辺有司著/彩図社)という本を読んだ。何らかのトラブルによって公開が中止されたり、社会的に問題視された映画をいくつも取り上げて論じた本。論じられる合計46本の映画のうち、わたしが見ているのは以下の11本。

●「時計じかけのオレンジ」
●「ブラック・サンデー」
●「ローズマリーの赤ちゃん」
●「タクシードライバー」
●「ポルターガイスト」
●「トワイライトゾーン/超異次元の体験」
●「太陽を盗んだ男」
●「地獄の黙示録」
●「愛のコリーダ」
●「トラ・トラ・トラ!」
●「エクソシスト」

面白い切り口の映画論である。わたしは映画監督ではないので、映画作りの大変さを身をもって知っているわけではないが、一本の映画を作り上げるには相当な労力を強いられるであろうことは想像できる。順調に撮影が進んでも大変であろう映画作りにおいて、さらなる苦難が襲いかかったトラブル映画の数々。さまざまなケースがあるが、やはり最悪なのは「撮影における死亡事故」であろう。本書で扱われる映画では「トワイライトゾーン」と「東方見聞録」(未見)がそのケースに当たる。「トワイライト~」で亡くなったのはヴィッグ・モローと少年二人である。撮影時に墜落したヘリコプターの羽に巻き込まれて亡くなったのだ。「東方見聞録」では、甲冑をつけたエキストラの俳優がセットの滝壺で溺死したという。観客を楽しませるために作る映画の撮影において、人が死ぬ事故が起こるとは何とも悲しいことである。

事実は小説より奇なり。これらの映画の製作現場には、それぞれにその映画の内容を上回る人間ドラマがあるのかもしれないと思う。


※同書。(「Amazon.com」より)
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2016-06-22 08:42:11

高潔と低劣

テーマ:ドラマ
世の中には低劣な人間もいるが、高潔な人間もいる。高潔とは以下のような意味である。

【高潔】
[名・形動]人柄がりっぱで、利欲のために心を動かさないこと。また、そのさま。「―の士」「―な人柄」

大学病院を舞台にした権力闘争ドラマ「白い巨塔」(山崎豊子原作)は、欲に支配された低劣な人間たちを描くドラマだと思う。主人公の財前五郎(ざいぜんごろう)を低劣と呼んでいいのか、ちょっとためらうが、彼は野望に燃え、権謀術数のすべてを使って権力の座を手に入れようとする。金にも女にも汚い。しかし、だからこそ人間的であるとも言え、わたしたちの心のなかにあるそういう欲望と共鳴し、感情移入を誘う魅力的な人物であると思う。それに対して同僚の里見脩二(さとみしゅうじ)という医者は財前五郎とはまったく対照的な人物として造形されている。彼は権力欲とは無関係に患者の健康回復を第一に考え、真摯に医療に取り組む。妻を愛し、子供を見守るよき家庭人でもある。こちらはこちらでわたしたちの心のなかにある善良さと共鳴し、感情移入を誘う。「白い巨塔」はこのような医療をめぐる対照的な二人の医者の姿を基本的な対立軸として描くドラマである。

ふと、わたし自身は高潔か低劣かを思案する。この場で「わたしは高潔です!」などと主張するつもりは毛頭ないし、リアルに自分の生活を省みれば、低劣の方にかなり寄っているようにも思う。しかし、願いとしては「高潔な人間でありたい」とは思う。高潔という言葉の意味を改めて調べてみたのは、その言葉があることによって人間は理想を持つことができると思うからである。高潔という言葉とその意味を知らない人は高潔になりようがないではないか。


※ドラマ「白い巨塔」の財前五郎(唐沢寿明)と里見脩二(江口洋介)。(「Y!ブログ」より)
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2016-06-21 07:49:17

