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ヨハネ福音書20章 21章

ヨハネ福音書をとおしてイエス・キリストを知る

ヨハネ21:23
そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。
しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのではなく、
「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、
それがあなたに何のかかわりがありますか」
と言われたのである。

22節から何年かの後に起きた出来事を、ヨハネは23節に書いたのです。
22節から23節のこの1節の行間には、時間経過がありました。

イエスが昇天された後、弟子たちは皆、聖霊のバプテスマを受け取り、使徒として活躍し、
彼らの働きによって教会が誕生し、兄弟、と呼ばれる信仰者たちが、現実にこの地上に
現れ始めてから、幾年かが過ぎた時期であったことが書かれています。

使徒ヨハネは、宣教活動において、非常な困難と行き詰まりを覚えていた
ことと、その原因となった出来事が23節には書かれています。

その原因とは、イエスが語られたことばの一片だけを切り取って、噂話とも言える解釈が、
まことしやかに兄弟姉妹、クリスチャンの間で広がり、それが隅々にまで行き渡ってしまった。
ということです。

「使徒ヨハネは死なない。」という話が、まるで生き物のようにどんどん広がっていき、
信仰者全体に行き渡ったこの動きは、人間をとる漁師として、大胆にこの世に向かって
網を投げ打つという、宣教の働きにダメージを与え、使徒ヨハネ自身が、死なない
として神格化されていくことによって、イエスから委ねられた羊の牧者として、兄弟たちを
神のみ元に導くという働きに、大きな障害となっていたことでしょう。

また、イエスが語られたみことばの正しさが歪められ、キリストの再臨の出来事も、人間の
納得できる思考によって、神の出来事とは全くかけ離れ所で、ひとり歩きを
していったはずです。

それではその原因となった、ヨハネ21章21節に書かれたことを、もう一度見てみましょう。

ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」

ペテロが思わず言ってしまったイエスへの問いかけ。
この問いかけを通して、イエスは非常に重要な、神にとっての本質的な基準、を語られたのです。

21章22節
イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで、彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、
それがあなたに何のかかわりがありますか。 あなたは、わたしに従いなさい。」

神とペテロの間柄において、全く無関係の出来事と、神とペテロの関係において、非常に
大切な出来事、この二つを、イエスは明確に示されたのです。

神の視点から見て、全く関係のない事とは、
「わたしが来るまで、彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに
何の関わり合いがありますか。」

神の視点から見て、非常に重要なこととは、「あなたは、わたしに従いなさい。」

使徒ヨハネが、21章23節に記したこととは、神にとって全く関係のない無意味なことが、
兄弟の間で重要な事として、隅々にまで拡大した。

そのことによって、神にとって非常に重要なイエスのみことばが、無意味とされ、
使徒たちの宣教の働きを、また牧会の働きを、阻害し妨害している。 
という現実が記述されています。

私たちも、イエスが示された、神にとって最も重要なことと、神にとって全く関係のない
この2つの基準を、聖書のみことばを通して、真剣に学び、取り組んでいかねばならないと、
この箇所を通して思います。

なぜならイエスは常に、この基準で働いておられ、私たちにこの基準を、聖書の中で
明確に示しておられるからです。

ヨハネ福音書の2章に書かれている宮きよめは、顕著にこの基準で働いておられる
イエスを証しています。

ヨハネ2章13節から

ユダヤ人の過ぎ越しの祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。そして、宮の中に、
牛や羊や鳩を売る者たちと、両替人たちが座っているのをご覧になり、細なわでむちを
作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、
鳩を売る者に言われた。

「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。

そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、
どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」

イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは3日でそれを建てよう。」
そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに46年かかりました。
あなたはそれを、3日で建てるのですか。」

しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。

この箇所には、人間が非常に重要に思っている事柄と、イエスが非常に重要と
思われている事柄が、真っ向から対立していることが書かれています。

しかしイエスは、神殿の主として、神にとって何が一番優先すべき大切なことかを、
人々に知らせるために、細縄で鞭を作り、その鞭をふるって、神の最重要事項と、
排除すべき事項を、明確に聖別したのです。

当時の宗教家が最も大事としていたのは、目に見える、いずれ滅び行く神殿。

しかし、イエスが最も重要視したことは、真の礼拝者たちが礼拝する神殿、
神のいのちと神の出来事で、満ち満ちている神殿でした。この神殿そのものが、
イエスのみからだを象徴するものだったからです。

使途ヨハネは、21章23節を書くことによって、イエスに委ねられた人々を、
自分たちの考え、「使途ヨハネは死なない。」から、神の的である、
「あなたは、わたしに従いなさい。」 というみことばに応答させ、イエスが十字架と
復活によって造られた神の囲いへと、再び追い込もうとする強い警告であったと思います。

この箇所は、非常に大切なことを私たちに教えていると、思いませんか?

第一コリント4章6節でパウロはこう語りました。
さて、兄弟たち。以上、私は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために
言ってきました。それは、あなたがたが、私たちの例によって、「書かれていることを
超えない」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢に
ならないためです。

ヨハネ21:23に当てはめると、「書かれていることを超えないこと。」
という、パウロが言った意味が良く分かりますね。 

「使徒ヨハネは死なない。」 という考えは、イエスが言われたことを完全に
飛び越えている考えであり、その考えを持つ限り、「あなたは、わたしに従いなさい。」

という聖書にはっきりと書かれている、イエスのみことばには、絶対に応答できない。
ということが明白だからです。

そして、「書かれていることを超えない」 という、このことを学ぶ最終目的は、
「高慢にならないためです。」とパウロは結論づけました。

使徒ヨハネが本当に苦慮していたことは、イエスが言われたことを超えた考えが、
兄弟全体、クリスチャン全体に広まることによって、ヨハネをはじめとする使徒たちが、
イエスから委ねられた、小羊や羊たちが、やがては高慢になり、真の羊の門にまで
導くことが、非常に困難になっていくことが、明白だったからではないかと思います。

いつの時代も、聖書に書かれているイエスのみことばから、的を外させようとする
私たちの内側を狙う勢力があります。そのサタンの圧力は、常に私たちの信仰生涯を
脅かしている。という現実があります。

これに対向するために、パウロが言うように、「書かれていることを超えない聖書の学び」
は非常に重要であり、学びを通して、神の基準をはっきりと理解し、日々、聖霊によって
みことばに応答する道へと、導かれることではないかと思います。

パウロ自身、復活のキリストに出会う前のサウロ時代は、
「天地万物を造られた旧約の神の、忠実なるしもべである。」と自認していました。

神に忠誠を尽くすが余り、多くのクリスチャンを激しく迫害していた体験者です。

律法を完全に守り行うことを、自分たちの肉なる努力や頑張りで出来ると信じ、
その努力と熱心さと頑張りによって、神の義に到達できるという信念に堅く立ち、
己の良しとすることを強行していた的外れの王者サウロが、

復活のキリストのいのちを頂いて、劇的に変わり、心を込めてこう語ったのです。

「書かれていることを超えない」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、
他方に反対して、高慢にならないためです。

復活のキリストに直接出会い、パウロは心から悟ったのでしょう。
神が人に与えた律法の、全ての全てを、完璧にその肉体を持って成し遂げたのは、
イエス・キリスト、ただおひとりであった、ということを。

ヨハネ19:30
イエスは酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、
霊をお渡しになった。

イエスが「完了した」と宣言された事の中には、神が人に与えた律法の、一点一画、
すべてをイエスは十字架を通して完成させた。という事も含まれていたと思います。

イエスの肉体による、律法の完全なる完成。神の視点から見て、一点の汚点もない、
完璧な律法の成就を、イエスは十字架上で「完了」されたのです。

そして御霊によって、小さき者パウロが新しく誕生したのです。

血を吐くような努力をしても、絶対に到達できなかった律法の成就を、神の御子
イエス・キリストが完成させた。このキリストに比べたら、何と小さき者であったか。
パウロは改めて、自分の小ささを思い知ったのでしょう。

