城山城は大谷集落の南側、小代谷を北流する矢田川と久須部川に挟まれた、標高396mの山上に所在する。山麓との比高は約150mある。城域は東西約510m・南北約500mを測る。
『七美郡誌稿』によると、城主は初め朝倉氏、次いで八木氏・田公氏と替わったとするが、確証はない。同書によると、天正五年(1577)10月、羽柴秀長の但馬攻めに際して藤堂高虎は小代一揆平定を命じられ、小代勢は当城で藤堂軍を迎え撃っている。城主田公綱典(秋庭)は因幡に逃走するが、太田垣信喬・広井典胤・小代大膳ら43名の一揆勢は当城に立て籠もり、栃谷城(新温泉町)の城主塩冶左衛門尉の援軍50騎を得て、藤堂軍120騎と戦い勝利した。その後小代勢は藤堂高虎の居所であった大屋谷(養父市大屋町)を攻撃、蔵垣・横行・加保(大屋町)などで戦っている。『藤堂記』には「残党共横行と申す山中に山籠致し、要害を構え小屋掛居り申し候」と記されており、小代勢が横行に陣城を構築して藤堂勢に対抗したことが窺える。
天正四年(1576)の「新屋田淵家由緒書」(田淵家文書)には、山本右衛門・広井監物・坂本出雲守・上田若狭守・毛戸備後守・井上丹後守・西垣伊賀守など22名の名がみえ、彼らが一揆の指導者であろう。
(※香美町の城郭集成より)
みかた歴史的の杜案内図
北砦北東十一郭
北砦北東十郭
北砦北東九郭
北砦北東八郭
北砦北東七郭
北砦北六郭
北砦北東五郭
北東五郭の西土塁
北砦北東六郭
北砦東六郭
北東四郭と北東五郭間の堀切Ⅲ
北砦北東四郭北東腰曲輪
北砦北東四郭(曲輪11)
北砦北東三郭(曲輪10)
北砦北東二郭北東腰曲輪
北砦北東二郭(曲輪9)
北東二郭からの主郭北帯曲輪