齋藤薫さん
美容自身より


別人のように変わっていく人は
とりあえず人を遠ざける

「見違えちゃったね」。そう言われるのは、まさに女冥利につきること。ある意味、そう思われるためにこそ、女は熱心に美容をしていると言ってもいいくらい。

 しかし厳密に言うと、「見違えちゃったね」という褒め言葉は、本来が10代までの少女の頃と、大人になった今を比べて使われるのが正しい。どういうことかと言うと、少女が大人になる時、それはサナギが蝶になる時だから、それこそいかに劇的に変わっていてもかまわない。いや、まさに別格の蝶になっていることが望ましい。もちろん外見だけじゃない。佇まいも、立ち居振る舞いも、またしゃべり方も、声の質まで別人のように洗練されていても、それが"大人の女"になることだから、それも含めて望ましいことなのだ。けれどもすでに大人になってから、蝶ではなくまた別の生きものになる、みたいに変身を遂げるのは、やっぱり周囲を戸惑わせるから難しい。

 ちょっと想像してみてほしい。1年ぶりに会った人が、別人のように変わっていたら? 変わり方にもよるけれど、たとえ見違えるようにキレイになったとしても、話し方まで変わっていたら、一体彼女はどうしちゃったの? と思われる。もちろん、常識の範囲で化粧を変えたり、髪型を変えたり、いきなりオシャレになったくらいの変化なら、どんなにキレイになっていても素直に「キレイになったね」と言えるのだろうが、何というか、一線を越えた変わりようは多くの場合、違和感を感じさせ、逆に損なのだ。

 言うまでもなく、今は美容医療の進化で、その気になれば簡単に別人になれる。だから"見違えること"の意味が少し変わってきたせいなのだろう。

 こんなケースがあった。女優のレニー・ゼルウィガー。『ブリジット・ジョーンズの日記』で一世を風靡した人だが、最近"顔"を元に戻した。何をどうしたのか不明だが、少し前あまりにも顔が変わってしまったためにマスコミに大騒ぎされ、結局、あのブリジットの頃の顔を自然に老けさせた顔に戻ったのだ。

 一説に『ブリジットのその後』という映画を撮るためとも言われるが、ともかく戻さなきゃならないほど、顔も印象も別人になり、一体どうしたの? の大合唱。戻したことで老けた印象が際立っても、そのほうが世間は安心する。ファンだった人もかろうじてファンでいられる。あまりにも変わっていく人には、たとえ親しい人間でも気持ちがついていかないのだ。一気に距離ができるのは、かつての自分を否定する価値観に対し、疑問を持つから。世間は意外にも保守的なんである。

 外見だけじゃない。「私、今日から薫じゃなく、薫子に改名したからよろしく」と言ったら、何気に友だちは半分になるだろう。それまで生きてきた自分を否定するような変わり方は、周囲も自分との関係まで否定されたように思うから。以前、本当に名前を改名して恋人に別れを告げられた人がいた。変えたこと自体より“変えてしまうメンタリティ”をどうしても理解できなかったのだろう。年齢とともに成長し、“進化”していく人はいいが、いたずらに変わっていく人はイヤ。そういうバランス感覚を多くの人が持っているのだ。

 逆に言えば、大きく自分を変えてしまう人ほど、内面だけじゃなく外見まで変えてしまうもの。だいたいが内面の変化は大なり小なり外見に表れる。だから外見が変わっていくことに対しても、世間はことのほか敏感なのだと思う。

 ちょっと気をつけなければいけないのが、いきなり太ったり痩せたりすること。もちろんわかりやすいダイエットでわかりやすく痩せた場合はこの限りではないし、体調が関係している場合も話は別だけれど、でもまさに別人のように太ったり痩せたりした場合には、むしろ心の変化が浮き彫りにされるから、人を遠ざけかねないのだ。

立場が変わるたびに印象が変わ
っていく。これだけは避けたい

 じゃあ女は一体どう変わればいいのだろう。何より大切なのは、ひたすら洗練されること。洗練が目に見えること。次期アメリカ大統領の呼び声高いヒラリー・クリントンは、20代、30代の頃とは別人。でもその激変は、そっくり良いほうに転んだ。正直とても野暮ったい印象の女性から、見違えるほど洗練された女性へと変わったからだ。それが知性の角を丸くし、好感度を上げたのだ。『麗しのサブリナ』のオードリー・ヘプバーンも、パリに留学して、見違えるほど洗練されて帰ってくるヒロインを演じたが、その結果、片思いの恋がいきなり実ってしまう。女は単にビックリするほどキレイになるだけじゃない。ちゃんと洗練されること。でないと、違和感が勝ってしまうから。

 もしくは暗かった表情が明るくなっていること。アンジェリーナ・ジョリーは、10代の頃、信じられないほど暗い、笑わない少女だったというが、社会人になるとともに人を元気にするような明るさを備え、だから成功した。洗練と明るさ、どちらも人の進化だから、変わることが功を奏するのだ。

 ただ“異様にいい人になった場合”はちょっと事情が違う。異様にカンジのいい、性格が良すぎるほど良いあるタレントの、20代の頃の映像が飛び出したら、戦慄の“感じの悪さ”でみんな唖然とした。そこまでの改心は不自然だからだ。もっと言えば、そこまでの改心ができるなら、もうとっくに改心してたはず。だから不可解さを残すのだ。そこそこ大人になった時点で“気づく”はずだから。30代になってからの“改心”には、やはり作為的なものを感じざるをえないのだ。

 そう、正しく変われる人は、もうとっくに変わっている。だから、すっかり大人になって劇的に人間性が変わること自体、どこか不自然。アザトさを感じさせるのだ。せいぜい野暮ったい人が洗練されるか、暗い人が明るくなるくらいしか、人間大人になってからは上手に変われないのだと思うから。もちろん本当に心の悪が善に180度変わったのなら、それは素晴らしいことだけれど……。

 そして絶対避けたいのは、立場が変わるたびに態度が変わっていくような変化。単純に、エラくなるほどイバるみたいな。いや、歳をとるだけで放っておいても人間、図々しくなっていくからこそ、気をつけないと。人に与える印象や、人に対する態度が、ずっと変わらないことが生きていくうえでのアンチエイジング、となることを忘れないでほしい。大人があまり激しく変わっちゃいけないという意味が、きっとわかったはずだ。「あの人、何だか変わっちゃったね」と噂される時、基本的にあまり良い意味ではないことを、もっと重く見たいのだ。

 もちろん変わっちゃいけないとは言わない。頑なに変わらないのはバカげているし、成長がないのはもったいない。向上心は当然のように持っているべきだ。でも成長や向上と、“変わってしまうこと”とは違う。成長や向上で、人にとって心地よい存在へと変わった人は、変わったことをことさらに強調したりしない。ひっそりと変わっていく変わり方が、本物の成長や向上なのだろう。だから周囲はこう噂する。「彼女は知らないうちになんだかどんどんステキになっていくね」。そう思わせる変わり方ができたら理想。