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頭蓋

 目の前にいる男の二十年前を思い出していた。目はくりくりとして可愛らしくさえあった。天然巻の長髪とすっきりしたアゴのラインが女性たちを虜にしたものだ。
 それが今はどうだ。どこにアゴのラインがあるのかもわからない。額はすっかり広がって、あれだけ澄んでいた瞳は黄色く濁り、目の玉がクリクリではなくギョロギョロ動いている。この男の妻を思うと、ただ気の毒でしかない。

「……ですからね。いっそのこと消してしまったら楽になると思って。それで手術っていうんですかね。受けようかどうか。まあ迷ってるわけですよ」
 えっ? 手術? 後輩の変わり果てた風采に気を取られるばかりで、話をまともに聞いていなかった私は、捨て置けないその語感に反応した。
 手術って、おまえ、なんか悪いの? 夢からようやく覚めたような素振りの私を軽く睨んでから後輩は続けた。
「ですからね、嫌なことばっかりなんですよ。ここのところ毎日。まあ、仕事もそうだし、家でもそうです。最近、スタートしたプロジェクトは何が目的なのかもはっきりしないし、いつ予算が打ち切られるかもわからない。おまけに、上役なんてまともに説明も求めてこないですから」

 後輩は誰でも知っている大手企業の管理セクションに身を置いている。大学を卒業して以来、辞めずに務まっているのだから、きっとそれなりに評価されているのだろう。ところが、久しぶりの再会から1時間というもの、ほとんど愚痴ばかりだ。いわゆる中間管理職として板挟みに苦悶しているのだろうが、こちらが聞き流したくなる愚痴っぷりなのだ。
「だいたい先が見えないことばっかりですよ」
 投げやったように後輩が言う。しかし、どこの世界で先が見えるというのか? それを返しても無駄であろうから、ただ黙して聞くしかなかった。
「ところがですよ。いつ打ち切られるかわからないプロジェクトなのに、人だけは何だかアサインしてくるわけですよ。もしかしたら、これはリストラ用のプロジェクトを偽装してるんじゃないかと思うんすよ」

 いよいよ、後輩の目つきがあやしい。いくら企業が巧妙にリストラを画策しようとて、わざわざ偽のプロジェクトを仕立てるなど考えにくい。ましてや、後輩が属する企業は、私が知る限りイギリス貴公子並みに上品なのだ。
「まったく先を考えると、嫌なことばっかりですよ。最近、プロジェクトに加わった社員は組織に要求するばかりでロクな働きもしない。たぶん、上司は僕にヤツのマネジメントを押し付けて、うまく辞めさせたら評価して、働きが悪ければ僕のせいにするつもりなんだ。そうじゃなきゃ、あんなヤツを……」
 あんなヤツがどんなヤツなのか、こちらには見当もつかないが、とにかく後輩にとっては耐え難いことなのだろう。上司が部下の手柄を取り上げ、失敗をなすりつけることはどんな会社でも起こりうることだ。これについては、妄想だと断じるわけにはいかなかった。

 でもな、お前、そんなに思い詰めなくっても、どうせプロジェクトはなくなるんだからテキトーにやっておけばいいじゃないかと差し挟んだ。
「いいですねえ、経営者は」
 すっかり全部をあきらめたように吐き捨てる後輩。思い直したように向き直って話を続けた。
「テキトーになんてできるわけないじゃないですか。こっちはサラリーマンですよ。いくら組織がリストラのために仕立てたプロジェクトでも、一生懸命やらなきゃ、いつ飛ばされるかわからないんですよ。地方にでも飛ばされたら、もう立ち直れないっすよ。営業なんか二度とやりたくないし」
 後輩の会社は伝統的大企業だが、確かに前線はなかなか競争的だ。営業の最前線で経験を積み、やがて本社勤めになり楽をするというのが、この会社における憧れのジョブローテなのだ。目の前の男はどうにかそのローテに乗っている。
「ですからね。プロジェクトが失敗ってことで終了になったら、僕の次はないんすよ。だから、それを考えると、もう気分が滅入って……毎日を過ごしていく自信がなくるんすよ」

