生きる答え~希望と絶望の狭間~
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絵の才能。

小学5年生の時の事だ・・・。

図工の時間に風景画を描いていると、おれの後ろに回り込んだ担任の教師が、おれの手元を見るなり、いきなりおれの絵を詰り始めた。

「なんだ!?その漫画みたいな雲は?」・・・「真面目にやっているのか?」・・・「お前の絵は〇〇の次に下手だ」

特定の〇〇とは、特殊学級児童の名前であるのだが、特殊学級児童は、学年に5名ほどいた気がしるので、その教師の言葉を鵜呑みにしるのならば、おれは、他の特殊学級の児童よりも劣る絵を描いていた、といふ事になる。

今振り返っても、おれがどのような雲を描いていたのかは全く想いだせん。

が、しかし、その教師が「上手い」としる枠の中には、おれの絵は完全に含まれていなかった事だけは確かだ。




おれは、その事が悔しくて、情けなくて、その日、家に帰るや、絵の具道具を抱え、近くの神社へと向かった。

絵を描き直そうと思ったのだ。

とにかく、「先生に褒められる」ような絵を描きたくて、それはそれは丁寧にして、日が暮れるまで、神社の境内の隅に座り夢中で絵を描き続けた。

なんとしても、次の図工の時間までにその絵をカタチにしたかったおれは、家に帰ってからもその作業を続けた。




そして、遂にきた図工の時間、おれは、初めから描き直した絵を、少し誇らしい気持ちで机の上に広げ、教師が自分の傍にやってくるのを固唾を呑むようにして待っていたのだ。

「よくやった」・・・そう褒められると思っていた。

しかし、その気持ちは、その教師によって、ものの見事に踏み躙られる事となる。

その教師は、おれの描き直した絵を見るなり、「今さら描き直しても遅い!前の絵を出しなさい!」と、無情にもそう言い放ったのだ。

・・・ショックだった。




それから先の事は全く記憶にない・・・。




ただ、おれは、その出来事以来、絵を描く事がさっぱり嫌いになった。

今も、絵を描かせられたら、幼児にも劣るような絵を描く。

ひょっとしたら、あの時、それなりにあったかも知れん絵の才能は、あの忌々しい教師の言葉により、根こそぎ摘み取られたのかも知れない。




その教師は、父兄よりの信頼も厚く、児童に好かれ、「良い先生」とされていたため、、おれも周りに合わせていた節があるが、心の中では大嫌いだった。

おれを怒る際には、「お父さんはあんなに立派な人なのに」と言ってたっけ。

その度に「なんで父親の事を持ち出すのか?」と、子供ながら納得ならんかった事を記憶している。




時折、「絵の上手い人はいいなぁ・・・」と思ったりもしるが、自分で描いてみようとまでは思えない。

子供の頃のトラウマを、何気にこの年まで引きずっている事哀れな気がしる・・・。

思えば、心に幾つものトラウマを抱え、それを隠し続けている自らを知る・・・。







しゃちょの生きているといふこと。

町内対抗野球大会。

小学校の高学年になると、野球熱に拍車がかかった。

おれが通う小学校には、まともな部活なんてなかった事から、その情熱は、夏に開催される「町内対抗野球大会」に向けられていた。

町内の子供が集まって始まる自主的早朝練習は当然の事、父とも、よく、小学校のグラウンドやら、家の前の小路でキャッチボールをした。

そんな想いでの中に、目的や目標が、人を向上させる大きな力になっている事を思い知る。

町内対抗で勝ちたかったおれたちは、誰に強制されるでもなく、自らの意思で、早朝より白球を追い続けたのだ。




その努力は、5年生時の「町内対抗野球大会」において、優勝といふカタチで報われる事となった。




優勝旗を掲げ、各々の胸にメダルをぶら下げたおれたちは、まるで、何かのヒーローみたいにして誇らしげに、町内の端から端までをパレードして周った。

町の勝利が小さなスターを生むような、そんな優しい時代だった・・・。




6年生時にも、連覇を狙い、あほみたいに練習したが、投手のおれは、投げすぎで肩を痛め、本番では思ったような力を発揮でけなかった。

準決勝の際には、遂に打ち込まれ、肩の激痛も手伝い自らマウンドを降りたおれは、サードのポジションに行くとガックリと肩を落とした。

