ヨハネ福音書 21章15節 (9)  わたしを愛しますか | ヨハネ福音書20章 21章

ヨハネ福音書20章 21章

ヨハネ福音書をとおしてイエス・キリストを知る

ヨハネ21:15

彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。
「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」
ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存知です。」
イエスは彼に言われた。 「わたしの小羊を飼いなさい。」

炭火の上に載せられたパンと魚の食事が、すべて終わったのです。
イエスが用意された、聖霊を受け取る準備のための食事、また、使徒になる準備のための
食事を、彼らはすべて食べ終えたのです。

これから彼らは、以前、イエスが言われた
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦が、もし地に落ちて死ななければ、
それは一粒のままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」

このことばが実現し、世界中に新しい神の子としてのいのちが溢れ、キリストの一粒のいのちが、
世界中で実を結ぶために、エクレシア、み子の血によって贖い出された、新しい契約の民が、
キリストのみ名によって集められ、宣教の働きをする教会を、建て上げるために、召されて行くのです。

マタイ16章15節で、イエスが弟子たちに尋ねたことがありました。

“イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか。」
シモン・ペテロが答えて言った。
「あなたは、生ける神の御子、キリストです。」

するとイエスは、彼に答えて言われた。
「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは人間ではなく、
天にいますわたしの父です。 では、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。
わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」

ペテロがイエスに向かって語った、「あなたは生ける神の御子、キリストです。」

この告白を、岩として、「生ける神の子、キリスト」 というの上に、
「わたしの教会を建てます。ハデスの門も、生ける神の子キリストを岩とする教会を、打ち破ることは
決してできない。」 
と、宣言したのです。


ヨハネ福音書に戻りましょう。

すでに、イエスが父の元に帰って行く日が迫っており、イエスが、弟子たちに、直接話す機会は、
これで最後、というこの重要な時に、イエスは「ヨハネの子、シモン。」と言って語りかけました。

「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」

「この人たち以上に、わたしを愛しますか。」
 
この訳には疑問があります。イエスが他の弟子と比べて、「わたしを愛しますか。」 
などと言う質問を、絶対にする訳ないと思うからです。そもそも、他の弟子たちと比べたところで、
誰ひとりとして、たいした愛を持っていないのだから、彼らと比べたところで、
どうってことない。 ということを、一番、ご存知なのは、イエスご自身なのです。
イエスを愛することに関して、この時点で見るならば、全員、どんぐりの背比べでした。

ここの原文の訳は、「これら以上に、わたしを愛しますか。」

黄色の表紙のバイリンガル聖書では、
「Simon son of John, do you truly love me more than these?」
「この人たち以上に、」
ではなく、「これら以上に、わたしを愛しますか?」
と、イエスはシモンに質問したのです。

「これら以上に、わたしを愛しますか?」

イエスが比べたこれらのこととは、何だったのでしょうか。

イエスは、ご自分に対するシモン・ペテロの愛を、一体、何と比べられたのでしょうか。

イエスがペテロを食事に招く直前、ペテロは何をしていたかというと、153匹の
大きな魚が入った網を、たった一人で陸地に引き上げたことです。そして、
その大漁の魚を数えて、153匹あった、と歓喜していたのです。

ペテロの性質、思考、性格をよくよくご存知のイエスが比べたものは、この出来事ではなかったか、
と私は思います。イエスが語ることばよりも、「自分の考えの方が合っている。」
とすぐに思いやすく、目の前で起きる出来事に、すぐ有頂天になり、自分が一番であることを
証明したがり、目立ちたがりやのシモンの性質を、よくよく熟知しているイエスが、
最後の食事の後に、彼に言い残したことばは、

「これらのこと以上に、わたしを愛しますか。」

「あなたが例え、どんなに成功体験をしようとも、それらすべてにまさる、
最優先の愛で、わたしを愛しますか。」 
とイエスは聞かれたのではないかと思います。

原文のギリシャ語では、アガペー、ということばが使われています。

神が人へ対するアガペーの愛を、言葉で説明ならば、私たち一人ひとりを、永遠のいのちに導くために、神がご自分のいのちを捨ててまで、成し遂げてくださった、捧げ尽くす無償の愛、とでも言えますでしょうか。

神の絶対的な真理から外れ、自分を中心にした善、悪という考えに翻弄され、的外れと、自己中心が犯す、人間の激しい罪の全て、その残虐さ、傲慢の全てが、イエスに向かってぶちまけられた十字架。その激しい痛みの中で、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からないのです。」 
と父に向かって祈られた、イエスの捧げ尽くすアガペーの愛。

