歴史と文化と和の心♪

薩摩発歴史好き管理人緑木の日々是奮闘記!!

歴史と文化と和の心♪-1 訪問ありがとうございます。歴史と文化と和の心♪-1

はじめまして!!

歴史大好きな薩摩おごじょ、緑木ともうします☆

小学時代、タイムリーに関ヶ原合戦400年だったことから、引きずられるように目覚めてしまいました←

日本史を学ぶうち、「本で出てきたあの場所」や「好きなあの方ゆかりの地」をぜひ五感で感じたいという思いから、地味に全国各地の史跡巡りに出かけております(笑)

・・・といっても列島南端の薩摩からなので、参勤交代で出費の激しかった薩摩のお殿様の気持ちが分かる分かる←


そして歴史書で「時空の旅」に出かけることも。

あしからず(何)


ジャンルは戦国&幕末を中心に考古~近現代、寺社仏閣、多ジャンルです。

どうぞよろしくお願いいたしますm(_ _ )m


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歴史と文化と和の心♪-1 過去の史跡巡りレポ(地域別)

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こんばんは‼
本日もえびの~霧島のドライブレポ参りたいと思います。
木崎原古戦場から道の駅えびのへ向かう途中、
「日本庭園の集大成 森岡城」
と書かれた大きな看板を発見。
 
(この辺りに近世城郭があったかな・・・?)
 
と訝しく思いながらもちょっと立ち寄ってみることに。
駐車場の前には見事な石垣や堀に
櫓が。
でも見るからに造り自体は近代的(窓がガラス張りだった)。
城門も実に見事。
・・・そしてこの建物、初めて見た気がしなかったのは、某有名番組で紹介されていたから。
 
そう、この城、(株)森岡産業さんが築城にあたっている何と個人所有の城。
この会社の社長さんが、城を築いてみたいという夢を掲げ、それを形にしたものなのです‼
 
「いつかは城を持ってみたい‼」
という夢は誰もが一度は持つかと思いますが、それを実際に形にするのはなかなか出来ないこと。
 
若い頃の夢を、時間をかけながらもコツコツと叶えていっている事は本当にステキですね!
 
 
ということで、中を見学させていただきました。
ちなみに入園料は¥500になります。
園内には四季折々の植物が植えられ、なかなか広大。
職員の方によると、敷地面積は15000坪もあるのだそう。
 
仙巌園と同じじゃないか‼
(ノ)゚Д゚(ヽ)
 
個人所有でこれだけの規模はまさに「殿さま」。
まだまだ建設途中とのことなので、今後どんな建物がお目見えするのか期待したいところです。
園内には150本の桜も植えられており、桜の名所としても知られるのだそう。
現在梅の時期なので、桜ももうすぐですね‼
茶室のような建物もありました。
小堀遠州を思わせる庭園も、風情があります。
・・・池を覗くと何と錦鯉が‼
こーれはお金かかってるはず・・・!←
また、園内の植物は宮崎や鹿児島の各所から移植したものも多々ありましたね‼
こちらの水車と柿木は鹿児島の横川町から持ってきたものなのだそう。
配色はさることながら、石・植物・そして人工物の配置が実に芸術的で、ついつい見とれてしまいます。
そして櫓部分からの景色は圧巻の一言。
本当に夢がある建物です。
人は理想を高く掲げると現実を前にしてあきらめてしまいがちですが、夢を持つということは、自分らしく生きる一つのヒントになるのではないでしょうか。
 
「だって」「でも」「どうせ」「私なんか」で生きるより、「〇〇したい」「〇〇できる」「これが私だ‼」で生きるほうが、モチベーションも上がり、人生のコマがどんどん先へ進みそうな気がするのです。
 
それが形となっているのが、この城だと思います。
夢は人それぞれですが、何だか前向きなパワーを頂けますよ(笑)
 
 
史跡ではありませんが、一見の価値ありです。
近くを通りましたら、ぜひ☆
 
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こんばんは。
本日の史跡巡りレポは、木崎原古戦場跡参りたいと思います。

昨年11月に車の免許を取得し、まず行きたかった史跡がこちら、木崎原古戦場です。
鹿児島市から車でおよそ1時間ちょっと、えびのICを降りてすぐの場所にあります。
 
実にのどかな場所ではありましたが、かつてここで「南九州の関ヶ原」と称される大合戦が展開したのです。

日向国のほぼ全域を手にした伊東義祐(よしすけ)は、小林に続き真幸院(まさきいん)への進出をはかります。
この辺りは当時島津氏が治めており、飯野城の城主はご存知、島津義弘でした。
 