会話とアクション

テーマ:演劇
会話劇とは、登場人物たちの会話が主体となった劇を指し示す言葉である。それに対して登場人物たちの会話ではなく動きが主体となっている劇はだいたい「活劇」と呼ばれる。踊りや音楽の要素がある劇は「舞踊劇」とか「ミュージカル」、剣殺陣(たて)を中心にした劇は「時代劇」と呼ばれるが、これらはみな様式性に重きがかかる。

演劇という表現形式は、映画のように自由に時間や空間を飛ばせないので、どうしても会話主体に物語を書かざるをえないところがあるが、演劇において様式性に重きを置かない動きが完全に物語の主体となる稀有な例がある。マイケル・フレインの書いた舞台劇「ノイゼーズ・オフ」である。日本でも何度か上演されているが、わたしは映画化されたもの(「カーテンコール~ただいま舞台は戦闘状態」1992年)を見た。この芝居は卓抜したアイデアの芝居である。三幕構成によるこの「爆笑コメディ」は、とある舞台劇をめぐるキャストとスタッフの舞台裏を描いたものだが、第一幕はリハーサルを、第二幕はその舞台裏を、第三幕は舞台そのものを描く。第一幕と第三幕は台詞があるが、第二幕は上演中の舞台の裏側で巻き起こるてんやわんやを台詞を一切使わずに(!)描くのだ。人々はゼスチャーと行動だけで自分の意思を相手に伝える。

動きの面白さに重点がかかったコメディのことを「スラップスティック・コメディ」と呼び、状況の面白さに重点がかかった「シチュエーション・コメディ」と区別するが、「ノイゼーズ・オフ」はまさに前者のテイストである。演劇も人間が演じる以上、会話ではなく動きを主体にした芝居があっておかしくないのだが、わたしが知る限り「ノイゼーズ・オフ」を上回る動き中心の芝居はなかなかないように思う。


※「ノイゼーズ・オフ」(「rakutenSHOWTIME」より)
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2016-06-20 07:14:10

運転者の台詞

テーマ:映画
刑事アクション映画「フレンチ・コネクション」(1971年)における高架線の上を走る列車と車の追いかっこはつとに有名だと思うが、今日はその場面に関する非常にマニアックな話である。主人公のドイル刑事(ジーン・ハックマン)は自分の命を狙った殺し屋を猛然と追う。彼は列車に乗り込んだ殺し屋を追跡するために、高架下を走る一般市民の車を有無を言わさず奪い、犯人の追跡を続ける。訳がわからず車を奪われた運転者とドイル刑事の会話は以下のようなものである。

●高架下の二車線道路
ドイル、車を止めようとする。
しかし、その横をすり抜けていく車。
と、反対車線に一台の車が走ってくる。
その車の前に立ちはだかり、両手を振って止めるドイル。急停止する車。
ドイル「警察だ。貸せ」
運転者を外に出し、車に乗り込む。
運転者「いつ返す?」
ドイル、それを無視して車を発進させる。
道路に取り残される運転者。
運転者「ひでえな」

以上はわたしの所有するDVDの字幕(佐藤一公訳)である。しかし、わたしが劇場で本作を見た時の運転者の台詞は「ひでえな」ではなかった。

運転者「泥棒かよ」

翻訳は高瀬鎮夫さんである。なぜこの翻訳をわたしが覚えているかと言うと、劇場公開時にこの台詞で観客が笑ったからである。確かに「ひでえな」だと笑えないが「泥棒かよ」ならちょっと笑える。わたしが聞く限り、運転者は「クライスト・シット(Christ shit)!」と言っているのだが、「ホーリー・シット(Holly shit)!」と似たような俗語なのだと思う。直訳すれば「ふざけんな!」ということか。それを「泥棒かよ」と訳した高瀬さんの翻訳は、非常に遊び心があると思う。思えば、わたしが熱中した1970年代のアメリカ映画は、ほとんど高瀬訳であった。


※同作のカーチェイス場面。(「Y!ブログ」より)

