結婚の意義 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

またも「めざましテレビ」で面白いものを見ました。

「自己完結男子」

料理洗濯掃除など家事全般をすべてこなし、自分の趣味を楽しむ生活を送ることで完結してしまっている男子のこと。らしいです。
紹介されていたのは、洗濯名人の男性と、料理名人の男性、そして趣味を大切にする男性。申し訳程度に、結婚して子どもがいても新しい趣味を見つけた男性も一人紹介してましたけど、そのスタンスは「結婚するとどうしても自分の時間が減ってしまう」というものでした。

まあ実にいろんなことを考えだすものですな(笑)。

こういう人達を紹介する映像を見ながらつい「こんなになんでも自分でできるんだったら結婚なんてする必要性を感じないだろうなあ」と思ってしまうのは、根底に「結婚=妻が夫の身の回りの世話をすること」という思想が隠れているからでしょうか。

身も蓋もない言い方をすると、要するに結婚とは、男にとっては生活全般の世話をしてもらう相手を見つけること、ついでに自分の子孫を生んでもらうこと。女にとっては、男の身の回りの世話をするかわりに生活を保障してもらい、ついでに自分の子どもを生んで育てること。美辞麗句やファンタジーを取り払って見れば、究極これだけのことに尽きるような気がします。
あわよくば、自分が病気になったとき、年老いたときに、世話してもらおうという目論見
があるのは人間ならではの企みと言えましょう。

そんな、夢のないこと言わないでよ、と思われるかもしれませんけど、親が必死になって子どもの結婚を求めるのは、要するに血のつながりが途切れてほしくないからです。建前では「子どもの幸せのため」なんて言ってますけど、そもそもなぜ「結婚=幸せ」となんの疑いもなく思い込んでいるのかが不明です。自分の結婚についてはしこたま文句をいう人も多いというのに、なぜ他人には結婚を勧めるのでしょうか。
その矛盾があまりにも不思議だからこそ逆に、「自分だけ不幸なのは許せないから、他人も不幸に引きずり込むために結婚を薦めているのだ」という穿った見方すら出てきてしまうのでしょう。

結婚という制度そのものは、良くも悪くもないと思います。あるいは、いいところもあるし悪いところもある。
おそらく、なんだかんだ言っても結婚してしまう人というのは、そういう制度に適合しているか、他人と一緒に暮らすことに向いている、他人と暮らすことを好んでいる、という傾向があるのだと思うんですよ。

そういう傾向の人がいる、ということは同時に、そういうことに向いてない人もいる、ということです。
こういう制度というのは、そのときの社会と密接な関係があります。
その日食うにも困るような貧しい社会なら、とにかく人は集まって寄り添って暮らしていくしか生きていく道がありません。自分一人だけの食い扶持を稼ぎ、自分一人だけで独立して生活が成り立つというのは、実はそうとう安定した社会でないとできないことだと思います。
今の日本は、とりあえず暮らしていくことはなんとかできます。(正確に言えばできない人も現れてきてはいますが、ちょっとそれは別の問題なので横へおいておきます。)
何らかの方法で収入を得て、家を借りることができる。そして、生活技術も持っているから、食べることや、家を綺麗に保つこと、衣服を清潔に保つことなどが自分できちんと出来る。さらには、自分の趣味に没頭することもできる(そのためのお金もなんとかなる)。
こういう状況になって、この生活が快適だと思える人が、なぜわざわざ結婚しなくてはならないのでしょうか。

アンチ結婚の立場からいうと、まず結婚したら確実に自分の時間は減ります。子どもが生まれたら、女性の場合はまず100%なくなるでしょう。男性の場合は、積極的に育児に関わろうとする人だとなくなるけど、うまいこといって逃げる人だとそこそこ確保できるかもしれません。
経済的にはどうでしょうか。いくら「一人口は食えぬが二人口は食える」と言っても、物理的に食べる口は2つに増えるわけですから、絶対値としての支出は増えるに決まっています。
夫と妻がふたりとも働いていれば、収入は増加することにはなりますけど、時間の配分がまずいと、そのうちに「なんで結婚してるんだろう……」という疑問が生じるほどのスレ違いが生まれる危険性も高いです。
子どもが生まれたら、さらに劇的に変化します。「親」として生きるという役割が増えるわけです。お金も時間も気持ちも、そのほとんどを子どもに費やさなくてはなりません。
そうしなかった場合にはきつい社会的制裁が待っていることでしょう。