 おまえ、うつ? 言いかけた言葉を何とか飲み込んだ。もしも後輩がウツなら、これ以上の反論は余計でしかない。私はただ耳を傾けるだけに集中しようと努めた。
「それで、あの先生に診てもらったってわけですよ。そうしたら、結構、言うことに筋が通ってる。人間の心配事のほとんどは実現しないって。それなのに悩むのは遺伝子的にプログラムされちゃってるからだって、そう説明されましてね」

 虚ろだった男の瞳に少しばかり生気が戻っている。どうやら、その先生とやらは、この男に希望らしきものを提示したようだ。
「扁桃体ってところに心配事が記録されてるらしいんですよ。そこは一時的な記憶の保存場所なんですけどね。要は当面する課題が多い時に、扁桃体がしっかり働くわけですけど、こいつがどんどん危機感を煽るらしいんです。つまり、人間が捕食されてた当時のプログラムが動くんですよ。周囲の環境が不穏な状態だと、それに反応して脳が危ないぞ、危ないぞって知らせるわけです。そりゃ、捕食されちゃう当時は、そうでなきゃ実際食われちゃったわけだから、正しいプログラムだったんでしょうねぇ。でも、人間が捕食されなくなった現代では、起きることもない心配事で人類は悩んでるってわけです」
 なるほど、確かに我々人間は出もしないお化けに怯えるということがよくある。だいたい不確実性の時代などと言うが、一体いつ確実な時代があったというのか? 人間、おかしなことを言うものだが、これも前史時代の遺伝子ゆえかもしれない。危機意識という名の強迫観念は人類共通に植え付けられたプログラムなのだ。
「それでまあ、治療を勧められたんすけど。どうも、最後の最後にビビっちゃって」

  彼が勧められた治療とは扁桃体の活性化を妨げ、逆に右脳の側頭頭頂接合部の活動を高める処置だ。それには、脳の特定部位に直接パルスを当てることのできるTMSー経頭蓋磁気刺激ーなるものが使われるという。
「扁桃体の動きを抑制すると余計なことを忘れられるらしいんですよ。でもって、右脳の側頭頭頂接合部を刺激すると、自他の区分が活性化して、自分勝手になれる。それで、先行きをいちいち考えなくなるってわけです。まあ、自分を騙すみたいなもんなんすかねえ」
  いい話じゃないか。それで、お前の気分が楽になるなら最高だ。そう、後輩に返すのだが、本人は今一つ浮かない。
「扁桃体は一時保存の場所ですけど、記憶とも蜜に連携してるんですよ。となると、もしかしたら、僕にとって大事な記憶も飛んじゃうかもしれない……そう思うと躊躇するんすよ」
  何を今更たわけたことを。無い物ねだりも大概にせえよと言いたくなった。
「いやぁ、怖いんすよ。子供たちのこととか、やっぱり大事だし。そういう思い出まで奪われるのは辛いじゃないですか」
 おまえ、一体どっちがいいんだ? つまり、先行きに怯え、出もしないお化けにヒビって生きるのと、お前のそのチンケな記憶とやらを持ち続けるのと? これは未来に生きるか、過去に生きるのかの選択だよ! 自分の指摘がはまり過ぎていることに酔った。後輩は黙ったまま俯いている。
 おい、しっかりしろよ! そのなんチャラいう先生を信頼したらいいじゃないか? その治療をやったからって、記憶が飛ぶとは限らないだろう? 後輩は何やら不満を抱えた様子のまま憮然としている。やがて、向き直るとギョロッとした目でこちらを見つめた。わずかだが、後輩の唇が震えている。

「だけど……あの先生、あなたが紹介してくれたんすよ」