ベニヤミン族出身の、ユダヤの初代王サウロと同じ名前、そして、秀でたパリサイ派のエリート、
というアイデンティティから、

徹底的な神のしもべ、小さきパウロへとなっていったのです。
そして、主が命じるままに、命をかけて、神の福音の奥義、神の真理,という深みに
漕ぎ出して行ったのです。

これこそが、生涯に渡るパウロの唯一の誇りであったと考えます。

ガラテヤ2:16
しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを
信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちも
キリスト・イエスを信じたのです。

これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と
認められるためです。なぜなら
律法の行いによって義と認められる者は、
ひとりもいないからです。

復活のキリストに直接出会い、肉の思考では考えられない、余りにも深い、神の真理、
神の真実、神の基準、神の現実、全能の力、神の奥義を、小さき者パウロが、しもべとなって
余りにも深いこれらの奥義を、私たちに、莫大な神の遺産として残してくれました。

神のみ前に、いつも小さな貧しい飢えた子供としての自分を自覚し、
神の豊かさを、ひたすら受け取る者でありたいですね。

そして、少しずつ成長させて頂き、「あなたは、わたしに従いなさい。」
とイエスが語ることばに従って行きたいと心から思います。


















ヨハネ21:20

ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。
この弟子は あの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者は誰ですか。」
と言った者である。

ペテロは振り向いてしまったのです。

復活のイエスに、自分の過去と未来を示され、過去は、自分で考えた通りの自分を生きていた。
しかし、未来には、恐ろしいが確定されている。というイエスの予告。

イエスの予告は、自分がどうあらがっても、絶対にそうなるに決まっている。
この事をペテロは3度、イエスを否認した経験によって、重々知っている。

その時ペテロは、反射的に、未来に待ち構えている死から目を背け、自由に自分らしく
生きていた過去に、目を向けたのです。ペテロは振り向いて、過去に目を向けたのです。

過去に目を向けた途端、ペテロの目に飛び込んできたのは、ヨハネでした。

しかしそのヨハネは、復活のキリストの食事に預かった、現在のヨハネではなく、
過去にいたヨハネだったのです。

ペテロが見た過去は、イエスが復活される以前の、最後の晩餐の時でした。

この弟子は、あの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者は誰ですか。」
と言った者である。(
ヨハネ21:20)

過去を振り返ったペテロの前に映し出された場面は、イエスが徹夜の祈りの末に選ばれた
12弟子の一人、ユダが、まさにイエスを裏切ろうとしている現場、最後の晩餐の席
だったのです。

最後の晩餐の所に戻ってみましょう。

ヨハネ13章21節

イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、
わたしを裏切ります。」

弟子たちは、一度も体験したことのない、イエスの霊の激動という、非常に緊迫した
空気の中で、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」つまり、神側の真実を
告げます。と言われ、

「あなた方の内の一人が、わたしを裏切ります。」 という驚くべき事を知らされたのです。

弟子たちは、誰のことを言われたのか分からずに、当惑して、
互いに顔を見合わせていた
。(13:22)

弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で
席に着いていた
。(13:23)

そこで、シモン・ペテロが、彼に合図をして言った。
「誰のことを言っておられるのか、知らせなさい。」(
13:24)

その弟子は、イエスの右側で席に着いたまま、イエスに言った。
「主よ。それはだれですか。」(
13:25)

ここで、注目したいことがあります。この時、ヨハネが言った言葉は、
「主よ。それは誰ですか。」 なのです。
ギリシャ語の原文でも、「主よ、誰ですか。」となっています。