まさかイエスが、ペテロに向かって、この愛を要求しているはずはないと思われます。

それでは、私たちが神に捧げるアガペーの愛とは、何なのでしょうか。

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。」

これが、人が神に捧げることのできる、アガペーの愛。
尽くす、という実質が、最優先の愛、ではないかと思います。

ではなぜイエスは、今になってペテロに、「最優先の愛で、わたしを愛しますか。」 
と聞かれたのでしょう。
余りに突然のイエスの質問に、ペテロ自身は戸惑ったでしょうね。

しかしイエスには、こう彼に語らねばならない必然があったのです。

それは、「わたしの小羊を飼いなさい。」と言われたことを、ペテロに実現させるためであったと、私は考えます。イエスはヨハネ14章15節でこう語りました。

「もしあなたがたが、わたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」

「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人は、わたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」(ヨハネ14:21)

“イエスは彼らに答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人と共に住みます。」”(ヨハネ14:23)

また、こうもイエスは言われました。
「わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。」

この地上に受肉して来られたイエスは、徹頭徹尾、そのいのちと愛を、父なる神と共有していることを、語られました。そして、その愛し合う関係があることによってのみ、戒めを守る事ができるのだと。
戒めを守る原動力は、愛し合う関係によるのだ、と語られたのです。イエスご自身、父との愛によって、
父の召し、十字架を全うされたのです。

「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。」

それはとりもなおさず、イエスが天のみ国に帰られたとしても、イエスを愛する者は、徹頭徹尾、いついかなる時にでも、聖霊によって、イエスの愛といのちを共有する者であり、
すべてにまさるイエスへの、第一優先の愛によってのみ、イエスが言われる戒めを
守る事ができるのだということを、弟子たちに、また弟子たちの宣教によって新しく生まれた、
神の子供たちに、そして、2千年たった後の、私たちにも知らせるために、3度、繰り返し、繰り返し、
語られたのであろうと思われます。

ではなぜ、イエスの愛といのちで、しっかりと結び合わされていなければ、イエスが言われた
「わたしの小羊」
を飼うことができないのでしょうか。

それは、イエスの十字架によって、私たち全人類が犯した、罪の赦しが、神の側では完全に成し遂げられ、神と人との和解が回復された。そして、アダムから継承されてきた罪のDNAを持った魂が、イエスの十字架の死によって共に死に、イエスの復活のいのちによって、
新しく神の子として誕生する準備が、神の側では、すべて完成したのです。

この神側の事実を、全世界の人々に伝えるために、イエスは今、目の前にいる弟子たちに
委ねられたのです。また、十字架と復活によって、神と人との和解が実現しただけでなく、
遠く隔てられていた、ユダヤ人と異邦人、という隔ての壁も、完全に打ち破られた事実を、この地上の人々に伝えていく、という非常に困難な働きを、助け主である聖霊を
送られて、弟子たちに託すためでした。

イエスが一番初めに、「わたしの小羊を飼いなさい。」と言われた、「わたしの小羊」とは、異邦人を指し示すことばでなかったか、と思います。次に出てくるのは、
「わたしの羊を牧しなさい。」と言われた「わたしの羊」は、ユダヤ人に対してではないかと、
思えてなりません。

イエスはヨハネ10章16節でこう言われました。
「わたしにはまた、この囲いに属さない、他の羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、ひとつの群れ、ひとりの牧者となるのです。」

割礼を受け、律法を持っているユダヤ人と、割礼を受けていない、律法も持たない異邦人との間には、ハッキリとした明確な隔ての壁があり、イエスが、十字架と復活によってひとつとされた神側の実現は、長い歴史を営んできた弟子をはじめとするユダヤ人にとっては、
余りにも非常識、余りにも理解不能な出来事、余りにも受け入れがたいことだったのです。

しかしイエスは、ペテロに向かって、「自分の常識、自分の経験、自分の理解よりも、それら一切を超えた愛、最優先の愛で、わたしを愛しますか。」このことばを、2度繰り返され、

「さあ、わたしを愛する愛で、わたしの小羊を飼いなさい。」「わたしの羊を牧しなさい。」「わたしの羊を飼いなさい。」と、これまた3度、繰り返されたのです。

「わたしを愛しますか。」、「わたしの羊を飼いなさい。」を、別々のこととして、
切り離して語ったのではなく、ひとつのメッセージとして、繰り返し、繰り返し語られ、
ペテロの心に、また、他の弟子たちの心に刻み付けるために、3度、語られたのです。

イエスが意図された、異邦人にも救いが及んでいる、という事実は、イエスが昇天された後、
五旬節の祭りの真っ只中で、天から激しく聖霊が下った後の、実際には、
使徒の働き10章で、実現していきます。

しかし今、目の前にいるペテロは、イエスが言われたとおり、霊的にはまだまだ未熟な、
「ヨハネの子、シモン」であり、これから起きる、聖霊降臨によって、全く新しく変えられることなど、夢にも思っていないシモンの姿が、イエスの目の前にいるのです。