伊東勢は真幸院の入口に建つ飯野城を攻略するべく、城の南側に位置する本地原(もとじばる)に進軍し、島津勢と衝突します。
本地原の戦いと呼ばれるこの戦は木崎原の前哨戦にあたり、両軍ともに勝敗が付かなかったといいます。
 
元亀3(1572)年5月、義祐ら伊東勢は飯野城を迂回し、加久藤城を攻略するべく夜襲をかけますがこちらも決着がつかず、どころか近くの木崎原で布陣しているところを島津勢に襲われてしまいます。
両軍共に奮戦するものの伊東勢は重臣たちが次々と戦死し、530人あまりの戦死者を出して敗走します。
一方の島津勢も250人ほどの戦死者を出し、合戦は終結しました。
 
戦後、伊東氏は衰退の一途をたどり、遂には親戚にあたる隣国の大友宗麟を頼ることとなります。
そして島津氏はこの合戦の後に日向国全域を制圧することとなり、三州統一が成されるのです。

激戦が展開した場所は現在古戦場公園となっており、杉の古木の周囲には六地蔵をはじめ、首塚・太刀洗川・三角田・元巣塚などを含め、県の史跡に指定されております。
駐車場やトイレも充実していたため、ドライブには最適です。
 
 
さて、戦いを物語る史跡を少し巡ってまいりましょう。

まずはこちらの石碑、古戦場巡りには必須な「戦いの名称」が刻まれております。
毎年5月4日の合戦日にはこの地で供養祭が行われているといいます。

石碑の前には三角田(みすみだ)と言われる広場があります。
この場所で義弘は伊東新次郎と戦い、槍で突き伏せたといいます。
・・・有名な伝説で、伊東新次郎の槍が義弘の首を掠りそうになった途端馬が膝をつき、義弘は難を逃れたという話がありますね!
義弘のピンチを救ったこの馬は「膝つき栗毛」と言われ、姶良市にその墓があります。
 
また、この時敵中深くまで進んだ義弘を退かせるため、6人の重臣たちが命を落としております。
 
関ヶ原の戦いにおいても甥の豊久をはじめ多くの重臣たちが義弘の盾となり戦死しておりますが、主君のために命を投げ打つことが、薩摩隼人の誉だったのでしょう。

三角田の前には、義弘の歌碑が建っております。
 
急ぐなよ 又急ぐなよ 世の中の
定まる風の吹かぬかぎりは
 
これは義弘が後世関ヶ原における敵中突破での心境を詠んだものといいますが、この歌、現代にも通じると思います。
初めて聞いたのが関ヶ原合戦400年の年だったのですが、これまでの人生において、頭ではわかっていても、ついつい先走り過ぎて失敗するパターンが多々ありました。
やはり時代を見据え、冷静な判断が良しとされるのは、いつの時代も同じですね。

古戦場の目印となる杉古木の下には、石灯籠式の六地蔵があります。
義弘は戦が終わると戦地に写真のようなタイプの六地蔵を建て、敵味方問わず供養したといいます。
木崎原のものは高さが3mありましたね‼

六地蔵の横には義弘が伊東新次郎との戦いの後一時腰を掛けたとされる「腰掛石」があります。
緊迫の瞬間から解放され、ここで一息ついたのでしょうか、歴史にIFはタブーですが、ここで義弘が討たれていたら、歴史もだいぶ変わっていたことでしょう。
 
人の歴史は、本当に奇跡の連続なのかもしれません。
 

また、古戦場公園のすぐ南を走るJR吉都線の踏切を渡ってすぐのところに、元巣塚と呼ばれる塚が建っております。

「元巣」とは薩摩藩の地頭、伊集院肥前入道元巣という人物の名になります。
当時、この辺りの村人や通行人、牛馬が突然謎の死を遂げるという不可解な事件が多発し、これは伊東勢の祟りでは、という噂が立ったといいます。
そこで元巣が村人たちの不安を取り除くべく、慶長18(1613)年に立てたのがこの塚だといいます。
 
二段式の石積みで自然石を使用しており、なかなかユニークな形の塚でしたね!

そして東へ車を数分ほど走らせたところには首塚が立っております。
この塚は伊東軍の塚と言われ、三ツ山城での首実験の後、名だたる将兵たちの首は小林の伊東塚に埋葬されたそうですが、その他の戦死者はこちらに埋葬されているといいます。
 
「元亀三年五月四日」と刻まれた首塚。とても鬱蒼とした所にありましたね・・・。

また首塚の向かい側には、合戦後に島津軍の将兵が血の付いた刀を洗ったという太刀洗川があります。

というものの、現在は渇水状態。
当時は水量も多かったといいますね!

