雑文
日本の旧家には造り酒屋を営むものが多かった、という話は良く聞きます。
しかしながら純然たる酒造業を出発点としたもの、酒造業一本でやってきたものはほとんど例外的でありましょう。
大抵は、金貸し、土地を担保とした金融で財を成し、そこから酒造業へ、というのがオーソドックスであります。本間宗久で有名な本間家などは、その発展が急激であった為にあえて酒造業へ向かう必然性が無かったのでありますが、一目山人の祖母の実家である藤田家や、その嫁ぎ先の松田家などは酒造業を一つの柱としておりました。もっとも清酒が造れたかどうか別でありまして、どぶろく用の麹販売であっても酒造業に入ります。
明治に入れば小さな業者はばたばたと潰れていくのでありますが、それと平行して大地主は更に発展していくのでありまして、土地を手放さざるを得ないという状況を加速させたものの一つが米相場、ということが言えるでしょう。
だから相場は悪いというのは当然誤りでありますが、当事者にとっては家訓にして残さねばならぬほどの問題ではあったでしょう。
この様な意識は今尚、変わってはいない部分が大きく残されているように思います。
何がいいたいというわけではないので流して下さい。