本屋のにほひ | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

自動ドアが開いて、一歩店内に入ると、ふわっと香る。

紙の匂い、インクのにおい、全部まとめて本の匂い。

薄暗い図書室のイメージが脳裏を横切る。懐かしく、心落ち着くにおい。


今日もたくさんの本たちが私を出迎えてくれる。

子供向けのコーナーは、郷愁を誘う。絵本や、児童書。うん、いつもそこにいるね。

最近増えてきたケータイ小説のコーナーは、まるで繁華街のようにきらびやかだ。

ラメ入りの装丁、パステルカラーの表紙。踊るひらがな、カタカナ。


でも私のお気に入りはなんといっても新刊コーナーだ。

今日は新聞の書評で見かけた本を見つけた。

沢村凛の「脇役スタンド・バイ・ミー」 

この人の小説は何かのアンソロジーで一度読んだことがあるんだけど、読みやすくて面白そうだったから、ちょっとチャレンジ。


このごろ頭悪くなったのか年取ってボケたのかわかんないけど、文章の好き嫌いが激しくなってしまった。思わせぶりが強かったり言葉がねじれてたり、何について語っているのかわかりづらい文章が全然読めなくなっちゃって。興味が続かない。ま、残り少ない人生、嫌いな文章を無理して読むこともあるまいと腹をくくったので、ぱらっと読んですとんと落ちてくるものしか読まないことにしたのだ。


おそらくこの世で一番好きな場所だと思う。本屋。

厳密に言うと品揃えに左右されるんだけど、まあ、本屋というだけでだいたいよしとしてしまう。

いっとき、「書く人」になろうとしてもがいていたころ、本屋へ行くと押しつぶされそうな気持になることがあった。ずらっと並んだ本たちが、「ほら、こんなに書くことがあるんだぞ。こんなに書いてる人がいるんだぞ。おまえは何をしているんだ」と責めているような気がしてならなかったのだ。そうだよなあ、あたしは何してるんだろう。もうこんなにたくさんの人が、ありとあらゆることを書いているのに、私なんぞが何を付け足そうと言うのだろう、と心底打ちのめされたりしたものだ。


調子のいい時には、タイトルを眺めながら「おお、こういうのもありだな」と創作意欲をかきたてる材料にする。

「なんだか書けそうな気がする~~~」と高揚したものだ。(まあ、これはさほど持続しないのが常だったが)。


そして、最近は。

「書く人」対「読む人」の割合が逆転し、1対9くらいになってきた。もうほとんど「読む」専門。そうしたら、たくさんの本を見ても圧倒されなくなってきた。タイトルたちももう私に迫ってこない。書棚をずーっと眺めていても、「ふ~ん」って感じで軽く流せるようになってきた。とてもこころ穏やかである。それと同時に好き嫌いがはっきりしてきたんだと思う。興味ない本は見事にスルーだ。以前はそれでも勉強のために読まなくてはいけないのではないかという強迫観念に襲われて、でも読めなくて落ち込んだりしていたのだが、もういいのだ、読まなくていいのだ、と割り切ってしまったので、全然平気になった。大きな賞を取った作品でも、文章が(私にとって)読みにくければパス。話題の作品もそう。そうやって自分が読みやすいものだけ読もうと心に決めたのだ。


漫画に関してはずいぶん前からそうだった。

好きな絵柄というのが厳然としてあって、そうじゃない作品はどうしても最後まで読むことができない。だからあんなにたくさん出版されていても私が買える漫画はごくわずかしかない。佐藤史生さんなんてすごく好きなのに、最近全然お見かけしません(泣)大島弓子さんも寡作だしなあ。萩尾望都さんと吉田秋生さんががんばってるからなんとかやっていけるのよ。・・・とと、つい愚痴がしょぼん

そういえば、知り合いがこぼしてた。子供が漫画ばっかり読むのよ~って。

何読むの?と聞いたら「火の鳥」っていうので、思わず「それならいいじゃない!」と言ってしまった。だって、あの「火の鳥」ですよ?手塚先生の傑作。あれは文学だと私は思ってる。「火の鳥」「ブラックジャック」「ブッダ」は絵で描かれた文学ですよ。


漫画はね。口もとの1本の線ですべての感情を表現できるときがあるからすごいのよ。



思わず漫画について語ってしまった(*゚ー゚)ゞ



たとえへばっていても落ち込んでいても、本屋へ行けば元気が出る。

今日もそうだった。

ありがとう、本屋さん。本