子供は白紙ではない | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

うちの斜め裏の家に、赤ん坊が生まれたらしい。たしか2人目。

その家もうちも窓を開けているので、泣き声がよく聞こえてくる。にゃあにゃあ、という猫の声にも似た、新生児特有の泣き声。


赤ちゃんは、まっさらの状態で生まれてくるのです。

などという言い方を聞くことがあるが、数少ない私の経験で言うと、それはちと違う。

社会常識や、知識などはたしかになにも持ってない。白紙の状態である。でも、だから、お母さんの育て方で子供はどんなふうにでもなれるのです、ということはないのだ。


では、どんな状態で生まれてくるのか。

それは、「物事の好みをはっきり持っている」という状態だ。細かいシチュエーションは事前に設定できないから、「こういうのが好き、こういうのは嫌い」という物差しを持って生まれてくる。

抱っこの姿勢、おっぱいの量、オムツを換える頻度、どの子もみんな違うのだ。

同じ一つの刺激に対しても、千差万別の反応が存在する。

なぜかなかなか泣きやまない赤ん坊の声を聞きながら、なんでかなあ、と思う。

親が知らん顔をしている、ということは考えにくい。あやしても、何かが気に入らないのだろう。その「何か」とはなんなのか。なんで、あの子はなかなか泣きやまないのか。


もうちょっと大きくなると、その違いはいよいよはっきりしてくる。

一人しか子どもがいないとちょっとわかりにくいかもしれないが、ふれあいなんとかみたいなところで、よその子を見てみるとよくわかる。

ボールプールで飛び込む子。外から眺めているだけの子。ボールを外へひたすら投げる子。ひとつのボールをずっと舐めてる子。まったく興味のない子だっている。

クレヨンで絵を描くにしても、同じ色ばっかり使う子。さまざまな色を使う子。きれいに塗り分ける子。めちゃくちゃに色を重ねる子。そしてやっぱり興味を持たない子はいる。


小さい子供は何もわからないし、自分というものがないのだから、親が導いてやらなくてはいけない。あるいは、導いてやればどんなところへでも行ける。世間一般ではそう思われているようだ。

その子がどうしたいか。なにが好きか。ではなく、「何をやらせれば世間が認めてくれるか」というところに基準をおくから、時として息苦しさのあまり爆発してしまうのではないだろうか。


親が自分になんの期待もしていない、と思うとさびしいものがあるだろう。でもその期待が実は「親自身の願望」にすぎないとしたら、期待に応えるということがそのまま親の顔色をうかがうということにつながってしまうのじゃないだろうか。


親が子供にしてやれることというのは、「勉強しろ」と尻をたたくことではなく、「あの学校へ入りなさい」とプレッシャーをかけることではなく、その子が本来伸びていけるであろう方向へ、うまく道を示してやることだけではないか。そして余計な口出しをせずにじっと見守り、こけたら黙って傷の手当てをしてやり、いつの日か自分の力で飛び立っていくのを見送ることだけだと思う。

間違っても自分の願望を「子供への期待」という言葉で取り繕ってはいけない。

その期待は、応えられなければ親が落ち込み、応えられれば子供がつぶれる。ごくまれに、願望と期待が一致する場合もあるが、それは、僥倖というものだ。


あるともわからないような道をよろよろと歩きだし、不安になって振り返った時に、「それでいいよ」という親の笑顔があったら、どれだけ励まされることだろう。


サウイフモノニ、ワタシハナリタイ。