関西弁標準語化法案 | 不況になると口紅が売れる

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NHKの連ドラ「わろてんか」は、創業者の一人・吉本せいを主人公としたフィクションである。

シナリオや演出は朝ドラなので、まあアレだけど、吉本興業が伝統的な芸の世界に近代的経営を持ち込んだ史実がそれなりに示されている。給料制とか。

 

木村政雄さんの「笑いの経済学―吉本興業・感動産業への道」 (集英社新書) は2000年に出た本だが、今読んでもなかなか参考になるところは多い。

 

イノベーティブなものは歴史的に見ても、たいてい大阪から生まれる、というのは確かにその通りだと思う。

文化力も経済力も実は江戸よりも上方の方が上だったというのは、紛れもない事実であり、そのコンプレックスをバネにして、江戸文化が花開いたともいえる。

「下り酒」なんかはその典型だ。

 

最近特に思うのは、「使用言語が関西弁だったらいいのに」である。

関東弁、つまり標準語だと、言いたいことが言えない場合がある。

言いたいことを標準語で語ってしまうとそれはもう救いのない、身も蓋もない、相手を単に誹謗中傷するだけのきつい会話になりかねないのだ。

しかし関西弁で伝えられたら、言いたいことを言えるとともに、対立的になることなく、相手もその意味合いについて考えてくれる可能性がある。

「違うだろ」と指摘されるのと「ちゃうやろ」と指摘されるのでは、全然心持ちが異なってくるずなのだ。

余裕というか、余韻というか、思いやりというか、そのあたりの違いがあるように思う。

 

同書の中で、石川昭氏(青山学院大学名誉教授)の説が紹介されている。

「英語と関西弁は非常によく似ている。気楽に表現できて上下の差別がない。差別的な表現が非常に少ない」ということ。

つまり人と人とを縦にではなく、横に連結させるいう点で、ユニバーサルな可能性を有する言語なのだ。

コミュニケーション、説得、交渉、商取引などにおいて、洗練された言語なのであろう。

村の中の言語ではなく、都市で生き抜く人の言語と言い換えてもいい。

 

「遷都」という行為があるのだから、「遷語」という手法はないものかと思う。

明治期に、公用語をフランス語に変えようというとんでも提案があった(森有礼)というが、それに比べれば大した提案でもない。

今からでも遅くはない、のではないか。新元号とともに…とか(笑)。

 

日本はもはや、「忖度」などしている余裕など、どこにもない。

言いたいことをガンガン言い合う自由な土壌、インフラとは、まず言語である。

「社内公用語は関西弁」という企業が、東京にも現れてきてくれないだろうか。

関西弁標準語化法案、提出されないかな?