「早くお迎えが来てほしい」の言葉の裏にあるもの | 中下大樹のブログ

「早くお迎えが来てほしい」の言葉の裏にあるもの

単身の高齢者で、自殺願望がある方の見回りをしている。孤独死予防も兼ねて。


月に2~3回は訪問している。最悪、孤独死をしていても、10日以内で見つけられるように。


実際、ある方の家に訪問した時、「隣の部屋から変な匂いがする」という声を聞いた。


長年の勘で、警察を呼んで中に入ると、案の定、死後1ヶ月の遺体が・・・・現場はウジやハエがたかって凄いことに・・・・腐乱死体との対面は、もう数え切れない。


そのような経験はいくらでもある。


ちなみに、その孤独死が起こった部屋は、まだ新しい部屋の借り手は見つかっていない。大家さんの立場から見れば、大きな損害である。


話を戻そう。


先日、80代女性、(仮にTさんとしておこう)単身で生活保護を受けている方の家を訪問した。


トイレ共同、風呂なし、六畳一間で、万年床。


家族とのかかわりは、当然ない。子どもはいるが、音信不通。子どもに金をむしり取られたことを、未だに悔やんでいる。


隣近所との付き合いもない。もちろん、隣のアパートの部屋の方の名前も知らない。以前勤務していた会社の人とも、退職と同時に縁は切れた。


一日に一言も言葉を発しない日がほとんど。一日中、万年床の布団の中で、天井を眺めている日もあるそうだ。


風呂にはもう数か月入っていない。タオルで体をふくだけ。洗濯物は、共同の流しで手で洗う。コインランドリーに行くお金がないのだ。頭はボサボサで、認知症も少しある。


その女性Tさんが、私にこう言うのだ。


「朝、目が覚めると、まだ生きている!早くお迎えがこないかな」と。


その言葉の背景にあるものは、何だろうか?


①誰からも必要とされていない→孤立感


②自分の存在が迷惑になる→疎外感


③早く楽になりたい→消滅願望


どれも当てはまるような気がする。


私はTさんの言葉をそのまま受け止めた上で、Tさんに聞く。


「こんな話は縁起でもないけど、Tさんは自分が部屋で一人で亡くなったら、誰かに知らせたい人はいる?死後の葬儀や納骨はどうしてほしいの?」


するとTさんは「その辺に捨ててくれればいい」と言う。私は内心、イラッとしながらも、それを言わず、黙ってその言葉を受け止める。


全てが投げやりなのだ。もうこんな会話が数年続いている。


しかし、私が訪問すると、時々笑顔を見せる。やっぱり誰かと会って話をしたいのだ。誰かと繋がりたいのだ。




少し、冷静に考えてみる。社会を見渡すと、Tさんは、社会の中で特殊な人で、特殊な状態の人なのだろうか?


私にはそうは思えない。


今まで私は、数百人の末期がん患者さんの臨終(看取り)に立ち会ってきた。


2000件を超える葬儀にも立ち会ってきた。私に依頼する人は、生活困窮者が多いので、「直葬」といって、通夜告別式を行わない火葬のみのスタイルが大半だけど・・・


その経験から思うと、Tような人はいくらでもいた。臨終の姿、葬儀の姿から、生前の関わりや、故人との繋がりなどは、大体分かるようになってきた。お金があっても、ひとり孤独な死を迎える人はいるし、逆もまたしかり。


Tさんの言葉「早くお迎えがこないかな」の背景にあるものは、自分の存在が肯定できないことからくる。


そして、家族、地域、会社や学校といった縁が機能不全になるにつれて、Tさんのような方は、多かれ少なかれ相当いることは間違いない。


11月の大久保の火事は、そのことを可視化した。しかし、同じ大久保地区だけで、私が知っているだけで30名は同じような孤独な高齢者は存在する。


先日、ニュースで今から約50年後の2060年には、高齢者が40%になると伝えていた。


多くは単身世帯だろう。孤独死が普通に起こり、死後、数ヶ月もたって見つかることが当たり前となる社会が、もう目前であることは誰にも否定できない。


私は孤独死が不幸だとは思わない。大勢の人に囲まれて、臨終を迎えても、孤独な人はたくさんいた。


孤独死、それは一つの生き様だろう。しかし、自分の親や家族、友人や知人が死後、数か月も発見されず、ウジやハエにまみれている姿を想像してほしい。そして、自分がそうなってしまっている姿を。さらに、残された者に与える心理的ダメージを想像してほしい。


そのことを理解した上で、孤独死について語ってほしいのだ。経験的に、「あとは野となれ山となれ」では、残された者が、相当な負担となることは確実。



あなたには・・・


「その時」に抱きとめてくれる人がいますか?


「その時」に助けてくれる人がいますか?



今の生き方が、「その時」に繋がる。


だから「今」が大事。その時をどう迎えたいのか?


だって死は生の延長線上にあるし、人は生きてきたようにしか死ねないもの。