たまたま3塁に進塁していた敵チームにいた親友に、「頑張れ」と声をかけられ号泣したっけな。




その年の我がチームは3位だった・・・。




人は、きっと、夢中になれる何かを、与えられた自らの人生の中に見つけるべきだ。

人が本当に美しいのは、ただ愛されている時ではなく、愛している時であり、人が本当に美しいのは、ただ生きている時ではなく、生き抜こうとしている時だから・・・。

時々、自らの意思により懸命に生きている人に感動を覚える。

と共に、やらされてる感満載の中に佇む人に悲惨を感じる。

人生が一度きりだといふ事を、何故、多くの人が、知らないふりをして生きていようとするんだろーか・・・?







しゃちょの生きているといふこと。

当たりの棒切れ。

小学校高学年になると、ガキ大将的な本性がムクムクと顔を出し始めた。

学校より帰宅後、家の前の小路では、おれの独裁的不条理な行いが、徐々に執り行われるようになって行った。

時に、調子に乗り過ぎ、「近所の友だちの頭に小便をかける」といふ訳の解らん行為に及び、ちょっとした騒動を巻き起こしたりした。

その際には、さすがに、小便を浴びせられた親が黙ってはおらず、おれは、泣きながら、小便まみれとなった友だちに侘びを入れるといふ、全く持って無様な姿をそこに晒した。




それでも、なお、おれの暴虐ぶりは不条理さを増し、ある日の事、道端に落ちていた棒切れを拾い上げたおれは、何を思ったのか、その棒切れを「これは当たりだ!」と言い出し、近所のいじめられっ子に、「これをアイスクリームに換えて来い」と命じるのだった。

いや、しかし、哀れだ。

ただの棒切れを「当たり」と言われて渡された、いじめられっ子の悲惨が切な過ぎる。

そのいじめられっ子は、仕方なくその棒切れを持ち、そこから50メートルほどの距離にある駄菓子屋に向かって行った。

その駄菓子屋は、いじめられっ子が棒切れを持って入って行くのをはっきりと確認でける距離にあった。

しばらくしると、右手に棒切れを握ったままのいじめられっ子が、何処か申し訳なさそうな顔をして戻ってきた。

いや、この時点で、彼の取った勇気は褒め称えられて然るべきだのだが、おれは、なんの労いの言葉をかけるでもなく、「アイスは?」と、それでも更に不条理な事を言い続けるのだった。

「換えてくれなかったのか!?」といふおれの問いに、彼は黙って頷いた。

「なんて言われた?」とのおれの問いには、「なんだこれ?と言われた」と答える彼・・・。




爆笑した。




そして、彼が、駄菓子屋に入って行ったのをしっかりと確認しているといふのにだ・・・「お前、何処の店に行ってきたのだ?」と、行ってきた店を問いつめるおれ・・・。

「〇〇屋・・・」と答える彼に対し、「ばか!〇〇屋に行ったって換えてくれねぇがいや!〇〇に行ったら換えてくれるからもう一回行ってこい!」と、更なる試練を与えようとしるおれはまさに鬼だった・・・。




確認しるが、おれが彼に持たせているのは、道端に落ちていた長さ20cm程度のただの棒切れだのだ。

それを「当たりだからアイスに換えてこい」と言われ続けている幼い彼の心の断崖絶壁ぶりは、大人になってこそ理解でける危機的心理状態だ。

そして、棒切れを持たされたまま出張させられた彼は、その日再びおれの前に姿を見せる事はなかった。






いじめられっ子だった彼は、きっとたくましく成長し、大人になり、やがて結婚・・・今では、事業主といふ、立派な立場にあると聞く・・・。

いじめる側だったおれは、その後、社会にあぶれ、結婚などしてみたもののやがて離婚、未だ独りぼっちだ・・・。




あの頃、いじめられていた子供たちは、きっと知らずに心が鍛えられていたんだろうなぁ・・・なんて考える・・・。

だから、たとえ今が悲惨かろうと、卑下しる必要など何もないのだ。

人は、勝つ事よりも、負ける事から多くの何かを学び取る。

勝ち続ける人の心は、案外もろいものだよ。




そう思う・・・。







しゃちょの生きているといふこと。
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