『台湾人生』ネタバレ。 | アイス ラヴさん。の甘く危険な映画日記。
私は7年前に台湾旅行に行った事がありますが、昔の日本にタイムスリップしたかのような懐かしさを感じながら、日本語をペラペラ話す老人達の温かさに癒されたのを思い出します。やたらと蒸し暑かった2002年の5月。サッカーW杯直前でした。

目的はプロ野球観戦。台北で行われた、福岡ダイエー・ホークス対オリックス・ブルーウェーヴ2連戦は、日本プロ野球史上初の台湾開催だったのです。まるで日本に初めてメジャー・リーグがやって来たのと同じような熱烈歓迎ぶりで、一球ごとに大きな拍手が沸き起こり、ファウル・ボールを掴んだだけで英雄扱い(笑)。超満員1万人のスタンドは、大興奮のウェーヴ大会へ。それは誤解を恐れずに言えば、日本人と台湾人の気持ちが一つになって起こった大きな波だったのです。親日平和友好の結束力の強さを、肌で感じた瞬間でした。

明治28年から昭和20年までの約50年間、日本統治時代の台湾で日本語教育を受けた、現在では80歳を過ぎたお爺ちゃんお婆ちゃん達5人を追い掛けた、ドキュメンタリー映画を観ました。彼らの歴史に振り回された証言があまりにもリアルで、目頭が熱くなってしまいました。激動の台湾の歴史を体験してなきゃ語れない、貴重な証言ばかり。どれもズシリと心に響くんです。

日本語世代な彼らは、今でもそれぞれ同窓会を開いて、当時を懐かしむのです。歌う校歌は、モロ軍歌!流暢な日本語で愛国心を唱えてました。戦後40年以上、日本語禁止令が出された時代もあったのに、みんなペラペラ。中には「ワタシ、ニホンゴ、プロペラヨ!」と錆び付いた方も居て、とっても楽しい。

しかし、会話の内容はかなり痛い言葉が飛び交ってました。

「日本政府は何やってんだ!何で大陸を恐れてるんだ!」

「小泉(純一郎)は、アッパレだよ!ちゃんと靖国で参拝してくれるから!」

これが彼らの本音だったのか?

彼らは戦後に日本に捨てられた世代であり、中国に苦しめられた世代だったのです。


蕭錦文さんは、少年時代に日本兵に志願。その理由が「進学」。台湾でいい学校に進学するには、日本人ならどんなに悪い成績でも入学させてもらえるほど甘くて、台湾人がどんなにいい成績でも落とされるのが現実…。ならば日本人になろうと志願。ところが、神奈川県の高座海軍工廠ではチャンコロ呼ばわりされて深く傷付き、ビルマで終戦を迎えて台湾に帰ったら、今度は中国国民党が“侵略”…。二二八事件で弟を拷問の末に殺され、自分も処刑寸前で釈放…。そんな歴史に振り回された壮絶な過去をカメラ目線で語って行くうちに、大炎上。その怒りに満ちた表情で声を荒げる姿に、思わず心揺さぶられずにはいられません。

「観光で台湾に来てくれる日本人には感謝しています。でも、私は日本政府を今でも憎んでいます。「戦時中、ご苦労様でした。ありがとうございます」なぜそれが言えないんですか?補償してほしいのではありません。その言葉だけが欲しいのです」

実際には戦時中、台湾から約21万人が志願して軍人となり、約3万人が死亡したそうです。戦後も戒厳令で暴動で、多数の犠牲者…。同じ苦しみを抱えた同胞の気持ちを代弁したかのように、これまで抑えて来た感情が一気に吐き出されて、観ていて重苦しい気分になったと同時に、日本人として申し訳ない気持ちになりました。

