国鉄標準型時計

[管理人メッセージ] 

ご多忙の中 ご訪問ありがとうございますm(_ _ )m 管理人“たけ”です 

“たけぶろ”は 青年の視点で“見て感動する事/学ぶ事”を主題に綴っています 

現在ブログは各分野毎に分別しています 以下リンク先をご参照下さい 

 

FaceBook“たけぶろ公式ページ”  ご要望につき作成しました 

1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>
2016-11-15

兵庫神戸-大輪田泊と平清盛縁の地を訪ねて2

テーマ:日本史再学

兵庫15  

能福寺  
寺伝では805年(延暦24)に伝教大師最澄により能福護国密寺として創建されたとされており 日本最初の密教教化霊場と称する天台宗の仏教寺院です 平清盛所縁の寺としても知られており 1180年(治承4)には福原京遷都計画に伴って平家一門の祈願寺に定められた事で 大伽藍が建設され大いに栄えました 

 
兵庫16  

兵庫大仏 

1891年(明治24)に豪商/南条荘兵衛の寄進により大仏が建立 この大仏は1944年(昭和19)に金属類回収令で国に供出されるまで日本三大大仏の一つに数えられました 

 

現在の大仏は1991年(平成3)に再建されたもの 毘廬舎那仏(光明遍照)像で像重量約60㌧/像高11㍍/蓮台と台座を含めると高さ18㍍になる巨大な坐像です 1991年5月の開眼法要には東大寺管長/高徳院貫主が臨席しました 
 
兵庫17  
兵庫18  
平相国廟(清盛塚) 
太政大臣を辞して福原(現在の神戸)に拠点を移し替えた清盛はこの地能福寺で出家します 清盛が京都で亡くなり荼毘に付した後 能福寺の住職/円実法眼がその遺骨を持帰り 能福寺領内にあった八棟寺に廟を造営したとされています 

 

しかし廟完成直後に平家は滅亡 福原の町と共に能福寺は焼払われてしまいます そして1286年(弘安9) 時の執権/北条貞時は嘗ての清盛を偲び十三重の石塔(清盛塚/後述)を建立します 

 

奇しくも1980年(昭和55)の平清盛800年忌を機に 能福寺内に清盛の墓を再建する運びとなり 現在の平相国廟が再建されます 中央が清盛塚を模した十三重石塔 右側は清盛側近の一人であり 能福寺住職として遺骨を福原に持帰った円実法眼の宝篋印塔 左側は清盛の甥で平家滅亡後は幕府/朝廷より崇敬され 源平の合戦で焼かれた能福寺を再興した忠快法印の九重塔供養塔です 

 
兵庫19  
兵庫20  
滝善三郎 供養碑(神戸事件 ) 
大政奉還を経て明治新政府政権となって初めての外交事件“神戸事件”で責任を取り切腹した滝氏の供養碑 この時以降 明治政府が対外政策に当たる正当な政府であるという事を諸外国に示しました また朝廷がこの時まで唱えていた攘夷政策を“開国和親”へと一気に方針転換させた転機でもありました 

 

非運というか…この時の外国人の横入り行為は 当時の日本からすれば武家諸法度でいう“共割(非常に無礼な行為)”で 滝氏の取った行動に非は無いと自分は思っています 武士たらんとした滝氏の無念はいかばかりだったか 深く敬礼と手を合掌してきました 

 
兵庫21  

 
和田の笠松  
兵庫22  
和田の笠松歌碑(真光寺横/須佐野公園) 

和田の笠松は昔往事須佐の入江の浜に聳え 入港船の目標/東西往環の目印の松として有名でした 明治20年頃までは松の下に稲荷がありましたが のち住吉神社の境内に移籍 笠松も次々と植え継がれていましたが 昭和の戦火により焼失 現在地元の協力で新松が植えられています 

 
和田の笠松2  
“笠松の歌碑”は元々小河公園内にあったものが移設されて現在の位置に 

 

兵庫23  
真光寺  

仁明天皇(833年~850年)の頃 恵萼が唐より観世音を持帰るも和田岬で船が動かなくなったので 堂を建てて祀ったのが始まりといわれています 清盛七弁天のひとつ 時宗の仏教寺院 

 

建治2年(1276)一遍上人がこの観音堂に住して中興開祖となり51歳で遷化 遊行2世他阿上人が寺を建て 伏見天皇から真光寺の名を賜り時宗の寺となり今に至ります 
 
兵庫27  
如来塔(無縁仏) 