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2016-06-19 07:32:00

金の亡者~「マネーモンスター」

テーマ:映画
先日、公開されて間もない「マネーモンスター」(2016年)を映画館で見た。ジョージ・クルーニー、ジュリア・ロバーツ共演の犯罪サスペンス映画。監督はジョディ・フォスター。  

人気の財テク情報番組「マネーモンスター」の生放送中、一人の暴漢がスタジオに侵入する。彼は銃を手に司会者を人質にして、視聴者に怒りをぶつける。彼は司会者の言葉を信じたがゆえに株式投資に失敗し、破産に追い込まれたプア・ホワイトだった。彼は司会者に謝罪と暴落の原因を問う。警察当局を尻目に女性ディレクターは事の収束に尽力する。そして、件の株価の暴落がなぜ起こったか――その驚くべきからくりが徐々に明らかになる・・・。

わたし自身が株式投資に関する知識がもっとあれば、興味深い背景の映画だとは思うが、恥ずかしながら株式投資に関して無知である。ゆえに株価暴落の理由がキチンと理解できないまま見終わった。それはさておき、事件発生から結末までの緊迫した状況を時間軸に沿ってスピーディーに描いていくジョディの手腕はなかなかのもの。決して女優の余技でないしっかりとした監督ぶりである。まあ、最後に貧富の差が激しいアメリカ社会の現実に対する苦味がもっとあれはいいのにと思ったけれど。

テレビの生放送中の犯罪サスペンス映画と言って思い出すのはシドニー・ルメット監督の「ネットワーク」(1976年)だが、ダスティン・ホフマン主演の「マッド・シティ」(1997年)なども連想した。これらは視聴率というモンスターに翻弄されるテレビ局の人々を皮肉に描いた作品だが、本作の焦点は視聴率ではなく、株式投資という社会公認のギャンブルに血道を上げる人々への皮肉、あるいは資本主義社会における拝金主義の愚かさへの批判であるように感じた。そういう意味で「マネーモンスター」(金の亡者)とは、現代社会を象徴するいいタイトルだと思う。



※同作。(「映画.com」より)
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2016-06-18 08:54:00

性と愛の日本語

テーマ:
「性と愛の日本語講座」(小谷野敦著/ちくま新書)という本を読む。「恋人」「デート」「セックス」「ラブホテル」「情欲」「告白」「情事」「好色」・・・男女の性と愛に関する日本語が、どのように生まれ、どのように使われ、どのように変遷してきたかを、さまざまな文学作品を引用しながら考察した興味深い一冊。

「江戸期には恋愛関係にある相手のことは、「情婦」「情夫」と書いて「いろ」と読ませるのが一般的だった。(中略)「恋」もまた、徳川後期には遊郭で娼婦相手のそれを指すようになっていたため、素人娘を相手とする「恋愛」という言葉が発明されたのである」

確かに「恋愛」という言葉には近代の匂いがする。

「 デート」がかつて「逢い引き」と呼ばれたのは知っているが、「ランデヴー」と呼ばれた時代もあったことにはちょっとびっくり。わたしが「ランデヴー」という言葉を知ったのはリチャード・ハリス主演の海洋冒険映画「黄金のランデブー」(1977年) という映画のタイトルを通してだが、この言葉が実際に男女のデートを示す言葉として使われていたとは。日本語としては、いかにも大袈裟な言葉である。 

ところで、裁判を傍聴していて興味深いのは、性犯罪がらみの事件において、検察官が使う「性と愛の日本語」である。法廷では以下のような言葉が使われていたりする。

検察官「そこで情欲をたぎらせた被告人は、ズボンから陰茎(いんけい)を取り出し、被害者の背後から襲いかかり、同女の臀部(でんぶ)を両手で掴み、姦淫(かんいん)に及んだものである」

小谷野さんには第二弾「性と愛の日本語講座・法廷編」をお願いしたい。 


※同書。 著者はわたしと同世代。  
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2016-06-17 07:30:36

