Sat 080830 福田首相の辞任 文武両道とナマハゲ ヴェネツィア紀行7 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sat 080830 福田首相の辞任 文武両道とナマハゲ ヴェネツィア紀行7

 実は、これを書いているのは9月1日深夜であり「毎日更新を継続している」とはいうものの、正直に内情を告白すれば、2日遅れての「毎日更新」状況である。すると、政治や経済や社会はその2日遅れの更新を待ってはくれなくて、福田首相が突然会見を開き、突然の辞意を表明したりする。私も政治学科出身であるし、「専門は?」と聞かれれば、声をひそめ周囲を見回しながら「政治学です」と呟くしかない人間だから、こういうとき、こういうブログでは、この辞任について何か発言しなければならないのである。
 

 しかし私には、潔く辞意を表明した70歳過ぎのおじいちゃんの背中から「無責任だ」「国民を放り出して平気なのか」と罵声を浴びせて満足する趣味はない。別に福田首相が好きだったわけではないが、毎日毎日みんなで寄ってたかってコバカにし、何をしようとしても茶化すばかりで一切協力しようとせず、弄び、孫もいるおじいちゃんを来る日も来る日もいじめ放題いじめていた人々は、あまり好きになれない。彼が実際に無力な人だっただけに、また味方にも足を引っ張られてばかりだっただけに、その思いはいっそう強くなる。日本をもっとよくしたいと考えて自分でも夢中で努力した上でのことならいいが、ポシティヴなことは何もしていないくせに「国民投げ出し総理だあ」とか「無責任さに呆れましたあ」とか他人に罵声ばかり浴びせる人たちを「好きになれ」と言われても、私には無理な話である。せめて「おつかれさまでした」「この状況下でよく頑張りました」「ゆっくり休んでください」「あとは任せてください」ぐらいの言葉をかけてあげるのがエチケットのような気がする。
 

 野党の皆様は、今夜マスコミにインタビューされたとき、「無責任」「無責任」「国民無視」と同じことばかり言って1人の弱い無力なおじいちゃんを非難するよりも「それなら我々に任せてほしい、我々がすぐに引き継いで、日本をよくしてみせる。我々が引き継げるように今から直ちに努力を開始する」と発言すべきだったのではないのか。なぜ、彼らはそれが言えずに、余裕のニヤニヤ笑いでごまかすしかなかったのか。私の記憶が確かならば(CX:鹿賀丈史「料理の鉄人」より)、去年の11月ごろ、小沢氏もいきなり「オレはもう辞める」と言っていたような気がするが、その小沢さんを無投票で代表に選ぼうとしている政治家集団が、本当に余裕の微笑みで「無責任だ」「投げ出しだ」と批判していていいのか。ま、私自身もあくまで無責任に、そういう感想をいだきながら酒を飲んでいた。それ以上の感想はいずれゆっくり述べることにする。新聞を読みながらニャゴロワが珍しくたいへん賢そうな表情で、酒を飲んでいる私とニャゴニャゴ語り合うものだから、私もついつい盛り上がってしまった。

 

(写真上:かしこそうに私とニャゴニャゴ語り合うニャゴロワ記者)


 今夜はまず落ち着いて、昨日の話題に戻ろうではないか。昨日は日本の中等教育と高校教育について疑問を呈するところまで書いた。なぜ小学校まで日本で1番なのに、中学校では3番になり、大学に進む頃にはビリ近くまで落ちていってしまうのか。それを論じていたのである。
 

 例えば秋田県立秋田高校など、田舎の地域一番校が「文武両道」などと言って、高校3年になっても学園祭・体育祭に夢中になっているのは、それは悪くないのだ。「伝統の棒倒し」で、応援席から「こーろーせー、こーろーせー」のシュプレヒコールが上がるのも、実際にケガ人が出なければそれでいいとしよう。「伝統の騎馬戦」でつかみ合い寸前になるまでエキサイトするのも、高校生なら悪くない。こういうことは、福岡だって、熊本だって、みんなやっている。私が講演会にお邪魔したほとんどの地域で「地域一番校」と呼ばれているような高校はほとんど「文武両道」であり、「文武両道」といって張り切っている高校はほぼ例外なく「文」をないがしろにして「武」だけに夢中になるキライがあるから、その点は全国どこに行っても同じことであり、微笑ましいことである。
 

 問題なのは、その状況を改善すべくサポートしなければならないはずの民間の教育機関に、秋田に行くと大阪や福岡や神戸や名古屋のような元気が感じられないことである。私だって、機会があれば秋田に講演会に出かけたいのだが、呼ばれるのはこうした街や、他には京都・金沢・姫路・松山・高松・広島・四日市など。秋田には3年前の夏に1回出かけただけである。声をかけてくれればすぐにでも出かけて、今誰も言おうとしないこういう話をガンガンしてきたいのだが、最初から「どうせ無理だ」「どうせ来てくれない」と諦めて、講演会の申し込みさえしてくれない。秋田に限ったことではない。中等教育・高校教育が伸び悩んでいるところは、塾や予備校に対する偏見がいまだに強く残っていて、出来ないことまでみんな公教育で処理しようとし、公教育の場で補習授業まで手を出して、忙しさ煩雑さに先生方がアップアップの状況になっている。
 

