のぼうの城と忍城の戦い | 歴史と文化と和の心♪

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こんにちは‼

だいぶ時間が経ってしまいましたが、早速史跡巡りレポ行田編に突入してまいりたいと思います←

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・・・もう『のぼうの城』が出て今年で10年になるのも驚きですが、いつか舞台地を訪れたいと思い続けた結果、昨年ようやく実現いたしました(笑)

 

『のぼうの城』は2012年に映画化されており、内容は過去の記事でも何度かお話ししているので割愛いたしますが、天正18(1590)年、豊臣秀吉による小田原攻めの際に起こった戦いを描いた作品になります。

 

昨年の大河『真田丸』でもチラッと忍城攻めのシーンが出て参りましたね‼

胃を痛める三成をチベットスナギツネのような表情で見つめる直江兼続が最高でした←

チラッとだったにも関わらず、インパクトのあるシーンだったと思います(笑)

 

舞台地たる忍城のレポを書く前に、「忍城の戦い」とはどんな戦いだったのか、真田丸ばりにざっくりとお話いたしたいと思います←

 

 

 

天正18(1590)年。

四国や九州を押さえた豊臣秀吉が今度は関東に目を付け、当時関東で勢力を誇っていた北条氏政に上洛することを促すも氏政はこれを拒否。小田原攻めが決定します。

 

この時、北条氏の支城・忍城の城主成田氏長は小田原城で籠城。

氏長の叔父である泰季が忍城の城代となり(ちなみに泰季は籠城開始後ほどなく病死。変わって長親が指揮官となる)、およそ500人の侍及び足軽ほか、雑兵・農民・町人といった3000人が忍城において豊臣の大軍勢に対峙することとなるのです(『忍城戦記』)。

 

対する豊臣方の総大将は石田三成でして、大谷吉継・長束正家といった名将の名が連なります。

軍勢は2~5万といわれ、数字だけ見るととてもかなう相手ではありません。

三成は忍城を一望できる丸墓山古墳(埼玉古墳群)に本陣を置き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定します。

丸墓山古墳からの風景

 

三成は近辺の農民などに金品を与えて突貫工事を行い、わずか5日で全長28kmの「石田堤」なる堤防を築き、水攻めを実行させます。

・・・ちなみに、丸墓山古墳の前にも石田堤がありましたね‼

 

 

が、しかし‼

 

予想に反して肝心の本丸が沈まず、まるで水に浮いているかのように見えたことから「忍の浮き城」の通称が生まれたといいます。

 

その後も忍城はなかなか落ちず、どころか豊臣軍は堤防が決壊するなど大損害を被ることに。

堤防が決壊した数日後、鉢形城を攻略した真田昌幸・信繁父子が合流。

豊臣軍は力攻めを開始しますが、対する成田軍も正木丹波守・酒巻靱負といった猛将揃い。

豊臣軍は苦戦を強いられることとなります。

写真は忍城本丸から徒歩10分の場所にある佐間口でして、石田隊と正木丹波守が激戦を繰り広げた場所になります。

正木丹波守は成田家の家老でして、この場所に屋敷があったといいます。

現在は天満社となっておりました。

近くには正木が忍城の戦いで戦死した人々を弔うために開基した高源寺もあります。

正木は戦後、成田家が改易となった後もこの場所にとどまり、翌年亡くなったそうです。

 

 

 

 

 

結果、小田原城が落城して後北条氏は滅亡、他の北条方の支城も悉く落とされる中、落城しなかったのは忍城だけだったといいます。

 

5万VS3000人で、後者が勝利・・・。

島津家久もびっくりな戦いですネ・・・。

 

 

 

『のぼうの城』で話題になるまで(自分的に)結構マイナーな戦いではありましたが、歴史を詳しく繙いてみると、なかなか興味深いエピソードが隠れていたりします。

その地域独特の歴史にも目を向けることに気付かせてくれた作品が『のぼうの城』でした。

 

過去の事ながら、知れば知るほど「新しい」歴史。

舞台地を歩いてみると、更にそれを痛感します・・・。

 

 

ということで次回の史跡巡りレポは、忍城参りたいと思います。