文学遺址研修4(適塾跡~懐徳堂旧碑) | Takeblog ~たけぶろ~

文学遺址研修4(適塾跡~懐徳堂旧碑)


Takeblog ~たけぶろ~-中央公会堂1   Takeblog ~たけぶろ~-大阪市中央公会堂  
大阪市中央公会堂(ちゅうおうこうかいどう) 大阪市北区中之島1-1 

   

大阪市中央公会堂(旧中之島公会堂)は1911(明治44) 北浜の風雲児と言われた

株式仲買人岩本栄之助が当時100万円を寄付し建設されました 日本近代建築史上 

重要建築物として現在国指定重要文化財にも認定されています 

  

大阪市民に永く親しまれ過去にはロシア歌劇団の公演.アルベルト・アインシュタインを

始めヘレン・ケラー.ガガーリンなど歴史的人物の講演も行われています 岩本栄之助は

第一次大戦による相場変動で大きな損失を出し 公会堂の完成を見ないまま1916年

(大正5年)に自殺しました 日本で先駆けた洋風建築の様式と名残を感じ取れます 

   

   
Takeblog ~たけぶろ~-北浜長屋   Takeblog ~たけぶろ~-北浜吉田  
江戸時代末期頃まで大阪商業の中心地は船場で北浜.中之島は野原(郷)でした

後の戦災による消失を免れた北部は今でも貴重な史財を至る所に見る事が出来ます 

  

市内北部はそのまま存続されている地名が多いのに比べ 船場以南は空襲などの

戦災で焼け野原になった経緯もあり 後の大阪史に大きな差異を見る事ができます 

  

  
Takeblog ~たけぶろ~-適塾2   Takeblog ~たけぶろ~-適塾1  
適塾(適々斎塾/てきじゅく) 大阪市中央区北浜3-3-8 

  

蘭学者.医者として知られる緒方洪庵が天保九年(1838)に大坂船場に開いた蘭学私塾

正式には適々斎塾(てきてきさいじゅく)と言います また適々塾とも称されます 

洪庵の号である“適々斎”が名の由来 幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く

輩出し 現在の大阪大学(医学部)源流の1つとなっています 

  
Takeblog ~たけぶろ~-適塾   Takeblog ~たけぶろ~-緒方洪庵像  
大村益次郎.橋本佐内.福沢諭吉など幕末.明治維新の大立者が代表的で故手塚治虫の

曽祖父良庵も当塾出身です 治虫作“陽だまりの樹”にも塾の様子が書かれています

塾生は畳1枚分の割り当てられた場所に寝るか机に向かうかのハードな学風で 幕末期

に希望と使命感に燃え勉学に打ち込んだ塾生達の熱い息吹を今も感じます   

   
Takeblog ~たけぶろ~-緒方洪庵  
緒方洪庵(おがたこうあん) 武士.足守藩士.医師.蘭学者(1810~1863) 

  
江戸.長崎で医学.蘭学を修めた後 大阪瓦町で適塾を開き 塾生は後に維新の大立者を

多く輩出しました 日本近代医学の立役者としても有名です 
  

  
Takeblog ~たけぶろ~-愛珠幼稚園   Takeblog ~たけぶろ~-愛珠幼稚園1  
愛珠幼稚園(あいしゅようちえん) 中央区今橋3-1-11 

   
明治13年(1880) 船場町民達により設立された全国に先駆けた幼稚園 同時に現存する

幼稚園の中で最も古い歴史ある御殿風建物です 園名は白園書院院主藤沢南岳の選 

「主人花を愛すること 珠を愛するが如し」袁士元の漢詩が由来になっています 


Takeblog ~たけぶろ~-愛珠幼稚園2  
日本最古の木造園舎でありながら遊戯室は明るい環境で遊べる様に開発された構造で

吹抜けになっています 天井は寺院などに見られる格天井 建設当時からのシャンデリア

が今も飾られています 防音.防湿対策が施された二重床やバリアフリー構造など

当時 主席保母の意見を基に大阪府と文部省専科2名で設計が為されました   

  
Takeblog ~たけぶろ~-懐徳堂跡1   Takeblog ~たけぶろ~-懐徳堂跡旧碑  
懐徳堂旧阯碑(かいとくどうきゅうしひ) 中央区今橋3-5 

   
享保九年(1724)三宅石庵.中井甃庵を教授に迎え 豪商五同志(三星屋武右衛門.

富永芳春“道明寺屋吉左右衞門”.舟橋屋四郎右衛門.備前屋吉兵衛.鴻池又四郎)が

出資して大坂尼ヶ崎町(現大阪市中央区)に設立されました 教養としての学問でなく 

実用的学問を主旨とし 八代吉宗時に幕府から“大坂学問所”として公認されました 

   

武士が幅を効かせていた江戸時代にあっても大坂では武士は人口の1割に満たず 

民主主義の精神が根強く有り 武士が上座などの習慣を廃止 立場が低く貧しくても

学ぶ意欲があれば誰でも講義に出席出来る仕組みにし 商人の都合に合わせて

早退.遅刻も出来る風習でした 当時“商売”を卑ずむ風潮の中 懐徳堂では

商売を高く評価し 何よりも大切な“人の道”を説いた事で全国でも有名塾になります 

  

140年以上の歴史を歩んだ懐徳堂も明治二年(1869) 閉塾に追い込まれます しかし 

西村時彦(朝日新聞“天声人語”の名付け親)が中心になり 大正五年(1916)場所を

移し再建されました 昭和二〇年(1945)大阪空襲に拠り書庫を残し全焼します 

蔵書36,000冊は全て大阪大学へ寄贈 懐徳堂文庫と名を替え現在も管理.研究が

行われています