以上のことは、すべて反転することが可能です。というか、結婚推奨派は全部反転して言うんじゃないですか?
自分一人の時間は減るかもしれないけど、そのかわりにもっと豊かな時間が手に入る。
お金だって、二人でいれば工夫して楽しく暮らせる。
子どもにいたっては、まさに結婚の醍醐味ともいえる素晴らしい体験で、子どもを育てることで自分も成長できるのである。などなど。

一つの事実に対して、どのように捉えるかでまったく違った様相を呈してくるものですが、結婚もまた同じです。
結婚のいいところを上げる人にとっては、そういうふうに見えているし、そういうふうに感じるのが当然のことなのです。
しかし、結婚に踏み切れない、躊躇してしまう、しなくてもいいと思ってしまう人というのは、推奨派が言うようにはどうしても思えないから、しないのではないでしょうか。

よく知らない人とこんなめんどくさい話はしたくないから、世間話程度の通り一遍の会話の中では「そうですね~。結婚はしたいと思ってるんですけどね~」などと受け流したり、「◯◯さんも早く結婚すればいいのにねえ」などと適当なことを言ったりします。
でも、本当はどうなんでしょうね。
具体的に相手がいて、その人と結婚しようかどうしようか迷っているというなら、考えるべきはお互いの結婚像の突き合わせでしょう。似たようなイメージを持っていなければいずれ衝突することは必至ですし。
そうじゃないなら、結婚は無理やりする必要はないんじゃないかなあと私は思います。

生活レベルでの結婚ではなく、もうひとつ上のレベルでの結婚ならありかなと思うんです。でも今の世の中を見る限りでは、ただ感情の赴くままにくっついているか、生活のための結合である結婚が多い気がします。
感情だけで結びつくから、すぐにぶつかるし、お互いに引かないことになる。
結婚が恋愛のゴールだなどと夢みたいなことを本気で信じている人が、思いの外多いようでびっくりします。

社会全体が不安定なときは、結婚制度で人々を強固に結びつけておく必要があります。
しかし、ある程度社会が発達してくれば、そこまで結婚制度に固執する必要もなくなってきます。今がまさにそういう時代なのではないでしょうか。

この先、経済状況が悪化して社会が不安定になってきたら、また結婚の意義が見直されるかもしれません。単身者には食料を分配しないけど、子どものいる家庭には優先して分配する、とか。マイナス成長とかで物が少ない社会になっていったら、そういうことも十分起こり得るでしょうね。

つまり、結婚の意義というものは、その時その時の社会情勢によって変わってくるものなのです。
なにがなんでもつがいにならなくてはいけない、ということもないし、どうあっても法律婚をしなくてはいけない、ということもない。
子どもだって、別に無理に産まなくても(持たなくても)いいんじゃないのかなあと思うんですよ。個人の感情としては「生んでみたい」とか「子どもが欲しい」と思うこともあるのでしょう。そのことで現に苦労されている方もたくさんいらっしゃるようです。
しかしそれが、「社会通念によって思い込まされた感情」である可能性もあると思います。「血を分けた子どもを持ってこそ一人前」というような圧力とか、「女なら子どもを産みたいと思うに決まっている」というような思い込みとか。
本人だけでなく、近い身内がそういう圧力をかけている場合もたくさんあるようです。
「婚活」という言葉に象徴されるような「結婚圧力」は、その本質は「子どもを作れ」という親世代の欲望です。
もちろん生物学的に出産適齢期というものがありますから、若いうちに生んだほうがもろもろいいことは確かですけども。
でも、現時点で形成されている社会では、本来の出産適齢期に子どもを生むことは非現実的な選択であります。学生の身分だったりすると猛反対されたりもしますし、親の恣意的な介入(相手が気に食わないとか)で出産できない場合もあります。
そうやって若い時(生殖にもっとも適した時期)には子どもの恋愛を潰しておきながら、いざ歳を重ねてしまうと逆のことを言い出す、という困った親もいるんですよね。


なんにしても、今の日本では、特に結婚する必要性を感じないという人がいるのは当然だと思います。結婚の意味が変わってくればまた話は別ですけど、女性が男性の身の回りの世話をするとか、男性が女性を養うとか、そういう意味合いの結婚を無理やりする必要はないんじゃないでしょうか。
経済が悪化して、社会が不安定になれば、ほっといても次々につがいになっていくかもしれませんしね(笑)

自己完結男子。素晴らしいじゃないですか。女子も自己完結すべし、ですね。
少なくとも一部の「生活無能力者」よりはずっといいと思います。(生活無能力者というのは身の回りのことが自分で出来ない人のこと。身体や精神の障害によるものではありません)
そういう、「生活レベル」ではないところで結びつく関係というのがあってほしいと思います。