現在は台北二二八記念館で日本語解説員をボランティアで務める彼。今でも蒋介石の写真パネルだけは正視出来ないんです。

「若い世代に語り継いで行く事が、私の使命」

…と語る、優しい表情が印象的でした。


逆に日本への感謝の気持ちを述べるお爺ちゃんも登場。タリグ・プジャズヤンさんは台湾原住民・パイワン族出身。

「お前アホか?って言われるかも知れないけど、日本のおかげでマナーを学べたんだ。障子の開け閉めや正座、お茶のつぎ方とか、礼儀作法はすべて日本から学んだんだよ」

旧友との再会では、童謡を熱唱。曲目は「桃太郎」。

「♪桃太郎さん、桃太郎さん。お腰につけた~きびだんご~。一つ私に下さいな~」

日本人なら誰もが知っている童謡も、流暢にカバー。しかし、この曲の歌詞の内容に、日本人の正義の概念が読み取れるのだと知って、驚きました。

「きびだんごは食べさせてやる。そのかわり、天皇のために戦ってくれるよな?」

「天皇のためなら、命を犠牲にしてでも戦います!」

冷静な分析力が鋭くて驚きました。意味を理解しながら歌ってる日本人の大人や子供は居ないでしょう。歌わせるのが心配になって来ますが。きびだんごが定額給付金にも思えて来ました。

そんなタリグさんも、話す相手によって思想が変わるのが辛いらしい。


ちなみにこの映画、文化庁支援作品なのです。


楊足妹さんは15歳で働き出してから、これまで毎日休まずに働いて、5人の子供を女手一つで育てた、明るいお婆ちゃん。戦前のコーヒー栽培から、戦後のお茶栽培へと変わっても、毎日ひたすら茶摘みを続ける人生…。「働かないと病気になる」と笑う笑顔が可愛らしい。


もう1人のお婆ちゃん陳清香さんは、台湾人として日本人女学校へ優秀な成績で通った才女。少し差別もあったが気にしなかったとか。当時のモノクロ写真が日本人と同じ顔した美少女だったけど、まさか現在は野村沙知代顔に変貌するとは(笑)。「男だったら特攻隊を志願していた」と語る彼女は、陳水扁の独立運動にも参加していました。


宋定國さんは毎年来日して、お世話になった小松原先生の墓参りをするお爺ちゃん。貧しくて中学中退しようとした時に、黙って当時大金だった5円札をくれた恩人だったとか。自分を差別しなかった先生に、戦後30年経ってから再会した時の話を懐かしそうに話す彼だが、今年は日本語歴4年の孫娘と共に来日へ。

「毎日喋ってないと、忘れるよ」

そんな孫へのアドバイスに、ジワリと来ました。この孫娘、あまりにもフォーマルな敬語を使うので、ラフで流暢なお爺ちゃんとの日本語会話がシュールでしたね。

「心配なのは、来年も墓参りが出来るかどうか…」

心配なのは、あなただけではないと思います。私も心配です。

酒井充子監督が7年間かけて取材したビデオ映像を元に編集。元北海道新聞記者だけに、貴重な体験談を上手く引き出してました。上映時間は81分なのに、情報量が濃くて120分以上に感じました。普段ドキュメンタリー映画を観ない人や、若い世代が観ても、とても分かりやすい仕上がりになってたのが良かったです。歴史の勉強には最適でしょう。欲を言えば、新幹線の車内だけでなく走行映像も観たかったし、あと孫世代から観た彼らへのインタビュー映像が観たかったですね。廣木光一のカラッと乾いたアコギ演奏音楽も、臭みがなく映像にハマってました。

植民地で育った世代の苦悩が、リアルな回想証言で語られていました。だって、玉音放送をリアルタイムで聞いてた話なんか痺れましたよ。周りでそんな話を聞ける人も居ないし、居ても語りたがらないだろうし…。

戦争体験を日本語で話すお爺ちゃんお婆ちゃんは、日本だけでなく台湾にも沢山いる事を知りました。その数は年々減っている事実も、忘れないでいたいですね。


ラストでは、タリグさんが見事に締めくくってくれました。

「日本人になっても、中国人になっても、台湾人である事には変わりない」

たとえ抑圧されても台湾人、特に原住民である事に誇りを持っている所が素晴らしかったですね。

なお彼は撮影後に死去したそうですが、遺言は日本語だったので、家族は誰も理解出来なかったらしい…。何を言い残したのか?映像化されてないのが悔やまれます。

2009年6月 東京・ポレポレ東中野でロードショーです。
http://www.taiwan-jinsei.com/index.html