 
兵庫26  
兵庫25  

一遍廟所 

 
兵庫29  
兵庫28  
石造五重塔-兵庫県指定重要文化財 

五輪塔は総高195㌢で花崗岩でできています 阪神淡路大震災でこの五輪塔が倒壊した折 初めて遺骨が納められている事がわかりました 遺骨は直径10㌢/高さ9㌢の備前焼小壺に納められていました 壺自体は後世のものですが遺骨は一遍上人のものである可能性が高いという事です 

 
兵庫30  
 

兵庫36  
兵庫31  
清盛塚 十三重の塔 

高さ約8.5㍍の十三重石塔 本来現在の場所より南西11㍍の場所(交差点真ん中)にありましたが 大正11年(1922)に市電松原線の道路拡張工事に伴い移転される事になり その際の調査で遺骨は発見されず 現在は供養塔として認識されています (能福寺の平相国廟十三重塔はこの清盛塚を模したもの) 
 
兵庫32  
 
兵庫34  
琵琶塚碑 

平清盛の甥で琵琶の名手と謳われた平経正の塚 
 

平清盛の墓所は現在もどこなのかが判明しておらず 歴史上の謎の一つになっています ここ清盛塚以外にも京都市東山区松原/六波羅蜜寺にも平清盛塚があり 同じく京都の右京区祇王寺にも供養塔があります さらには山口県下関市彦島にも清盛塚があります これらの場所は伝承などによって墓所ではないかと有力視されています 清盛ほどの人物であれば 縁のある土地に分骨が行われた可能性は大きいでしょう 

 
兵庫37 

清盛橋 

 
兵庫39  
兵庫38  
薬仙寺  

寺伝によれば千憎寺塔頭の一つとも伝え 天平年中(729~748)行基の開山  天平18年(746)に日本で最初の施餓鬼会を行ったと伝えています  『摂津名所図会』に「往古の本尊は薬師仏にして天台宗なり」とあり 延文年中(1356~1360)に京都の霊山国阿(時宗8世)が中興し時宗に改宗 
 

福聚庵/普照院/荷松院/慈眼院/大光院/世尊院/全真庵の坊舎七字のうち 現在は普照院のみが残っています 現在の本堂は昭和48年に再建されたもの 

 
兵庫47  
大施餓鬼会日本最初道場碑 

“施餓鬼”は「餓鬼に施す」の意 施餓鬼会は六道輪廻の餓鬼道に堕ちた衆生のために食物を施し その霊を供養する法会です 実際には“盂蘭盆会”として旧暦7月15日に行われるのが一般的です 
 
兵庫40  
兵庫42  
後醍醐天皇薬水(薬師出現古跡湧水) 

建武年間(1334~1337)後醍醐天皇が隠岐島より帰京の途次病気となり この霊泉で薬を調進するとたちまち平癒され 薬仙寺の号を賜わったという伝承があります 

 
兵庫41  
萱の御所跡碑 

別名“牢(楼)の御所”とも呼ばれ 清盛が後白河法皇を幽閉した建物跡 三間四方の粗末な造りだったそうです 伊豆国に流された際に源頼朝と出会った文覚(もんがく)上人は 後にこの御所に忍び入り平家追討の院宣を賜ったと伝えられています 

 
実際の萱の御所は北東方向約100㍍夢野にあった平教盛邸にあったとする説が有力で 運河の拡張工事によって水中に没したため 碑を薬仙寺内に移したとされています 
 “萱の御所跡”と書かれた碑は二本あり 低い方が古い碑/大きい碑が破損のため再建したものです 

 
兵庫43  
花山法皇歌碑 

第65代花山天皇(968~1008)は若くして妻を失い また藤原氏の策謀で退位し19歳の若さで出家し 三田市の花山院に隠棲しました こよなく大輪田の海を愛し しばしばこの寺に逗留したと伝えられています 

 

「有馬富士 ふもとの霧は海に似て 波かと聞けば 小野の松風」 

 
兵庫44  
詠歌踊り念仏連名 右)萬延元年碑(1860) 左)嘉永5年碑(1858) 

時宗開祖の一遍上人は踊り念仏とお札くばりを(南無阿弥陀仏のお札をくばって歩く)布教の中心として全国を遊行しました そして正応2年(1289)この兵庫の地で没しました この関係で兵庫津では踊り念仏が盛んでした また江戸時代から福原西国巡礼も盛んとなり 御詠歌と踊り念仏を融合させた娯楽的な兵庫の庶民的芸能が生まれました この連名には兵庫津の有力町人や夫人達の名が記され 踊りが盛んであった様子が伺われます 民間芸能研究の貴重な資料の一つとされています 

