世界という言葉の意味には二種ある。
それをここで「セカイ」、「せかい」と呼ぼう。
「セカイ」を、部分としての世界、
「せかい」を、全体としての世界とおく。
どうちがうのか。
白い紙に、円を書いてみよう。
その内側に、「セカイ」と書く。
セカイを黒く塗りつぶしてみる。
では、そのまわりの、白いスペースはなんなのか。
セカイの外側?
じゃあ、その外側のスペースをも含みこんで、
「セカイ」ということにしよう。
紙全体を世界とするなら、じゃあ、その紙を壁に貼って
みよう。
今度はその外側のスペース(壁だけど)はなんなのか。
セカイの外側?
じゃあ、その外側のスペースも含みこんで…。
このように、ある範囲を「セカイ」の全部とおくと、
必ずその外側が発生して、ぼくたちが考えたい
全体性の「せかい」ではない。
外部があるってことは、部分ってことだからだ。
境界を持つ限り、外部を持ち、全体ではない。
ということは、全体性としての「せかい」には境界も
外部もないということだ。
ここからがすこしむつかしい。
「せかい」は境界も外部もない。
したがって、「せかい」においては、「ある」も「ない」も
ないのだ。
むつかしいか。
よし。先の紙に戻ろう。
白い紙の上に黒い鉛筆で円を書けば、そこに円がある
ということがわかる。
そりゃそうだね。
では今度は、黒い紙を用意して、そこに鉛筆で円を
書いてみよう。
円がよく見えません。そりゃ、ね。
このことからわかるのは、あるもの(ここでは鉛筆で書いた円)
が、「ある」っていうには、そのもの(円)の他に、それではない
もの(白い紙)が「地」として必要だってことだ。
「ある」ためには、それではないもの=「外部」が必要ってことだ。
いま、「せかい」には「外部」がない。
外部がないものを「全体性」って呼んだからね。
外部があるならそれは「部分」だもの。
だから、全体性の世界、つまり「せかい」は「ある」とは言えない。
どうよ、わかった?
ちなみに、ぼくがここで言った「せかい」のことを、ハイデガー先生は
「存在」と呼んだ。
だから、ハイデガー先生は「存在は存在しない」とも言っている。
いまのぼくらには、こんなややこしいことばも「なるほどねっ」と
よくわかるね。