浜松城の紹介  前編 歴史とか天守郭まで | みどりの木のブログ

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今日から浜松城の紹介をします。

元亀元年(1570年)に、家康は武田信玄の侵攻に備えるため

本拠地を三河国岡崎から遠江国曳馬へ移します。岡崎城は嫡

男・信康に譲ります。
曳馬城を西南方向に拡張します。その際、曳馬という名称が,

「馬を引く」つまり敗北につながり縁起が悪いことから、かつて

この地にあった荘園の、浜松荘に因んで城名・地名ともども、

家康は「「浜松」と改めました。松平の松が縁起の良いものなの

で、浜松荘の名を選んだのでしょう。家康は城を整備拡張しま

すが、天守の無い土の城でした。

 

浜名湖です。

 

浜名湖観光インフォメーションセンターでもらった地図です。

地図上の方に、今年のNHK大河で有名な井伊谷と気賀があります。(ピンク枠)

井伊谷と気賀は5kmほどしか離れていません。浜松城から井伊谷までは直線

で15kmほどの距離です。

 

午後5時頃に浜松のホテルについて、すぐに浜松城に行きました。

 

最初に浜松城の歴史から

浜松城以前はは曳馬城(引馬城、引間城)が浜松の拠点でした。築城者

については諸説あります。
斯波氏と今川氏が抗争すると、この地を支配していた大河内貞綱は斯波

氏に味方するが今川氏に敗れます。その後は今川氏親の配下・飯尾氏が

この地を支配します。1514年には飯尾乗連(またはその父飯尾賢連)が

城主になります。乗連は今川氏に引き続き仕え、桶狭間の戦いにも参加し

ます。桶狭間の戦いにおいて今川義元が戦死すると、今川氏の衰退が始

まるが、この時期に飯尾氏の当主も乗連から子の連竜に代わります。
今川氏の衰退後、城主飯尾連竜が今川氏真に反旗の疑惑をもたれて、

1565年に今川軍に攻囲され多大な損害を受けますが、陥落は免れます。

この時、今川からの和議勧告を受諾した連竜は、戦後に今川氏に再属の

ため駿府への大赦御礼に出向いたが、和議は謀略で、連竜は殺されます。

これはNHK大河の伊井氏に似ています。

以後の曳馬城は、連竜の家老の江間氏によって守られますが、城内は

徳川派と武田派に分裂して内紛が起きていたため、徳川家康によって

攻略されました。
元亀元年(1570年)に、家康は武田信玄の侵攻に備えるため本拠地を

三河国岡崎から遠江国曳馬へ移します。岡崎城は嫡男・信康に譲ります。

曳馬城を西南方向に拡張します。その際、曳馬という名称が「馬を引く」、

つまり敗北につながり縁起が悪いことから、かつてこの地にあった荘園

(浜松荘)に因んで城名・地名ともども「浜松」と改めました。松平の松が

縁起の良いものなので、浜松荘の名を選んだのでしょう。
元亀3年(1573年)に、武田信玄がこの城を攻める素振りを見せながら

これを無視するような行軍をして家康を挑発します。挑発された家康は

浜松城から打って出ますが、三方ヶ原の戦いで、武田軍の巧妙な反撃

に遭って敗北します。 三方ヶ原の戦は徳川軍の一方的な敗北でした。

家康も討ち死に寸前まで追い詰められ、夏目吉信や鈴木久三郎を身代

わりにして、成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛

といった僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰えります。そのとき家康は

取り乱して脱糞したと言われます。浜松城へ到着した家康は、城門を開

いて篝火を焚きました。そして、湯漬けを食べてそのままいびきを掻いて

眠り込んだと言われます。起きた時に心の余裕を取り戻した家康の姿

を見て、将兵は皆安堵したといいます。この時に自己反省の「しかみ像」

を描かせています。浜松城まで追撃してきた山県昌景隊は、空城の計

によって警戒心を煽られ、城内に突入することを躊躇し、そのまま引き

上げたといわれます。
1582年頃に拡張・改修・城下町整備が終わりますが、石垣や瓦葺櫓

がない土の城でした。その4年後の1586年に、家康は浜松から駿府

に本拠を移します。家康の在城期間は29歳から45歳までの17年間

になります。
天正18年(1590年)に、家康の江戸への領地替えで、秀吉の家臣だ

った堀尾吉晴が入城します。彼の次男堀尾忠氏と合わせて11年間の

支配をします。この時に天守が造られました。

 

堀尾氏の時代に建てられた、再建模擬天守です。石垣は当時のものです。

 

家康・直虎・直政(彦根藩藩祖)の顔出しがありました。

 

堀尾氏は関ヶ原の戦いで東軍に味方し、その功績で出雲国富田に移封。

以後は、一時徳川頼宣の領地だった時期を除いて、譜代大名各家が次々

に入りました。近世には天守は存在しなかったようで絵図にも記載があり

ません。本丸にあった二重櫓が天守代用とされていました。

 

国立国会図書館から引用の浜松城絵図本丸部分です。天守台しかありません。

 

浜松城の全体図です。(国立国会図書館から引用)

 

浜松城は明治維新後廃城となり破壊されます。城址は1950年に

「浜松城公園」となり、1958年に鉄筋コンクリート製の復興天守が

再建されました。1959年には浜松市の史跡として指定されました。
現在の天守閣は資料館として使われており、家康を初めとした当時

のゆかりの品々を見学できますが、午後5時を過ぎていたので天守

は閉館していました。
 

グーグルより引用の浜松城地図です。赤

この地図に上の古絵図を半透明にして、拡大縮小して重ねると

古絵図を重ねた地図です。天守郭の辺りでサイズ調整しています。

中心部分は浜松市役所になっているので、復元して欲しいですね。

 

浜松市美術館です。この横を通り

 

ピンクの線に沿って歩きました。②が埋門です。

 

 

上図①の所です。ピンクの線に沿って坂を登ります。(暗いのでボケました。すいません)

 

②の石垣が見えてきました。左に葵の葉がありました。

 

徳川の家紋の「双葉葵」と少し違いますが、よく似ています。

葵紋(あおいもん)はウマノスズクサ科のフタバアオイを図案化したもので、

フタバアオイの通常の葉の数は2枚です。3つの葉をもつフタバアオイは稀

で、三つ葉葵は架空のものです。葵祭に見られるように賀茂氏の象徴で、

葵紋は賀茂神社の神紋(二葉葵・加茂葵)になっています。 その賀茂氏と

の繋がりが深い三河国の武士団は、葵紋を家紋としてきました。三河武士

である徳川家が葵紋を使用していることは、徳川家が清和源氏の末裔で

はなく賀茂氏の末裔ではないかとの説の根拠になっています。

 

徳川家の家紋である双葉葵の葉です。お借りした写真です。

 

地図②の所です。ここから天守郭に入りました。

ここは天守郭の埋門です。

 

入口に八幡台の掲示板がありました。石垣により天守台より

高い位置にあります。ここには城を守る神社の八幡台菩薩を

お祀りしていたところです。

 

天守郭の絵図です。天守郭左下に埋門が見えます。

 

葵の葉がたくさんあります。

 

天守郭に入った所です。前方は天守門です。左が天守です。

 

この右側には井戸があります。

この井戸は銀明水と呼ばれていました。天主郭の埋門横にあります。

埋門跡の石垣が井戸の背後に見えています。

天守台にも井戸があり、それは天守台の地下室にあります。

浜松城には10本の井戸がありました。

 

今日はここまでです。続きは明日UPします。

 

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