栗林あや(いがぐりこ)です。
昨日は、実家じまい最後の日でした。
私が生まれてから18歳まで暮らしたこの家は、
私の母にとっては40年以上もの思い出が詰まった場所でした。
家具がなくなったことで、昔の姿が思い出されました。
薄暗かった壁紙の色、襖の模様に
階段のコンクリートが欠けた形など、
全てが私の記憶に
深く焼き付いていました。
何もないこの部屋に、
子供の頃の私がまだ存在していて
はしゃぎながらドタバタと駆け回っているように感じました。
心の世界では「インナーチャイルド」という言葉があります。
それは過去の自分、
特に子供時代の自分の象徴です。
私には、そんな子供の頃の自分が
まだこの部屋で
遊び回っているような感覚を覚えました。
私は最後に部屋の掃き掃除をしながら、
「ここに置き去りにされた、子供の自分を連れて帰ろう」
と思いました。
・・・・
そんなふうにノスタルジーに浸っていたところ、
そうこうしているうちに
市の担当者の方が
予定よりも40分早くやって来て、
あっさりと家の鍵の引き渡しとなりました。
最後の部屋の掃き掃除を
せっせとしている私を見て、
「ああ、掃かなくても大丈夫ですよ〜!
ここはもういずれ取り壊すことが決まってて、
もう人は入れないのでそのままでいいですよ。」と言いました。
部屋を一通りチェックすると、
「はい、OKですね〜。ありがとうございました〜」
と言って終了しました。(ものの3分程度だった)
わたしはてっきり
最終日の鍵を返す時って、
まるで財津和夫の「サボテンの花」の歌詞のように
♪思い出つまったこの部屋〜を〜
僕もでてゆこう〜♪
♪ドアに鍵をおろした時 なぜか涙がこぼれた〜♪
・・・みたいな
感動的な最後になると思ったのですが、
予想していた感動的な「鍵の返却式」はなく、
非常に淡々とした作業で
あっけなく終わりました。(笑)
まあ、向こうの人にしてみたら「ただの部屋」だもんね(笑)
その瞬間、私は気づきました。
この部屋に対する思い出や感情は、
私が自分自身で意味づけをしたものであって、
それは他人にしてみたら
とくに何の意味も持たないこと。
この部屋には
私の子供時代の記憶が詰まっていると感じていたけど、
それはあくまで私の意識の中のもので、
他人から見れば「ただの部屋」なのです。
・・・文章にすると当たり前なんだけどね。
それを体感として気づいたのです。
担当の市の職員の方たちは
慣れた手つきで、ドアや集合ポストに
養生テープを貼って、封印しました。
私の子供の頃の思い出が詰まったこの部屋は、
他人にとっては、ただの一室に過ぎない。
私がこの部屋に投影していた
貧しさや苦い思い出は、
私の心の中だけのものでした。
これまで私は、この部屋に
自分の貧しさや苦しみを投影していました。
貧乏で夜になると酔った父が暴れて
母と喧嘩になって、家を飛び出す。
そんな家に育ったので、
この部屋を見るたびに
恐怖や、不安や、
みっともない恥しい気持ちや、悔しさが蘇って
この部屋がただの部屋ではなく
「子供の頃の苦しい過去」を象徴するものとなっていました。
でも、、
市の職員さんたちが「ただの一室」として
さっさとこの部屋を閉じたのを見たとき、
この部屋に意味を持たせていたのは
私自身だと気づいたのです。
それを認識すると、
いい意味で私の気持ちは一転しました。
この部屋に強く執着する必要はない。
その実感により、
私の心はずっと軽くなりました。
私たちは日常生活の中で
多くの意味付けをしています。
それが思い入れであったり、
固定観念であったりします。
思い入れが強いものは、
その感情が足枷となって
新しいスタートを妨げることもあります。
心理的な負担を無理に背負っていると感じるなら、
それは自分自身が
何かに過剰な「意味づけ」をしているだけかもしれません。
そんな意味で、退去の最終日に
やっとこの部屋を「ただの部屋」として見れるようになりました。
昨日の実家じまいの経験を通して、
私は自分自身が作り出してきた
「意味づけの力」を認識しました。
そして、そしてその意味づけを外すことで、
心が軽くなることを実感しました。
私たちが持つ感情や記憶そのすべてが、
「物事に意味を持たせるフィルター」となって
今ここにある世界をどのように見るか?
を決定している。
そう考えると、
新しい視点を持つことができるのかもしれません。
うまく文章化できている気がしませんが・・・(笑)
そんな、静かな大発見をした、
昨日だったのでした。
何度も繰り返して抜け出せない悩みに