こちらから木崎原古戦場を一望することができます。

中央の杉の古木が目印です。
こちらから見ると、ハート型でした(笑)
 
 
 
 
ということで、初心者ドライブには実に最適な場所でした!
九州の古戦場は大体が車必須の場所にあるため、これからもどんどん幅を広げてまいりたいと思います。
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こんばんは☆
ここ数日ですっかり春めいてまいりましたね‼
が、油断は禁物。まだまだ2月中旬なので、寒暖差の激しい季節。
体調管理には気を付けたいですね‼
 
本日の史跡巡りは、久留米城跡参りたいと思います。
久留米城は元和元(1621)年、福知山城(現在の京都府福知山市)から有馬豊氏が久留米藩21万石の藩主として入って以来、250年有馬氏の居城として栄えたといいます。
豊氏以前の久留米城は笹原城といい、戦国時代に高良山座主良寛(りょうかん)の弟麟圭(りんけい)の居城として以後毛利秀包(ひでかね=元就の子)、田中則政(のりまさ=吉政の子)が歴代城主として君臨していたといいます。
天守は初めから存在していなかったみたいで、四隅の櫓がその代わりだったそうです。
写真は冠木御門跡と太鼓櫓跡の石垣ですが、名残を窺うことができますね‼
 
縄張りは現在の県立明善高校から久留米市役所・久留米大学医学部を含む大規模なものであったといいますが、現在は本丸跡のみ残っております。
本丸中央には篠山神社が鎮座しております。
篠山神社には、初代豊氏・7代頼徸(よりゆき)・10代頼永(よりとお)・11代頼咸(よりしげ)・14代頼寧(よりやす)の5人の歴代藩主たちが祀られております。
 
・・・こうしてみると、読み方の難しい名前多いな有馬氏・・・←
この日、あいにくの土砂降り(死)
水たまりだらけで靴が浸水してしまいましたが、折角来たので先へ。
この辺りが、本丸御殿跡になります。
そして篠山神社周辺には、多くの石碑や歌碑が建てられております。
中でも興味深かったのが、社殿東側にある小早川神社。
毛利元就の末子で、小早川隆景の養子となった毛利秀包を祀ったもので、祠の扉にアンドレアス十字が彫り出されております。
というのは、秀包の正妻は大友宗麟の娘でして、その影響もあってか彼も洗礼を受けております(シマオといったらしい)。
 
しかし神社に十字架はなかなか面白い。
日本人ならではですね‼
 
・・・ちなみにこの人物関ヶ原では西軍についたのですが、養子兄弟の小早川秀秋が西軍を裏切ったため、小早川姓を捨てて毛利姓を名乗っております。
 
35歳という若さでこの世を去ったのが惜しまれますね・・・。
他にも、久留米藩の剣術流派『津田一伝流』の開祖遂退を顕彰する碑や
芭蕉塚、
聖徳太子の銅像など、いろんなものが建っておりましたね‼
石碑だけでなく、しっかり城の名残も残っておりました。
こちらは月見櫓跡になります。
建物は残っておりませんが、立派な石垣が城の堅固さを物語っております。
また、城内にはいくつか井戸も残っておりましたね‼
覗いてみると、暗闇に吸い込まれていきそうです・・・(((゜д゜;)))
社殿東側には、移築された東郷平八郎の茶室も見ることができます。
久留米ともゆかりが深いですからね‼東郷さぁ
そしてお隣には藩主所縁の品々が展示されている有馬資料館があります。
この日は「大名有馬家臣団」というテーマの企画展が行われており、多くの武具や書状を見学することができました‼
なかでも島原の乱における有馬氏の動向は大変興味深く、戦功書上写や戦況を追った記録が戦いの激しさをリアルに物語っておりましたね!
有馬家の家紋である龍胆車の施された裃もインパクト大でした‼
ということで、本丸の規模的にそこまで大きくはないのですが、堀や石垣で当時の様子を偲ぶことが出来ます。
やはり、その場所に存在する城址をみることで、地域の素顔を垣間見ることが出来るような気がいたしますね‼
・・・と、土砂降りにも関わらず、堀を眺めながらそう思うのでした(笑)
 
 
ちなみに
篠山神社で銀杏を分けていただきました‼
境内で採れたものなのだそう。
こういった心配り本当にうれしいですね。:.゚ヽ(´∀`。)ノ゚.:。+゚
 
 
 
日中と夜間とで寒暖差が激しいですので、インフルエンザなどにはお気をつけを‼
 
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