「生まれては苦界 死しては浄閑寺」の言葉が意味するもの | 中下大樹のブログ

「生まれては苦界 死しては浄閑寺」の言葉が意味するもの

吉原・泪橋視察ツアーで三ノ輪駅近くの投げ込み寺・浄閑寺を訪問。


募集要項↓

http://ameblo.jp/inochi-forum/entry-11799538643.html


かつて、吉原遊女が梅毒などの性病で亡くなったりすると、この寺に「投げ込まれる」ようにして捨てられたと言われています。


そのお墓がこれ↓





   石碑に刻まれた言葉  「生まれては苦界 死しては浄閑寺」



墓石横の地面のあちこちから、ニョキニョキと突き出た遊女たちの剥き出しの骨にただただ愕然・・・


分かっているだけで、この寺には約2万人の遊女が眠っています。


このお墓に来るたびに、私には、亡くなって逝かれた何万もの遊女たちの悲痛な叫び声が聞こえてきます。


霊感は強い方ではないのですが、思わず、「あちら側」からの叫び声に、思わず引きずられそうになります。


しかし、不思議と「怖い」という感覚はありません。


私には死んで逝かれた遊女が、どんな気持ちで死んで逝ったのか?その気持ちを知りたいとは思いますが、分かりません。


ですが、なぜか遊女たちにシンパシーを感じてしまう自分がいて、この場所に来るたびに非常に精神的に疲れるのですが、今、自分が生きていることを強く実感します。


死に触れて生を感じます。


この寺の住職さんによれば、「雨が降るとリンが燃えて、墓地のあちこちで青い火がともる」とのこと。


そして、ひとり静かに、「この苦渋に満ちた世界で生まれ、家庭の事情から売られ、そして吉原に流れ着き、散々、弄ばれた挙句、この寺に捨てられる人生ってどんなものだったのだろうか?」と想像します。


遊女の一生↓

http://home.a05.itscom.net/hotaru/page168.html


(引用)


「当時、遊女が苦海から抜け出る方法は三つしかなかった。


一つは年季奉公を勤め上げた、いわゆる「年明き」で遊女から足を洗う場合。


二つ目は、金のある客に見初められて「身請け」される場合。


そして三つ目が死んだ場合」


(引用終)


プロ野球選手になりたいと思う子供は多い。


しかし、大多数はプロさえ行けず、例えプロに入っても、大活躍できる選手はほんの一握り。


同じように、吉原遊女の中でも、大多数は「身請け」すらされず、大人の男たちの欲望の捌け口にされ、使い捨てにされ、死んで逝ったと思われます。


※お寺の過去帳によると、亡くなった遊女の平均年齢は22歳前後。つまり十代半ばで親から売られ、二十歳そこそこで病気になり、捨てられたようです。


また、吉原に詳しい人の話によると、この投げ込み寺こと浄閑寺に投げ捨てられるのはまだ良い方で、近くの川に捨てられることもかなりあったとのこと。


どのように飾られ愛でられようと、望んで売られるはずはありません。戸籍も名も全て消されて、最後はすべて剥かれて菰1枚にくるまれて、ゴミのように捨てられる人生・・・・。


江戸時代の遊郭は「江戸文化の華」と言われていたらしいけど、その実態は造花のような見せかけの世界に過ぎなかったのかもしれません。




私は墓前で、ただただ合掌し、頭を下げる。それしかできない。いや、それくらいならば出来ると言うべきか。


それは東北の被災地でも同じこと。


自分の無力さを痛感しつつも、死者を弔う事を忘れず、死者と共に生きていく。


このちっぽけで、鼻くそみたいな自分の人生を見つめつつ、限りあるいのちを生きていく。


いつかお迎えが来るその日まで、自分の弱さも汚さも見つめながら生きていく。


それが今の私に出来ること。


一日一生