一流とは何かね? | 10月の蝉

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昨夜の「エチカの鏡」。驚きの英才教育!というアオリで、学習塾と0歳児教育の人が取り上げられていました。


「スーパーエリートを作る」とか、「人の能力は0歳のときに決まる」とか、こういう話を聞くと、まず瞬間的に反発を覚えてしまうのはなぜなんだろうか。

かねてからそれが不思議でした。もちろん、すごいなあとは思うんですが、必ず「でもねえ」と思ってしまう。

中学受験のために、毎日みっちりと勉強をしている子供たち。「エリートをつくりたいんです」と熱く語る先生。(「私は基本的に熱い人間がダメなんですよ」とタモリさんが言ったのには激しく同意してしまいましたが)

番組に出てコメントしていた子供たちは確かに聡明そうで、将来の夢が政治家だったり医者だったり、世の中をよくしたいという希望を語っていて、頼もしいなあと思いました。そういう人も世の中には必要ですから、この学習塾に通って、有名中学に進学し、ぜひ、世界を支えるエリートになってもらいたいと思いました。

でも、それと自分の子供をそういったところに進ませるかどうかは別問題。


脳科学の見地から独自の育児法をあみだした久保田先生。7カ条の中身は至極まっとうなものでしたが、それを実行したから必ず一流の人間になる、という保証はどこにもないです。

番組を見ていて面白かったのは、この先生のご長男の紹介の仕方でした。ご自身が語るように「壮大な実験」を行った最初のお子さんですよね。この方は高校を出た時点で「行きたい大学がない」ということで、4年間自宅で独学されたそうです。そして4年後建築現場で働いたと。

「ふう~ん」と思いました。この先生が目指していた「一流」というのはこういうのも含むのか、と。そしたら字幕スーパーが出て、「長男はその後一級建築士の資格を取った」ですって。それってフォローなんでしょうか……。

次男の方は東大に行かれたそうで、この方はインタビューに答えている映像がありました。

久保田先生の真意はともかく、番組の作り方としてこちらに流れてくる意図は、まるで「長男はちょっと失敗。でも次男は東大に入ったから成功」という図式になっていたように思いました。


ここで思うのは「何を持って一流と判断するのか」という基準のことです。

現実に世界には「スーパーエリート」としか言いようのない人々が存在していることは確かです。この不確かな世界で、先を見据え、現状を解析して、行く末を判断している人たちがいるからこそ、なんとか世界が秩序を保っているのだと思います。

ただ、そのことと、子供にいわゆる「英才教育」というものを施して東大に入れる、ということの間に、いかなる関係があるのだろうか、と思うわけです。

東大に入るのはそりゃあ大変です。なにが大変って、試験問題が難しいあるいは受験で高得点を出さなければ合格しないのです。その試験問題を解くために長い長い時間勉強をしなくてはならないのです。その努力が無駄だとは思いませんが、すべての子供たちがそれを「しなくてはならない」とはどうしても思えないのです。


そもそも、ある特定の人間を「作る」なんてことがはたしてできるものなのだろうか、と思うのですね。教育の効果というのは結構限られた範囲でしかないように思うのです。機会は平等に与えられるべきでしょうが、結果まで平等にはならないでしょう。それはその個人が生まれ持った資質というものが関係してくるわけで、「瓜のつるになすびは生らぬ」と昔の人はうまいことを言ったものです。

人間は機械のように「こうしたらこうなる」とはいかないものだと、子供を2人育ててみて痛感しました。同じようなことをしても、その結果は全然違うものになる。考えてみれば当たり前のことなんですけど、自分が親になって子供を持つと、そのことがわからなくなってしまうんですね。たとえばよその子がカードで字を覚えた、じゃあうちの子もやってみようと。でも子供はカードに全く興味を持たない。すると焦って子供を叱りつけたりして、「うちの子はダメだ」と嘆く。

他の人間に有効だった手段が無条件に自分にも有効だと思い込んでいるから起きる悲劇です。


たまたま成功した。そのくらいに思っておいた方がいいなあと思いながら番組を見ていました。だいたい子供を一流に育て上げたからと言って、だからなんだというのでしょうね。一流なのはその子であって、その母ではないし。東大に入ったのはその子であってその母ではないのですから。そういう母子一体幻想は早く捨てた方が楽だと思います。


英才教育に熱心な人を見るとすぐさま反発を覚えてしまうのは、私がダメ母だからだと思います(笑)。がんばってる人を見ると後ろめたいの。(*゚ー゚)ゞ