ヨハネ福音書 21章18,19節 (12) わたしに従いなさい | ヨハネ福音書20章 21章

ヨハネ福音書20章 21章

ヨハネ福音書をとおしてイエス・キリストを知る

ヨハネ21:18、19

まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、
自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、他の人が
あなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。
これはペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。
こうお話になってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」

18節で、イエスは、「まことに、まことに、」と言われて、何とも理解しがたいことを
話されました。

「まことに、まことに、」と言われたのですから、すごく重要な内容であったことはまちがい
ありません。

19節を読むと、18節に書かれた内容は、神の側から見た、ペテロの若かった時の過去と、
これからのペテロの未来を、明確に示した出来事である。ということがはっきりと分かります。
ペテロの未来には、必ずが訪れ、そのは自然死ではなく、神の栄光を現して死んでい
殉教であることを、イエスは予告しました。

壮絶なが、未来に確実に待っている危険な道であることを、はっきり示された上で、
「わたしに従いなさい。」とイエスは言われたのです。

ギリシャ語の対約によると、「従え、わたしに。」と命令形になっています。

必ずが待ち構えている危険な道とは、どんな道なのでしょうか。

それは、21章15節から17節でイエスが3度言われた、

「わたしの小羊を飼いなさい。」「わたしの羊を牧しなさい。」「わたしの羊を飼いなさい。」

このイエスの命令を忠実に実行していく時、待ち構えているのは、殉教、である。
と、イエスは遂にここで、明確に語られたのです。

15節の始めに、イエスが、「神を最優先する愛で、わたしを愛しますか。」 とペテロに
2度も聞かれた訳が、ここにあると思います。神を最優先する愛の実体がなければ、
絶対に、イエスが命じた「わたしの羊を飼う」 という道を、歩むことは不可能だったからです。

ギリシャ語の原文は、日本語よりも、もっと強いインパクトでペテロに迫っています。

1度目は、「飼え、わたしの小羊たちを。」 飼え、は命令形が使われ、小羊は複数形が
使われています。

2度目は、「牧せよ、わたしの羊たちを。」 

3度目は、「飼え、わたしの羊たちを。」

ヨハネ10章では、良き羊飼いと羊の関係について語られ、また、良き羊飼いと羊の関係を
破壊していく強盗、人殺しについても語られました。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、他の所を
乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。」(10:1)

イエスが公にご自分をメシヤとして現された三年半の働きの中で、多くのユダヤ人指導者たちが、メシヤなるイエスに向かって、盗人となり、強盗となりました。
イエスの奇跡の業を、亡きものにしようとする強い勢力として現れました。

が、最も初めの盗人、強盗とは、エデンの園に現れたサタン、ではないかと思います。

エデンという、神が人に与えられた、理想的な環境の中に、門から入らないで、他の所を
乗り越えて、こっそりエバに近づいて行ったのは、サタンなのです。

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。
わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(10:10)

サタンは、神が人に持っていた、絶対的な愛といのちの交わり、という囲いの、別の所から侵入し、
神の掟を、偽りやだましによって破らせ、神への信頼関係を奪い取り、善悪の知識の木の実を、
巧みな偽りの言葉によって、人に食べさせたのです。

サタンは、神が与える永遠のいのちの供給を人から遮断し、人にをもたらした張本人、
つまり、人殺しの張本人だったのです。

サタンの目的は、ただ、神と人との関係のをもたらし、愛と信頼関係を破壊する、
ただそれだけが、サタンの目的であったのです。

サタンの巧みな野心によって、人は善悪の知識の木の実を、まんまと食べてしまった。
この、人類史上最悪な出来事によって、創造主なる神と、神に似せて造られた被造物である
人は、その関係を滅ぼし尽くされ、人は、エデンの園から追放されたのです。

その後の人類の歴史は、自分自身で、自分の存在価値を、また存在理由を、証明せざる
得なくなり、自分を中心した善と悪、このような価値観で生きる者へと
なり下がってしまったのです。

神と共に生きる関係の中で、人は神によってその存在価値を十分に与えられていたのに、
神を的として生きる生き方から、自分を的として生きる生き方に激変したがゆえに、
自らの命を、自らの頑張りによって肯定していく生き方になってしまったのです。

それによって、神と人との調和が破壊され、人と人との関係が破壊され、夫婦の関係が
破壊され、親子の関係が破壊され、兄弟関係が破壊され、民と民との関係が破壊され、
国と国との関係が破壊されていったのです。

「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」

サタンによって、破壊されたこれらすべてを、もう一度取り戻すために、イエスは
来られたのです。創造主なる神が、ご自分のいのちまで捨てて、再び、神と共に生きる、
永遠のいのちを私たち人類に与えるために、永遠の実存者である方が、マリヤの小さな
子宮に入られて、この地上に来られたのです。

わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(10:11)

こう言われた通りに、イエスは全人類の罪を背負って、十字架に架かって死なれたのです。
サタンに牛耳られたこの世から、多くのたましいを救い出し、イエスのみことばによって
養い育て、全世界の人々を、永遠のいのちに導く牧者になることを、イエスはペテロを始めとする弟子たちに命じられたのです。

永遠のいのちを与えるために、一粒の麦となって死なれたイエス。
この神側の真実を握って、宣教のことばをこの地上に投げ打つ時、ペテロを始めとする
弟子たちは全員、ヨハネを除いて、イエスが予告された通りに、殉教していくのです。

イエスの命令を誠実に実行し、聖霊によって大胆に復活のイエスを証していったがゆえの
彼らのは、一粒のいのちとして、更に新しい神の子供たちを世界に生み出していき、
更に多くの人々の殉教による死は、更に多くの人々を永遠のいのちへと導いて行ったのです。

でも、21章18節に居るペテロと弟子たちには、ぼんやりとしか、イエスのみことばを
受け取ることが、出来なかったのではないかと、思います。

次の20節で、ペテロがつい、言ってしまった発言を通して、そう思わされました。

ペテロと弟子たちが、イエスが言われたとおりの牧者となっていくためには、
どうしても聖霊のバプテスマが、必要不可欠だったのです。