母の願い~「約束」

テーマ:ドラマ
テレビで放送されていた「約束~名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯」(2012年)というドキュメンタリー・ドラマ(東海テレビ製作)を見た。1961年に三重県で起こった「名張毒ぶどう酒事件」を描くもの。主人公の奥西勝死刑囚(昨年他界)を仲代達矢、その母を樹木希林が演じる。「名張毒ぶどう酒事件」とは以下のような事件である。

「名張毒ぶどう酒事件とは、1961年3月28日の夜、三重県名張市葛尾(くずお)地区の公民館で起きた毒物混入事件。5人が死亡し、「第二の帝銀事件」として世間から騒がれた。容疑者として逮捕・起訴された奥西勝は死刑判決が確定していたが、冤罪であるとの主張と、支援者らによる合計9回にわたる再審請求、再審請求中は刑の執行が行われないことから、死刑判決確定後、死亡するまでの43年にわたり確定死刑囚のまま収監され続け、刑が執行されることなく89歳で獄死した」(Wikipediaより)

ドキュメンタリー・ドラマと書いたのは、完全なドラマ形式のものではなく、奥西死刑囚を支援する弁護団の弁護士たちが実名で登場し、再審請求の結果に一喜一憂する姿が描かれたりするからだ。作り手は、奥西冤罪の視点から主人公と母親の母子愛を主軸に物語を構成している。主人公が口ずさむ歌が「瞼の母」だったりして、ハッキリ言って作りは非常に「ベタ」なのだが、わたしはこういう話に弱い。夫に先立たれ、一人息子の冤罪を信じて獄中の息子に手紙を書き続ける老いた母親の小さい後ろ姿などを見ると、涙が込み上げてくる。(なぜならわたしの母を想像するからだ)もっとも、こういう話に弱いのは必ずしもわたしだけではなく、母親を持つ息子なら誰しも弱いのではないか。

獄中に囚われて実に54年!   冤罪の証明の戦いは奥西死刑囚が亡くなった今もまだ続いているという。


※奥西勝死刑囚。(「news鹿」より)
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2016-06-16 08:14:27

人間はミスを犯す

テーマ:エトセトラ
本を出版した経験がないとなかなかわからない感覚だと思うが、出版した戯曲集の誤植を発見した時は、ちょっと絶望的な気分になる。なぜなら、それはすでに製本されて書店に並んでいるからである。大袈裟に言えば、作者にとってそれは紛れもなく「欠陥商品」であり、不本意ながらそれを世に出してしまった後悔の感情がむくむくと沸き上がるのだ。こんなことを言うとナンだが、わたしの戯曲集には誤植が多い。そのすべての責任は作者であるわたしにあると言っていいが、校正段階では完璧だと思っているのだから仕方ない。

人間はミスを犯す。これは未来永劫、普遍的な真実であろう。人間の犯すミスが誤植くらいなら大したことはないが、人間の生命に関わるようなミスは簡単に見過ごせない。例えば医療ミス、例えば運転ミス、例えば原発の運営上のミス。これらはミスがあることで人間の命を奪う場合がある。だから、これらの分野に関わる人たちは、慎重し過ぎるくらい慎重に事に当たらなければならない。そして、万が一こういう分野の人たちがミスを犯した場合、その後悔の感情はわたしが誤植を発見した時のそれどころではないであろう。

とそんなことを書いておいて言うのもナンだが、芝居の作り手として考えると、人間はミスを犯すから面白いとは言える。機械のように正確な人間というものは、芝居(ドラマ)の登場人物としての魅力に乏しい。考えようによれば、すべての芝居(ドラマ)の主人公は、何らかのミスを犯した人間なのであり、その顛末を語るのが芝居(ドラマ)を書くということでもあるのだから。「白い巨塔」の財前五郎がもしも医療ミスを犯さなかったら、あのドラマはまったく面白くはないはずだ。


※「淑女のお作法」(論創社)の役名の誤植。「伊吹」ではなく「吾郎」が正しい。
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