「あなたを裏切る者」というこの言葉は、ヨハネの口からは出ていません。
4福音書、全てを見ても、ヨハネがこのようなことを言ったなどとは、書かれていません。

それは、ヨハネ21章20節で、後ろを振り向いたペテロ自身の、内側から出てきた
言葉なのです。

ペテロは、イエスに付き従って来たこの3年半を振り返ったならば、素晴らしい思い出が、
山ほどあったはずです。最高に興奮した出来事も、数え切れないほどあったはずです。

しかし今、イエスに示された未来から、目を背け、過去を振り返った途端、
過去から来たメッセージは、「主よ。あなたを裏切る者は、誰ですか。」

もちろん、裏切った人物はユダでした。ユダはイエスを裏切り、その結果、自殺という、
最悪の死を遂げたのです。

しかし今、ペテロの心は、もし、イエスが示された未来に生きないで、後ろを振り向いて
生きるなら、「今度こそ、イエスを裏切るのは、自分だ。」という事が、はっきりと
分かったのではないかと、思いました。

あなたなら、どうします?  必ず死が待っている、その未来に向かって、
「主の言われることなら間違いはない。」と言って、何の迷いも恐れもなく、勇敢に、
まっしぐらに、前進していくことができますか?

私なら、きっとペテロと同じように、不安と恐れで、未来に背を向け、過去に生きたい。
という葛藤におそわれるかもしれません。

例え、神の栄光を現す死でも、今のペテロには、受け止めることが出来なかったのです。
それゆえ、ペテロは後ろを、振り向いてしまったのです。

21:21
ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」

「主よ、あなたを裏切る者は誰ですか。」という言葉に、はっと我に返ったペテロが、
二度目に見たものは、実際に目の前にいる、ヨハネでした。12弟子の中でも、
ペテロとヨハネは特別に親しかったと思われます。二人一緒に出てくる場面が、
聖書の中に何度かありました。

ペテロは、「もう過去の自分には戻れない。それは、主を裏切る者になってしまう。」
ということを悟ったのでしょうか。過去に戻れないなら、未来に生きるしかない。

そう思ったペテロが、未来に生きるために唯一、頼りにしたのは、目の前にいた
親友ヨハネでした。

「ヨハネと一緒なら、死に向かって生きることが出来るかも知れない。」と、
ヨハネに望みをかけて、哀願するように、イエスに言ったのではないでしょうか。

「主よ。このヨハネも、私と同じ運命をたどりますか。神の栄光のための死が、
このヨハネにも、私と同じように待っていますか。 どうですか?」

ペテロは、不安な心を抱きながら、こう聞いたのではないでしょうか。

ここではっきりと証明されたことは、ペテロが頼りにしていたのは、イエスのことばではなく、
であった。ということです。人の言葉に影響を受け、また、人を頼りにしていた。

そんなペテロの心境が、はっきりと浮き彫りにされています。
そのペテロに向かって、イエスは宣言しました。

イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで、彼が生きながらえるのをわたしが
望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。 
あなたは、わたしに従いなさい。」(
21:22)

「ヨハネを頼りにするのではなく、わたしを頼りにし、わたしのことばを握って、
従え、わたしに」と、ペテロに命令したのです。

復活のイエスは、21章15節から22節に至るまで、ペテロに向かって、一貫して
何をなさっていたのでしょうか。

それは、ペテロを、一対一の関係の中で、自分の命をかけざる得ない宣教の働きへと、
追い込んでいかれたのです。他の弟子たちにも、ペテロと同じように、一対一の
関係の中で、宣教への道へと追い込んでいかれたとそう思います。実際にヨハネ以外は、
全員が殉教したことが記録されています。

主は、私たち一人ひとりに対しても、一対一の関係の中で、最善の道へと、みことばを与えて、
追い込んでいかれます。一人ひとりの最善を知り尽くしておられるイエスは、神側から見た
最善の人生へと必ず、ひとりひとりを追い込んでいく時を、持っておられるのです。