(写真上、かしこいニャゴロワ姫。自分で電子辞書を引き、時間をはかって英語長文読解に挑戦中)

 話は突然どんどんそれていくが、だから秋田ではナマハゲにさえ全然元気がない。酔っ払って女風呂に乱入するとか、聞いた方ががっかりしてヘナヘナ座り込んでしまうような程度のことしか出来ない。昔の(昭和40年代ぐらいまでの)ナマハゲは、カッコよかったのだ。北陸の御陣乗太鼓も同じだろうけれども、しんしんと降る雪の夜の闇を、または吹きすさぶ吹雪の闇を、20人30人の若者が、無言で、鋭い殺気を漂わせながら颯爽と村に近づいてくる。鬼の面、凍るほど冷たい刃の輝き。心ならずもヤマト国に征服されてしまった土着の神の怨念と復讐の執念が、鬼、刃、地吹雪、白い吐息、月影、そういうものに結晶して闇の中を蠢くのである。前触れもなく激しく開かれる引き戸、乱入する鬼たち、揺れる灯火、吹き消される炎、泣き叫ぶ幼児。刃を不吉にきらめかせながら、声を押し殺し、まるで呻くように「悪りイ子はいねが」「泣く子はいねが」低く、太く、強く、屋根の下の深い闇(つまりその家を支配する氏神)に向かって問いを突きつける。それは「裏切り者はいないか」「寝返ったものはいないか」「土着の神を忘れたものはいないか」という、心の底から搾り出すような問いであって「抑圧されて自民族の誇りを失う者は決して許さない」という激しい儀式であり宣言であったのだ。

 

 つまり「ヤマトのおカミではなくて、自分たちの力で」「京や江戸から派遣される役人ではなく、オレ達こそが」という気概と心意気が、ナマハゲの迫力だったのである。それがなくては、あんなバカバカしい行事はただの笑いもの。伝統行事のこういう精神性を教えることさえしないから、伝統も何もかも骨抜きになってしまうのである。野党の皆様にこの迫力があるのかを、もし私に力があるなら、今日こそ問いたいものである。うにゃうにゃ。
 

 それに地球温暖化が拍車をかけた。雪が、降ってくれないのだ。3メートル前も見えない吹雪、結晶さえ見えるほど静かに降り積もる雪、息も止まる地吹雪、そういう白い闇の中を、無言の鬼が低く低く駆け抜けるからこそナマハゲの迫力があったのだが、今では地球温暖化のせいで、真冬にしっかり雨が降る。その生温い雨の中を、酔っ払ったナマハゲがデレデレ行進しても、何にも恐くない。よせばいいのに、傘をさしている。500円のビニール傘を手に手に掲げて、片手には一升瓶ではなくて缶ビール。最近の秋田の若者は、酒さえキチンと飲めないのだ。ビニール傘、缶ビールに缶チューハイ、せいぜいでワンカップ。そんなキオスクか車内販売の回し者みたいな弱々しい奴らがノコノコ入ってきたって、子供だって泣きもしない。すぐに正体を見破って「あ。佐藤さんちの健三さんだ」「鈴木先生の弟の翔太さんだ」ということになって、バカバカしい限りである。
 

(写真上:地球温暖化のせいで渋谷区代々木上原に姿を現した巨大な雷雲。この雷雲から、4時間に及ぶ雷鳴が先週木曜日ニャゴニャゴ首都圏を襲った)

 しかも、最近の家はドアにカギがかかっている。本来なら、いきなり何の前触れもなく、力づくで引き戸が引かれ、ザラ、ザラザラザラ(これは狂言で引き戸を開くときの擬音)と引き戸が壊れるほどの音があって、抵抗しようのないたくましい腕に捕らえられ、その腕に引き据えられるからこそ、子ども心にも「いつか自分もナマハゲになって」と思い定めたのだ。

 

 それなのに、今ではドアにカギがかかっていて、ナマハゲたちは仕方なしに呼び鈴を押す。
「ピンポーン、ピンポーン」
「ハイ、どなた」
「夜分遅くすいません。ええっと、あのー、ナマハゲなんですが」
「ああ、ナマハゲさんね、ちょっと待っててくださいね」
というやりとりが、なんとインターフォンを通じて交わされ、缶ビール片手の弱々しいナマハゲが、ビニール傘を丁寧に傘立てに入れる。
「あらま、ナマハゲさん、ご苦労様。お外は雨で寒かったでしょ」
「いえいえ、これもボランティアですから」
「おや、ナマハゲさん、ぜんぜん秋田弁じゃないんですね」
「そりゃ、そうですよ、今どき、秋田弁なんか話す人はいませんよ。みんな標準語です」
「そんなもんですかねえ」
「じゃ、いよいよ、いきますよ。まだ隣の家も行かなきゃいけないもんで。では、と。いきますよお。悪い子は、いませんかあ? 泣く子は、いませんかあ?」
「あ、ローソンでバイトしてる伊藤さんと遠藤さんだ」
「ありゃ、ばれちゃった? 仕方ないね。じゃ、これ、おみやげのポイフルと小枝チョコレートね」
「ええっ、ポテチか『うまい棒』の方がよかったな」
「そっか、ごめんね、また今度、ローソン来てね」
「うん、わかった」
これが、温泉女風呂乱入直前のナマハゲの実態である。