 
兵庫45  

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2016-11-12

兵庫神戸-大輪田泊と平清盛縁の地を訪ねて1

テーマ:日本史再学

兵庫ノ津2811  

津中惣絵図(兵庫津之図)文久二-早稲田大学図書館 

奈良時代に大僧正/行基 が開いたとされる播磨/摂津合わせて5箇所の要港“摂播五泊 ” その五泊の一つ“大輪田泊 (おおわだのとまり)”や平清盛公と縁の深い寺社などを巡見してきました 

 
平清盛2811  
平清盛 (たいらのきよもり) 1118~1183 平安時代末期の武将/公卿 平氏棟梁 

伊勢平氏の棟梁/平忠盛の長男として生まれる 保元の乱で後白河天皇の信頼を得 平治の乱で最終的な勝利者となり武士として初めて太政大臣に任せられる 日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い 宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き 日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権) 

 

のち平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し 治承三年の政変で法皇を幽閉して娘徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが 平氏の独裁は貴族.寺社.武士などから大きな反発を受け 源氏による平氏打倒の兵が挙がる中 1183年熱病で没した(享年64) 
 
兵庫01  
大輪田橋から見る大輪田(築島)水門 
大輪田泊は現兵庫県神戸市兵庫区一帯に所在していた港で 現在の神戸港西側一部に相当します 別称“輪田泊(わだのとまり)”ともいい 古くは務古水門(むこのみなと)とも称しました 平安時代末期~鎌倉時代前期にかけて日宋貿易で栄えた港 中世では兵庫湊(ひょうごのみなと)と呼ばれていました 

 
兵庫02  
兵庫03  
古代大輪田泊の岩椋 

“石椋”は 石を積み上げた防波堤(波消し)や突堤の基礎港湾施設であったと考えられています 

この花崗岩の巨石は 昭和27年の新川橋西方/新川運河浚渫工事の際 重量4㌧の巨石20数個と一定間隔で打込まれた松杭と共に発見された一石です 当時は平清盛が築いた経が島の遺材ではないかと考えられていました  

 
経が島2811  
経が島と築島寺絵図(摂播記) 

1180年(治承4)平清盛が京都から兵庫の福原へ都を移した時 大輪田泊(兵庫港)を整備し防波堤の役割を果たす経が島を造設しますが場所が早潮のため工事は大変難航します この時無事の竣工を願い自ら願い出て人柱になったのが 讃岐香川領主大井民部の子“松王丸(享年17)”でした 
 
兵庫04  
兵庫06  
兵庫07  
築島寺 と松王丸入海之碑 

築島寺(つきしまでら)は通称で 正式には経島山来迎寺(きょうとうざんらいこうじ)という寺号をもつ寺院 清盛七弁天のひとつ 縁起によると 寺院建立の目的が人柱となった松王丸の菩提を弔うためであった事から 時の帝/二条天皇の勅命により 特に寺院建立の前にその号が与えられたのだそうです 

 
兵庫12  

祇王,祇女の塔 

松王丸供養塔のすぐ横には 平家物語で清盛公に寵愛を受けた白拍子の名手 祇王とその妹祇女の墓がひっそりと仲良く佇んでいます (参照/平家物語-祇王.祇女.仏御前 ) 

 
兵庫11  
兵庫13  
札場の辻跡(兵庫県神戸市兵庫区本町2丁目角) 

“札場”とは幕府が設置した高札場があった場所の事です 高札場とは町人が守るべき事してはならぬこ事 その他幕府からの布達を掲示する場所 こちらには札場の辻跡として道標のみが残っています 
 
兵庫14  
江戸時代 西国街道は兵庫の町東入り口である湊口惣門を潜って 兵庫津に入っていました それから湊町/本町を経て南仲町の辻に出ます ここを右折して神明町/北逆瀬川町/東柳原町を経て西柳原町へ出 西入り口である柳原惣門を抜けて須磨/明石方面へ向かいました 

 

南仲町の辻は兵庫の中心地に当たり ここに大きな高札場(幕府の布達等を掲示する場所)があったので 俗に“札の辻”とも“札場の辻”とも呼ばれていました 

 

兵庫の高札場はここと東西惣門と来迎寺(築島寺)前の4ヶ所にありましたが ここが兵庫の中心であった事から南仲町のものが有名になっています 明治元年幕府の高札は廃されましたが 新政府に引き継がれ太政官名で掲示され 慶応四年まで継続設置されていました 