では、ヨハネはどうだったのでしょう。
「わたしが来るまで、彼が生きながらえるのを、わたしが望むとしても」とイエスは
言われました。

これもまた、意味の分からないイエスのことばです。

しかし、イエスが語られたことばは、その時すぐには分からないけれど、長い歴史をかけて、
徐々に、徐々に、その実体がこの地上に、明らかにされていくのです。

ペテロを始めとする使徒たち全員は、イエスの予告どおり、神の栄光を現す殉教の死を
遂げています。

しかし、ヨハネだけは、イエスのことば通り、長く生きながらえたのです
伝承によると、90歳という永き年月を全うしたということです。

ローマ皇帝の迫害によって、他の弟子たちと同じような迫害に会いましたが、ヨハネだけは
殺されず、パトモス島へ流されたのです。

ヨハネを迫害から遠ざけ、パトモス島へ追いやったのは、イエスのご計画であった。
何のために、イエスは使徒ヨハネだけを、この世に残し、長寿を全うさせたのでしょうか。

「わたしが来るまで、彼が生きながらえるのを、わたしが望むとしても」

すでにこの時、復活されたイエスは、「再びこの地上に来る」と言われ、再臨
予告したのです。

そしてヨハネは、肉体の死こそあったものの、パトモス島で見た、終末の世の有様を、
克明に書き記し、再臨に備えるべき最重要な神側の出来事を、生ける書物
ヨハネの黙示録として書き残したのです。

イエスは、使徒ヨハネに、ペテロを始めとする他の弟子とは異なる使命を、
すでに与えられていた。それゆえ、こう言われたのではないかと、思います。

ペテロへの使命とヨハネへの使命、それぞれ異なる使命を、イエスは不思議なことばによって、
弟子たちに語られ、「わたしに従いなさい。」 と命令され、実際に彼らは、使徒の働きへと、
聖霊によって突入していくのです。


ヨハネ21:18、19

まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、
自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、他の人が
あなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。
これはペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。
こうお話になってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」

18節で、イエスは、「まことに、まことに、」と言われて、何とも理解しがたいことを
話されました。

「まことに、まことに、」と言われたのですから、すごく重要な内容であったことはまちがい
ありません。

19節を読むと、18節に書かれた内容は、神の側から見た、ペテロの若かった時の過去と、
これからのペテロの未来を、明確に示した出来事である。ということがはっきりと分かります。
ペテロの未来には、必ずが訪れ、そのは自然死ではなく、神の栄光を現して死んでい
殉教であることを、イエスは予告しました。

壮絶なが、未来に確実に待っている危険な道であることを、はっきり示された上で、
「わたしに従いなさい。」とイエスは言われたのです。

ギリシャ語の対約によると、「従え、わたしに。」と命令形になっています。

必ずが待ち構えている危険な道とは、どんな道なのでしょうか。

それは、21章15節から17節でイエスが3度言われた、

「わたしの小羊を飼いなさい。」「わたしの羊を牧しなさい。」「わたしの羊を飼いなさい。」

このイエスの命令を忠実に実行していく時、待ち構えているのは、殉教、である。
と、イエスは遂にここで、明確に語られたのです。

15節の始めに、イエスが、「神を最優先する愛で、わたしを愛しますか。」 とペテロに
2度も聞かれた訳が、ここにあると思います。神を最優先する愛の実体がなければ、
絶対に、イエスが命じた「わたしの羊を飼う」 という道を、歩むことは不可能だったからです。

ギリシャ語の原文は、日本語よりも、もっと強いインパクトでペテロに迫っています。

1度目は、「飼え、わたしの小羊たちを。」 飼え、は命令形が使われ、小羊は複数形が
使われています。

2度目は、「牧せよ、わたしの羊たちを。」 

3度目は、「飼え、わたしの羊たちを。」

ヨハネ10章では、良き羊飼いと羊の関係について語られ、また、良き羊飼いと羊の関係を
破壊していく強盗、人殺しについても語られました。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、他の所を
乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。」(10:1)