 

 3年前、秋田に講演会で出かけた時、高校生たちが綺麗な標準語で話すのを聞いて(と言っても、私の耳はごまかせないから、しっかり「隠れ秋田なまり」を聞き取ってニヤニヤしたものだが)少し寂しい気持ちがした。
 

 こういうのは、秋田ばかりの話ではない。日本中どこでも、ぜひ、ふるさとにもっともっと強固な誇りを持てるような中等教育・高校教育を作っていってほしいものである。税金をたっぷりかけて全国一斉学力テストを実施したなら「早寝早起きが大切」「キチンと朝食」「テレビは見ない」「睡眠はしっかり」などという分かりきったことについて、「秋田に学べ」「フィンランドに学べ」で終わってもらっては困るのである。

 


 4月23日、まずサンマルコ広場の大鐘楼に登る。もう何度も繰り返し書いているが、私は「塔に登る」という行為について非常に否定的な見解を持っている。塔というものは、下から見上げて畏怖の念をいだくべきものであり、上に登るのは聖職者や王侯貴族に任せておくべきこと。上からの眺めは美しいかもしれないが、その美しさの中には、冷静に理性的にキチンと見れば、庶民が気づいてはならない醜さ・腐敗・退廃が満ちている。
 

 ただ、そういう高尚で面倒くさいことをこねくり回していられるのは、もっと余裕のある時に限られる。大晦日のアメ横もクリスマスイヴのディズニーランドも、今日のヴェネツィアには一目置くだろうという混雑のさなかにグズグズそんな理屈をこねていると、激しく行き交う世界標準の人々に踏みつぶされるのがオチである。達人なら、こう考える。
「今日は日曜日である。日曜日は、イタリアと言えども、小学生中学生高校生はお休み。にっくき遠足や修学旅行の恐るべき集団(ぜひぜひ080624参照)は、決して襲ってこない。ならば、塔の上はすいているはず。群衆がそのことに気づかないうちに素早く塔に登るのがベスト」。
というわけで、早速、大鐘楼のエレベーターに向かうと、案の定エレベーターは空き放題に空いていた。で、私としては珍しいほどに、塔の上から写真を撮りまくった。午前中のみずみずしい太陽が昇った東の海の輝きは、それだけで十分ルネサンスのヴェネツィアの栄光を実感させてくれたし、

 

 


南の海上に浮かぶサン・ジョルジョ・マッジョーレ島。

 

 

カナル・グランデ。
 

 


サンマルコ広場。

 


 

赤い屋根がどこまでも続くヴェネツィアの町並み。

 


普段なら大量に渦巻いている遠足の生徒と修学旅行生をかき分けかき分けやっとのことで「見たような気もする」という程度にしか見られない素晴らしい絶景を満喫。これこそ、まず「日曜日だからこそ楽しめるヴェネツィア」の第1弾であった。
 塔から降りて、第2弾「リド島」を目指す。昨日3日券を購入してあるから、VALLARESSOの乗り場から1番のヴァポレットに乗って、リド島まで20分ほどである。この船がまたたまらない。たった今大鐘楼の上から眺めたサンマルコ広場、

 


 
 
サン・ジョルジョ・マッジョーレ島、
 


それぞれ海を隔ててほぼ水平の視線で見ることが出来る。ほとんど誰も乗っていない安いヴァポレットでこの風景が楽しめれば、これ以上文句の言えた義理ではないだろう。


1E(Cd) Mravinsky & Leningrad:SHOSTAKOVICH/SYMPHONY No.5
2E(Cd) Maggini String Quartet:ELGAR/STRING QUARTET in E MINOR
                    PIANO QUINTET in A MINOR
3E(Cd) Barbirolli & Hallé:THE BARBIROLLI ELGAR ALBUM 1/2
4E(Cd) Barbirolli & Hallé:THE BARBIROLLI ELGAR ALBUM 2/2
5E(Cd) Elgar & London:ELGAR/SYMPHONY No.2
6E(Cd) Barbirolli & Hallé:THE DREAM OF GERONTIUS 1/2
7E(Cd) Barbirolli & Hallé:THE DREAM OF GERONTIUS 2/2
10D(DvMv) OCEAN’S THIRTEEN
total m310  y1076  d1076