再再掲:第三百九十八夜・ジョセフィン・ベイカー様 | 時は止まる君は美しい

時は止まる君は美しい

巡りあった美しい人達の記憶を重ねます・・・
B面ブログ「扉・鎧戸・宵の口」も始めました。

2015年6月7日

2021年3月30日再掲

 

 

 

めっちゃかっこいい。

そして、恐らくご本人が罪とも思わず犯した罪は大きい。

ジョーン・クロフォード様然り、この時代から始まった因習?

スタアの養子となって、苦しむ方々は今もまだ続いている。

シャロン・ストーン様のお家みたいに、

まるで違和感なく「家族」になってらっしゃるお家も、

もちろん、あるのだけれど・・・

 

 

 

 

でも、批判というものはするのは簡単。

走り続ける為にご本人が使い続けた熱量の存在に頭は下がります。

 

生きる・愛する・表現する・愛を表現する

「黒いヴィーナス」と呼ばれた人。Josephine Baker(ジョセフィン・ベーカー)様。

1906年6月3日~1975年4月12日、享年68歳。

アメリカ、セントルイスで私生児として生まれ、貧困の中で育ち、13歳で結婚。

数週間で家出。15歳の頃再婚されたお相手の姓、ベーカーを、1925年の離婚後も使用。

フランス語読みだと、「ジョゼフィーヌ・バケル」というような発音になるそうです。 

何故、ここでフランス語読みを書こうと思ったか、1937年、フランス国籍を取得されたから。




 

16歳、フィラデルフィアにて舞台デビュー。その後ニューヨークへ。

巡業中のボードビル・グループに参加。ミュージカル・コメディ等の経験を積み、

黒人レビューグループ「The Cholocate Dandies(チョコレート・ダンディーズ)へ。

ニューヨーク公園の後、フランスへ。1925年10月2日。巴里、サンジェルマン劇場にて、

「レビュー・ネグロ(黒いレビュー)」に参加。

始めて、チャールストンを目にした、巴里は熱狂し、賛美の言葉を捧げる。

その後、ブリュッセル、ベルリンでも公演。  






 

ちょっとだけ動画?かの有名な「バナナ・ダンス」1926~27年、フォリー・ベルジェールの花形。

 


 

 

この方を拝見していると、美空ひばり様、越路吹雪様、淡谷のり子様といった、

芸に生きることが、生まれた時から決まっている人は存在するのかもしれない、と思います。

育ちはそれぞれ。淡谷のり子先生は、お嬢様中のお嬢様だし。 




 

ジョセフィン様は、貧困の中から、流れるように舞台へと。

芸術を受け入れるに関して、世界一?のお巴里での成功。ヨーロッパ制覇。

アフリカ系アメリカ人女性として初めて、貴族の称号も。

そして、1926年には、舞台関係者の男性とご再婚。  





 

しかし、ジョセフィン様にも、母国アメリカの人種差別の壁は、成功すればするほど厚いものに。

1936年、「ジークフェルト・フォリーズ」のメンバーから外され、私生活にも恵まれず、

1937年、フランスの市民権を取得することに。

ふと思い出したのが、戦争犯罪の責任を押し付けられ、1955年、フランスの市民権をとられ、

あちらに永住された、藤田嗣治様。フランスは、長い時代、芸術家の最後のよりどころだった。

ナチスに迫害され、アメリカに・・・という人々も多いですが、 

こと、芸術の神の元においては、「人種」を問わなかった国ですね。(一般論はまた別。)








 



 

第二次世界大戦に於いては、レジスタンス運動に参加されておられます。

飛行士の資格まで取得し、中尉になられたというから、筋金入り。 

生きること自体が、生まれた時から闘いでもあった人の行動力と言えるかも。






 

フランスに定住しながら、1950年代、アメリカの公民権運動にも参加。 

1951年、ニューヨークのナイトクラブで、入店拒否を受けたジョセフィン様が、

講義する姿を、女優・グレース・ケリー様がご覧になり、初対面にも関わらず、

一緒に店を出て、ご自分のパーティーが終わるまで、店に入らなかったという、

「ストーク・クラブ事件」は有名で、モナコ公后となられた後も、お二人の交流は続いています。


 

           

 

どうも、離婚・結婚も、お忙しかったようですが、そこらへん、よく解らない。(ご結婚6回) 





        

 

前述、公民権運動(人種差別撤廃運動)には、ずっと関わり続けておられ、

1963年、マーティン・ルーサー・キング牧師のワシントン大行進にも、参加。 


 

 

一方で、国籍を問わない、というか、問わないことにこだわる、

世界中から養子をとって「虹のこどもたち」を持たれ、髪の色も、目の色も、こだわらない、

民族、国境を越えたファミリーを築こうという理想を追われた事も有名。 

12名のお子さんを引きとられ、フランスの古城でテーマパークをお造りになられた。

 

 

その「長男」となられたのが、1954年、来日された時、旧知の仲だった、澤田美喜様が、

お創りになったエリザベス・サンダースホームから、引き取られた二人のお子さんの一人、

アキオ・ブイヨン様。このお方が、ご自分の経験を、本にされておられます。(後述)

アキオ様を引き取られた時の日本公演の収益から、多額の寄付もされておられます。

 

 

 



 

最近、友人と話をしたのですが、親から、愛情の示し方を上手く経験させてもらえなかった時、

人は、自分がそれに悩んだというのに、自身も、愛情の示し方が下手になるのでは?と。




 

ョセフィン様の人生も、理想は別として、そういう面を持っていたのではないだろうか?

と考えてしまいます。ご結婚が6回、とかは、宗教観もあるのか?あの頃の芸能人の方々、

全く珍しくはないので、基準にはならない??? 

しかし、アキオ様のご経験から、ジョセフィン様が望んだのは、思い通りになる「天使」としての、

子供たちであり、成長に伴い、生まれて来る個々の個性は否定され、

エキセントリックな母親の押しつけの元、苦い経験をされ続けたと書かれています。


 

 

ジョセフィン様が創られたテーマパークというのが、どういうものだったのかは???です。

しかし、当然、採算が合わなくなり、窮した所を救ったのが、モナコ公妃になられていた、

グレース・ケリー様。一旦引退して、またカムバックをされたりされていらしたジョセフィン様、

その後は、経費意地の為、完全カムバックされておられる。 

 




        


         

 

スターであり続けた為、金銭感覚が欠如されていらしたようです。

まあ、「スター」って、そういう、傲慢さやどんぶり勘定さがあって、

「そうだろう、そうだろう」って感じもしますが、周囲の人間は振り回されて大変でしたろう。

そういう意味でも、アキオ様に苦い記憶が堆積されたのも、解る気が。

実際にマリア様の如くであれば、自らをマリアになぞらえはしないと思いますからね。

志す所が崇高なものであっても、現実、長所も欠点もある一人の人間。

経済的以外にも、精神的問題がどれだけあったか、想像はつくというもの。




   

 

それでも、とにかく人生において、ご自身の理想を追い求め通したジョセフィン様。 

 



 

「ジョセフィン・ベイカー」という、一世紀以上前に生まれた女性。 

そのエンタテイナーとしての名が、現代まで語りつづけられるほどの存在感、個性。



         

 

それほどの人生の幕が下りたのは、芸能生活50年を祝うステージの、初日公演。

拝読した資料によって、開幕前とか、幕が下りた後とか書かれているので、

どちらか解りませんけれど、脳溢血での昏倒、そのままご永眠と、

見事に、芸人としての人生を全うされた、ひとりの女性でありました。