イエスが公にご自分をメシヤとして現された三年半の働きの中で、多くのユダヤ人指導者たちが、メシヤなるイエスに向かって、盗人となり、強盗となりました。
イエスの奇跡の業を、亡きものにしようとする強い勢力として現れました。

が、最も初めの盗人、強盗とは、エデンの園に現れたサタン、ではないかと思います。

エデンという、神が人に与えられた、理想的な環境の中に、門から入らないで、他の所を
乗り越えて、こっそりエバに近づいて行ったのは、サタンなのです。

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。
わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(10:10)

サタンは、神が人に持っていた、絶対的な愛といのちの交わり、という囲いの、別の所から侵入し、
神の掟を、偽りやだましによって破らせ、神への信頼関係を奪い取り、善悪の知識の木の実を、
巧みな偽りの言葉によって、人に食べさせたのです。

サタンは、神が与える永遠のいのちの供給を人から遮断し、人にをもたらした張本人、
つまり、人殺しの張本人だったのです。

サタンの目的は、ただ、神と人との関係のをもたらし、愛と信頼関係を破壊する、
ただそれだけが、サタンの目的であったのです。

サタンの巧みな野心によって、人は善悪の知識の木の実を、まんまと食べてしまった。
この、人類史上最悪な出来事によって、創造主なる神と、神に似せて造られた被造物である
人は、その関係を滅ぼし尽くされ、人は、エデンの園から追放されたのです。

その後の人類の歴史は、自分自身で、自分の存在価値を、また存在理由を、証明せざる
得なくなり、自分を中心した善と悪、このような価値観で生きる者へと
なり下がってしまったのです。

神と共に生きる関係の中で、人は神によってその存在価値を十分に与えられていたのに、
神を的として生きる生き方から、自分を的として生きる生き方に激変したがゆえに、
自らの命を、自らの頑張りによって肯定していく生き方になってしまったのです。

それによって、神と人との調和が破壊され、人と人との関係が破壊され、夫婦の関係が
破壊され、親子の関係が破壊され、兄弟関係が破壊され、民と民との関係が破壊され、
国と国との関係が破壊されていったのです。

「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」

サタンによって、破壊されたこれらすべてを、もう一度取り戻すために、イエスは
来られたのです。創造主なる神が、ご自分のいのちまで捨てて、再び、神と共に生きる、
永遠のいのちを私たち人類に与えるために、永遠の実存者である方が、マリヤの小さな
子宮に入られて、この地上に来られたのです。

わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(10:11)

こう言われた通りに、イエスは全人類の罪を背負って、十字架に架かって死なれたのです。
サタンに牛耳られたこの世から、多くのたましいを救い出し、イエスのみことばによって
養い育て、全世界の人々を、永遠のいのちに導く牧者になることを、イエスはペテロを始めとする弟子たちに命じられたのです。

永遠のいのちを与えるために、一粒の麦となって死なれたイエス。
この神側の真実を握って、宣教のことばをこの地上に投げ打つ時、ペテロを始めとする
弟子たちは全員、ヨハネを除いて、イエスが予告された通りに、殉教していくのです。

イエスの命令を誠実に実行し、聖霊によって大胆に復活のイエスを証していったがゆえの
彼らのは、一粒のいのちとして、更に新しい神の子供たちを世界に生み出していき、
更に多くの人々の殉教による死は、更に多くの人々を永遠のいのちへと導いて行ったのです。

でも、21章18節に居るペテロと弟子たちには、ぼんやりとしか、イエスのみことばを
受け取ることが、出来なかったのではないかと、思います。

次の20節で、ペテロがつい、言ってしまった発言を通して、そう思わされました。

ペテロと弟子たちが、イエスが言われたとおりの牧者となっていくためには、
どうしても聖霊のバプテスマが、必要不可欠だったのです。