ちょっとした合間のじかんに考えていたことをメモしておく。
・哲学とはどういうことだったろうか。
「他者性に対する敬虔さ」のことではないか。
つまり、「よくわかんないけど、すごそう。」ってこと。
哲学の性質は、「翻訳」である。
翻訳とは「誤訳」であり、すり替え、必然性のない分節と対応。
未分節でアモルファスなもやもやとした全体性を前にして、
それを分節しゼロサムの二項対立を連鎖して捉えていく。
記号とはそもそもにしてデジタルってこと。
「占」とは、「ボク」と「サイ」でできているけれども、
それは、世界の亀裂の予兆、
世界の亀裂=世界への最初の一撃。
「乾坤一擲」って、分節によるアポロンの立ち上がりだ。
分節作用=異化作用=意味作用。
だから、はじめから、部分性は全てフェイクなんだね。
・「世界とは物語であった。」という言葉について。
□君の瞳で見つめて
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10447199293.html
この言葉には二重の意味が被せられているようにおもう。
世界は、「セカイ」と「せかい」が、
ものがたりは、重心を置く位置によってふたつ。
「もの」がたり、と、もの「騙り」。
…と、ここで「世界」の説明をはじめたら思いのほか
ながくなったので別にエントリを立てた。
□全体としての世界は、ない。
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10452245793.html
物語についてはまたそのうち。
「僕がきみで、君がぼくなんだ。」
□語りとはなんだろうか。
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10430219183.html
ぼく、きみは、具体的に人間を指しているが、
「僕」や「君」が指すのは機能のことだと思う。
これももうすこし考えてみる。