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2016-11-11

メモ281113

テーマ:大阪文化再学
AD
コメント(0)  |  リブログ(0)
2016-11-10

坂越(さこし)-播州赤穂の港町

テーマ:自然/風景/海外/遺跡

さこし2801  
さこし2803  
坂越 (さこし) 兵庫県赤穂市坂越町 

赤穂市東部の坂越湾に面し 播磨灘に位置する天然の良港坂越浦へ 渡来人であった秦氏や数々の南北朝時代の伝説が残る古くから開けた港町です 地元に残る旅人伝承記録を見ると 坂越が瀬戸内往来の重要な中継地として長くあった事が窺えます 

 
さこし2804  
二駅向こうは備前岡山の地 大坂より故郷福山の方が近いという事実w 

この瀬戸内沿線ならではの鄙びた一直線に伸びる鉄路は 子供の頃より見慣れた風景 

 
さこし2805  
駅から坂越の港町へは徒歩20分程 途中一級河川千種川を跨ぎます 

 
さこし2806  
さこし2807  
都市景観大賞(都市景観100選)に選ばれた伝統的建造物群による古き良き町並み 

 
さこし2802  
秦河勝聖域の島-生島(国の天然記念物/瀬戸内海国立公園/ひょうごの森百選)を囲むように広がる坂越湾の美しい眺望 坂越は四季折々の貴重な行事や祭礼 それに伝わる伝統芸能も数多く保存伝承されており 中でも大避神社祭礼“坂越の船祭り”は 瀬戸内海三大船祭りの一つに数えられ 国の重要無形民俗文化財に指定されています 

 
さこし2809  
播州赤穂産“坂越かき”ブランドとしての牡蠣養殖生産地としても有名です 

ここの牡蠣はわさびやでも沢山のお客様にご賞味頂きました 

 

そして赤穂唯一の醸造元 奥藤商事さんへも 蔵元見学の詳細はわさびやブログ“侘寂伝文”にて 

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2016-11-09

[NHK大河]真田丸出丸城跡オープンセット

テーマ:大阪文化再学

丸28101  

VFXコーディネーター/深瀬雄介氏が描いた真田丸イメージスケッチ(6回も書き直ししたそうです) 

このスケッチを元に考証を重ね 更にアイデアを盛り込んでオリジナルの真田丸オープンセットとVFXをNHKが制作しました 45回「築城」にて満を持しての登場です 

 
丸28102  
丸28104  
丸28103  
草を刈り堀を掘り そして土を盛り上げて土塁を築くのに約3週間 そこから塀や櫓などのセットを建てるのに凡そ1週間 トータル約1ヶ月の工期でオープンセットを制作 当時の真田丸のおよそ1/5を再現しました 

 
丸28105  
ショベルカー2台で作業を行い 深さ4.5㍍の堀を作り 掘った土を積上げて高さ3㍍の土塁を築きました 資料に基づき空堀にする予定でしたが ロケ直前の台風の影響で人の背丈ほどの水が堀の中に埋没w 急遽4~5台のポンプを稼働して水抜きを行うアクシデントもありました 

 
丸28106  
丸28107  
丸28108  
真田丸の塀は挾土秀平氏が制作されたタイトルバックを意識し 赤土を使って仕上げました 塀の高さは3㍍ 内側は二層階式で上下交互に鉄砲を放つことができ 間を開けず常に連射が可能です 下段にある狭間は遠くの敵を欺くために開閉式としました 

 
丸28109  
丸28110  
史実ではないかもしれませんが 真田丸のシンボル・タワーとして物見櫓を設置 ここから真田信繁(幸村)が徳川軍を見渡します 

 
丸28111  
地形の不利を解消し 真田丸に向けて鉄砲を放って攻撃するために徳川軍が築いた築山(つきやま)も再現 考証チームの先生方が絶賛するクオリティーの高さです 

 
丸28112  
丸28113  
VFXで再現した真田丸の全貌 砦の周囲を囲み真田丸を再現 奥には大坂城を描きました 

 

この真田丸オープンセットは千葉県某場所で8月に作成 9月に大坂冬の陣の撮影が行われ エキストラは250人が参加したのだそう 自分も住まいが近かったら絶対参加してただろうな(笑) 

 

実際の真田丸跡近くに住む自分として 是非大河ドラマ後も予算があうならこのセットは残して欲しい 時間を作ってでも見に行きたいです 

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>

AD

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス

      ランキング

      • 総合
      • 新登場
      • 急上昇
      • トレンド

      ブログをはじめる

      たくさんの芸能人・有名人が
      書いているAmebaブログを
      無料で簡単にはじめることができます。

      公式トップブロガーへ応募

      多くの方にご紹介したいブログを
      執筆する方を「公式トップブロガー」
      として認定しております。

      芸能人・有名人ブログを開設

      Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
      ご希望される著名人の方/事務所様を
      随時募集しております。