食の真実⑥ 食肉万能思想への裏工作 | 世界の真実 地球レベルで地球をよくしていく為のブログ

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何故、日本人は、食肉文化を信奉するようになったのだろうか?



 それは先の大戦であった、日米戦までに遡(さかのぼ)る。 



昭和16年12月8日の日米戦の開戦において、その発端は、日本がアメリカの言い成りになり、米世界戦略の傘下に取り込む事であった。



その政策の一つに盛り込まれていたのが、欧米的な食生活を日本全体に普及させることであった。



 この意図は、大戦末期になると、アメリカの意図が露(あらわ)になって来る。



太平洋戦争では、アメリカが日本に対し、執拗なまでの情報戦が繰り広げられた。


その情報戦による一つに「伝単」(【註】中国語に由来する「宣伝ビラ」のこと)なるものがあった。


アメリカの謀略放送に加えて、米航空機から撒(ま)かれる「伝単」なるものが空から降って来た。 



これは逼迫(ひっぱく)する戦況の中で、一種の意図的な誘導を持つ心理戦で、爆弾や銃弾を広告チラシに置き換えた「戦争」であった。



 まず、アメリカは「爆弾後の生地獄」と題した伝単を日本人の頭上に降らせた。



アメリカは、日本の本土空襲に際し、爆弾投下予告として伝単を空から散布したのである。



日本国民に、恐怖心を植え付け、また軍部の戦争指導に疑念を持たせる心理戦を展開したのである。
近代史の新たな戦争である。







▲「 爆弾後の生地獄」の表面






▲「爆弾後の生地獄」の裏面拡大表示 



多くの日本国民は、この心理戦にまんまと嵌(はま)って行く。



日本軍は大本営発表として、国民が伝単を拾う事を禁止した。



 一方アメリカでは、戦時情報局心理班(OWIPWT)という組織がつくられ、航空機による伝単散布で、日本国民の撹乱作戦に踏み出した。



この心理班は、日本語に堪能(たんのう)な亡命日本人や日系アメリカ兵を始めとして、かつて日本に棲(す)み、日本で教育を受けたアメリカ人留学生等から組織されていた。



そして伝単政策にあたっては、天皇批判は避けて、戦争指導を行っている陸海軍部の軍首脳を叩き、日本国民に厭戦(えんせん)気分を助長させる心理戦に出たのであった。



 これ等の中で、特に注目すべきところは、「爆弾後の生地獄」と題した伝単の中の裏面に、当時の戦争指導を行う軍部の弊(へい/良くない事)を説き、威嚇(いかく)と柔躙(じゅうりん)とをもって、戦争の終息を促すチラシを空から散布したのである。



 そして、そこに上げられたものは、「四つの自由」というものだった。




▲「四つの自由」に列挙されたものは、「欲望の自由」「言語の自由」「恐怖からの自由」「壓制(あっせい)からの自由」であった。 





また一方、日本軍も慢性的に物資が欠乏する中、これに負けず、米兵陣地に対して、郷愁(きょうしゅう)を誘う為に「お色気」で迫る伝単を使ったのである。



大戦末期になると、日米が心理戦に出て、終戦まで、日本軍大本営参謀本部第八課では、推定で170種以上の伝単を使い、凡(おおよ)そ1350万枚がばら撒(ま)かれたとある。 



これに対しアメリカ側は、食糧難不足で飢餓状態にあった日本人の食欲を掻き立てる為に、豪華な寿司の写真をカラーで刷り、飢餓感を掻き立てたる心理戦に出たのである。





▲豪華な寿司のカラー写真を載せた、日本人の飢餓感を掻(か)き立てた伝単。 





日本人は、もうこの時に、アメリカの食糧政策の罠(わな)に嵌(は)められ、食物性食品から動蛋白への画策が行われていたのである。





▲アメリカのコミック紙に出て来るような絵柄のグラマー女性を登場させ、悩まし気な殺し文句で、米兵を悩殺し、戦意を失わさせようとした大本営参謀本部第八課が製作した苦肉の伝単。
当時の大本営はこの程度の低レベルだった。 






アメリカ軍の、空から散布した豪華な寿司のカラー写真の伝単は、日本人を忽(たちま)ちにして飢餓感に陥れた。



そして、アメリカ側の巧妙なところは、寿司が欲しければ、「飛行滑行場の東南方の交叉点(こうさ‐てん)に十字型を書け」というものだった。



これは日本兵ならびに日本国民に投降を促したものであった。



 先の大戦を、日米の食糧事情から観(み)た場合、
その背後に浮かび上がって来るのは、

これまでの日本人の食体系を破壊して日本人を骨抜きにする政策が、太平洋戦争当時、既に錬られていた事である。



 日本人は古来より、穀物菜食を伝統として来た。



しかし、江戸時代に入り、オランダ文化が流入して来ると、西洋の肉食肉食が次第に、日本人にも浸透する事になる。



そして明治維新を迎え、欧米化の食文化が雪崩込んで来ると、牛鍋(ぎゅうなべ)やスキ焼きなどの肉料理が広がり始める。



そして、やがて西洋気触(かぶ)れの栄養学者達によって、「肉を食べる事は健康に非常に良い」と言う折紙が付けらられる。



こうした学者の言は、庶民にも信仰される事になり、瞬(またた)く間に普及するようになる。



 しかし、地方の山村や漁村などの田舎に於ては、依然として穀物菜食や魚介類、海藻類が中心で、食生活には余り変化が見られず、今日のように全国津々浦々まで食肉が当たり前になるのは、近年になっての事である。



 肉食文化を日本に持ち込み、肉の動蛋白の持つアミノ酸の優秀性に評価を発したのは、現代栄養学者達であった。



そして「肉食をしなければ

栄養のバランスが失われ、


病気になる
と嘯(うそぶ)いたのである。 



この学者の言を多くの日本人は信じ込み、食肉万能の食思想が日本の食体系の中で重要なポストを占めるようになる。



この思想に拍車が掛かるのは、日本の太平洋戦争敗北の事である。



日本は確かに、この戦争で多大な敗北を喫したのである。



軍部の戦略や戦術、あるいは物量で負けたばかりでなく、

思想的にも、文化的にも、食体系的にも、総て敗北したのである。




つづく